最近、一致団結とか、皆でワイワイとか、皆で1つになってとか、そういう行為が減っている気がします。

それだけ、価値が多分化されてきたのです。

以前は、全ての価値が「富国強兵」にあり、次は「経済的な満足」になりましたが、今は「心の満足」にシフトしてきています。

21世紀は、心が満足しての幸せなのです。

では、どうすれば心が満足するのか?その答えはありません。

それは、皆、価値を置くものが違うからです。

さて、その中で、最初に書いたような、皆でワイワイとか皆で1つになってとか、そういう行為に対しても、価値があると思う人と、思わない人に分かれてきています。

もちろん、それが当然な流れなのかもしれません。

そしてもう1つ、6月25日の「価値を置くもの(3)」に書いたように、ある程度年をとると、何故か皆でワイワイとする時に、酒が付いてきます。
もちろん、それが悪いことだとは思いませんが、「価値を置くもの(3)」に書いたような、意見が出てきて、参加したくないということもあるでしょう。

しかし、何度も書いていますが、人間は1人では生きていけません。1人では生きていけない以上、ある程度、一致団結をしたり、その楽しみ系として、皆でワイワイといったことが、必要だと思います。

その中で、こういった一致団結を推奨する人は、団結したがらない人間を説得するべきだと思います。6月16日の「北朝鮮人権法案から考える」にも書きましたが、3割の人は、反抗します。そんな人に屈する必要はないのです。それを打ち負かすだけの理論武装をしてください。
そして、なぜ酒が必要なのか、きっちり説明して説得してください。

自分が楽しみたいからではなく、人を楽しませるには、どうすれば良いのかを考えてください。

古い伝統を盾に、自分の考えを押し付けるのではなく、なぜ、その伝統を行使したいのかを説明してください。

もう、「伝統だから」、「前からやっているから」という理由では誰も納得しません。

それが、価値の多分化だと思います。

古い伝統に価値を見出せなくなってしまった人に、「伝統だから」という言葉は、何の力もありません。

例えば、「はじめ人間ゴン」に出てくるような石のお金に、「昔はお金だったから」と言う理由で、お金の価値が出ますか?出ません。
しかし、「このお金は、考古学的に価値があるから、高値で取引ができますよ」と言えば、若干の価値が見出せるでしょう。

この2つの話、大きくは違わないと思います。
私にレポートのいろはを教えてくださった恩師が、こんなことを言っていました。
「君らはコピー文化に浸りすぎている」

コピーは簡単です。コンピューター上であれば、ドラッグして、「Ctrl+C」&「Ctrl+V」で終了です。
そうでなくても、コピー機にかけるだけで簡単に複製できてしまいます。

一昔前は、友達のノートを一生懸命写したものです。

実は、昨日の「ブログについて考える」にもつながるのですが、コピー&ペーストが容易なことが、現在のネット上の問題の1つです。
近年、話題の著作権法の問題もここにつながります。

本来、コピーすることは、とても大変でした。大変だったからこそ、模写や書写という文化が生まれ、評価されていたのです。

しかし、それが非常に簡単になってしまった。そのギャップに、人間の文化が追い付けていないのが現状だと思います。

私達は、簡単にコピーできることが、当たり前になってしまったのです。
そして、今まですごく大変だったコピーが簡単になり、誰にでもできるようになりました。
今まで自分にできなかった事が、簡単にできるようになれば、やりたくなるのが人間です。

チェーンメールが郵便できたらどうしますか?さらにコピーして、他の誰かに転送しますか?
コンピューターで簡単にコピーできるからこそ、転送してしまうのです。

私達は、今、善悪に関係なく、コピーできることが嬉しくて嬉しくてしょうがないのです。コピーしてみたいのです。これは好奇心です。

コピーして、コピーして、自分が満足するのを待っているのです。

コピーすることが、悪いことか、良いことか、まだ理解できないのです。それ以上に嬉しいのです。

もちろん、コピーすることが全て悪であるという見解はまだ、見たことがありません。
しかし、コピーすることが、悪である部分は、あります。

私達は、善悪に捕らわれず、コピーするのです。そして、コピーすることになんら抵抗を感じない。
実は、バトンもそうなのです。人の考えた質問を簡単にコピーする。

この現状が良いことなのか?悪いことではないと思いますが、決して良いことではないと思います。

しかし、文化の一部であることは間違いありません。
コピーが容易だからこそ生まれた文化。

そして、そんな私も、コピー大好き人間なのです。
節度を持って、コピーしていきたいとは思ってはいるものの、他の方の権利を犯しているところはあるでしょう。

難しいところです。
「ここではバトンは答えません」と公言していますが、皆さんのブログを読ませていただくと、本当にバトンが多いことがわかります。

もちろん、私自身、こういう流れは、悪いことではないと思います。

さて、最近流行っているバトンですが、昨日取り上げたmixi問題の裏側にこのバトンが大きな役割を果たしていると書いてありました。なるほどと思いました。
(この記事は、YAHOO!ニュースに書いてあったので、プロの意見として受け止めて良いと思います。)

まず、バトンは、ある種のチェーンメールと化しています。

バトンの最後には、必ず、「回す人○人を指名しなさい」と書いてあります。

チェーンメールの特徴は、「○○なので、なるべくたくさんの人に転送してください」と書いていることです。

バトンの最後の質問は、違う読み方をすれば、そう読めるのではありませんか?

さらに、このバトンが、実は、昔で言うところの「不幸の手紙」と同じ役割を果たしていることにお気づきですか?

バトンの最後の質問は、「回す人○人を指名しなさい」です。
もちろん、不幸の手紙と違って、精神的拘束力には天と地ほどの差があります。
回さないことへのペナルティーもありません。
しかし、簡単に止められる人は良いですが、回してくれた人のことなどを考えると、止められないと思うの人も少なくないと思います。

その人たちにとっては、正に、ある種の「不幸の手紙」です。

また、皆さんが、どのような気持ちでバトンのやりとりされているのか判りませんが、バトンのメリットは、皆が同じ質問に答えると言う事ですが、逆にデメリットは、各ブログにオリジナリティーがなくなることです。
もちろん、同じ質問に答えることによって、新たに見えてくるものもあると思いますが、自分の自己表現の場であるブログで、他人に与えられた質問に答えるだけと言うのは、あまりにも寂しいことではないのかと思います。

また、人から与えられたことにしか答えないブログに価値があるのでしょうか?
もっと言えば、せっかくの自己表現ができる場で、自分で自分のことを表現することを考えない人間に、どれほどの価値があるのでしょうか?

もちろん、これは極論であり、100%当てはまる人はいないと思いますが、バトンに答えると言う行為に、こういった裏側があるのは、間違いないことだと思っています。

もちろん、私自身は、皆さんのバトンを読むことは、嫌いではありません。しかし、バトンの裏側の性質とは、実は、そういうものなのではないでしょうか?

何をするにも程々に、と言うことでしょうか?
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0606/23/news077.html

ニュースに無かったので、自分でリンクを貼ります。

チェーンメールとか、存在をすっかり忘れていたのが現状です。
ブログを書かせていただいている人間として、気をつけなくては。

私の世代の認識としては、ネチケットやチェーンメールに関する知識は、あるとは思います。
しかし、ここまで、インターネットが身近になってしまうと、その知識をそこで使わなくてはいけないと言う認識が低くなってしまっているのが、現状だと思います。

私自身も、ここで、今回のような事件に出くわしてしまった場合、おそらく、リンクして紹介するでしょう。コピー&ペーストはしないと思います。
これは、少しでも被害が減ればという思いからです。

こういう話は、何も珍しい話ではないと思います。

善意からの行動が、パニックへの引き金になるのですから。

ところで、一番最初に書いた人は、ネタのつもりだったそうです。そのネタをネタとして受け止められない無知な人間が、予想外に多かったということです。

そうなんです。今までは、ある程度優秀な人が発信した情報、あるいは、ある程度監視された情報しか、不特定多数の人の目に留まることはありませんでした。

しかし、インターネットのホームページ、ブログ、掲示板は、誰だって書くことができる。つまり発信することができます。
そう、私のような、駄目学生の意見だって、このように世界中に発信することができてしまいます。

もちろん、今のこういう状態は評価できる状態です。

しかし、例えば私の戯れ言に、どこまでの真実味があるのかと言うと、それは、しっかりと取材し、吟味された新聞、TV、書籍と比べると天と地ほどの差があります。(もちろん私の意見が地です。)

インターネット上の情報は、もちろん多くの真実が隠れていることは間違いありません。しかし、その中に、今回のようなネタや嘘、誤報が含まれていることは、間違いありません。そして、その確率は、新聞、TV、書籍と比べると、信じられないほど高いのです。
さらに、情報発信者自身が、その情報に責任を持っていないのも現状です。

これは、5月31日に書いた「2チャンネルについて考える」に近からず遠からずのことが書いてあるので、そちらも参考にしてみてください。

その中で、インターネット上の情報をどう利用していくのかが課題になってきます。

もっと、しっかり勉強をし、真実を見極める力を養う必要があります。

そしてなにより、自分の発信した情報に対しての責任を負うことが大切だと感じました。
今日で、ここにお世話になり始めて、2ヶ月となりました。
めでたく、カウンターも3000を越えまして、予定よりも速いカウンターの回転に若干戸惑っているところもありますが、私なりの考えをこれからも書けていければと思っていおりますので、これからもよろしくお願いします。

さて、今日は、以前から一度やってみたかった、ここのテーマである「へぇ〜、こんな考え方もあるんだ〜」と思うリンク先の方々を勝手に紹介させていただきます。

まず、特筆すべきはkajさんです。

今までのコメントのうち、kajさんのコメントが一番多いです。
kajさんは、私とは180度くらい違った考え方を持たれているようです。正に、「へぇ〜、こんな考え方もあるんだ〜」と、思える内容になっているかと思います。
しかし、最近、どうも似ている部分あるような感じを受けています。
少々、難しい言い回しをされていますので、理解するのが大変ですが、良いことを書かれています。是非、一度読んでみてください。

次にFruitsさん。

Fruitsさんもよくコメントを頂きます。若干、私と考え方が似ているようです。
お母さんの視点から書かれていたり、また、普段の生活の中から、感じたことを書かれているところに圧巻です。
身近な話題から深いところまで読み取れる、そんなステキな日記です。
わかりやすく読みやすいので、一読の価値ありです。

雪見さん

男と女について、普段の駆け引きの中から、面白いことを書かれています。
男の方は非常に勉強になるのではと思います。
また、お医者さんだそうで、その関係の命についても書かれていることもあり、非常に勉強になります。
不倫ではないことを祈るばかりです。

ヴァルハートさん

時々、勝手に紹介させていただいています。
若干、読みにくい点と、本当に良いことを書かれているのに、それがおまけのような構成になっている点が残念に感じます。
学生、生徒が思い悩むであろう点をズバッと切っているのが面白いと思うのと同時に、非常に感心させられ、また学生として参考になります。

関西人さん

SMAPの中居くんが大好きな看護師さん。一方的にリンクさせて頂いています。
一見、中居くん大好きブログに見えてしまうかもしれませんが、それ以外の人間的な部分の方が記事としては多いです。
周囲の人にとても恵まれているようで、とても素晴らしい人間関係を築かれているようです。文面から暖かさが伝わってくる、そんなブログです。
注目すべきは、その人間的な部分で、とても勉強になることを書かれています。

青獅子さん

親として、学生として、妻として、書かれているブログ。こちらも一方的にリンクさせて頂いています。
大きく言うところの福祉関係のお仕事、勉強をされているようで、そういった内容の現状と、青獅子さん個人のご意見を読み取ることができるブログです。
医療関係者らしく、そういった内容についても若干触れられている部分にも注目です。

今回は、以上で。
ご紹介しきれなかった皆さんは、また機会がありましたら紹介させていただきたいと思います。

PS.Fruitsさんへ
先日のバトンは、サイト運営方針により、お答えするつもりはありませんので、今回のコメントで代えさせていただきます。
価値を置くものは人それぞれ違います。

例えば、酒。

大学生にもなると、なぜか、何かごとの席には必ず酒があります。これは何故か?私には理解できません。
また、皆で友好を深めましょうといって、酒を飲む。これまた理解できません。

最近は、特に、酒を飲みたがらない人が目立ってきました。これもなぜでしょう?

そこで、私が思うことは、例えば、単純に酒が好きな人は、こういう場を楽しみにしているでしょう。
そして、酒を飲んで、酔っ払うのが好きな人も嬉しいでしょう。他にも、飲み会の雰囲気が好きな人も楽しめるでしょう。などなど。

学生ですから、1回の飲み会の金額は3000円前後です。
上記のような人は、3000円くらいは、はした金でしょう。楽しみにしているのですから。

しかし、単純に酒が嫌いな人、酔っ払いが嫌いな人、こういう場が嫌いな人etcは、3000円も払ってまで、そういう場に参加する理由がわかりません。

そして、例えば、こう思うでしょう。お金がもったいない。学生ですから、3000円もあれば、下手をすると1週間くらい食いつなげるでしょう。それを一晩で使ってしまうのです。

そう思うと、最初のうちは我慢もするでしょうが、そのうち「行きたくないなぁ」と思っていきます。そして、行かなくなります。その人にとって、価値がないからです。

しかし、周りの楽しんでいる人は、「何で行かないの?行こうよ。皆で友好を深めなきゃ」と説得にかかります。でも、本人は、そこが理解できないのです。

例えば、楽しみたいのなら、遊園地にでも行けば良いでしょうし、友好を深めるのに、なぜ酒が必要なのか?と。わざわざ酒がなければ友好は深められないのか?高校までは、酒なしで楽しくやってたじゃないと。

不思議です。なぜ酒がなければならないのか?

そして、私個人がこういう話を聞いて思うことは、逆に、こういう人たちが友好を深めるためにと、例えば遊園地ツアーを組んだり、映画にでも誘ったとしましょう。酒好きの人は、友好を深めるために参加しますか?
多分、しないと思います。

これはこれで、不公平じゃないですか?憂鬱な時間に大金を払って参加している人にとっては、ありえない身勝手な行為に感じるでしょう。
先日の「略奪愛」に、Fruitsさん、真夜中のナイチンゲールさん、コメントありがとうございました。

Fruitsさんの書かれていることが本当かどうかは別として、こういう事態は、十分に考えられることだと思います。

そして、一番考えるべきは、やはり子どもであるというのも、正解だと思います。

良い機会ですので、続けて考えていきたいと思います。

昔、私の恩師が、こんなことを言っていました。
「ペットを捨てるなんて、無責任すぎる。そして、保健所に連れて行くのもおかしい。保健所に連れて行かれたペットの末路は…(中略)…、それなら、自分で殺すべきだ。それが、飼い主の責任だ」と仰られていました。

当時、小学生の私は、なるほどなと感じて聞いていました。

その上で、これは、何もペットに限ることではないのです。

子どもにだって言えることです。

こんな書き方をすると、子どももペットと同じように見えてしまうかもしれませんが、そこまで大きくは違わない同じ命だと思いますので、あえて、こう書かせていただきます。

子どもだって、ペットだって、自分の意思でそこに来たわけではありません。

偶然が、運命を左右し、そこに来てしまったのです。
それも、どちらかと言うと、親の意思により。

親の意思により、子どもがいるにも関わらず、親の意思で、捨てたりするとは、何たることか?

どうにも、私には理解できません。

もちろん、育児ノイローゼになったりすることはあるでしょう。
もう、顔も見たくなることもあるでしょう。

でも、あなたの意思で生まれてきた子どもです。
あなたの責任で、どんな事をしてでも、最後まで面倒を見るべきではないのですか?

と思います。

もし、本当にどうしようもなければ、きっと、誰かが助けてくれます。
それが、人間の社会だと思っています。

国だって、地方公共団体だってあります。施設だってあります。

しかし、その分、自分も何かを背負ってください。
自分だけ幸せになろうなんて、ありえません。

世のだらしない親たちに、学生という、世間知らずの自立していない自分だからこそ、問いたい。

子どものことをどう思っているんですか?

そして、不倫をする独身の人に問いたい。

あなたの行為が、子どもにどういう影響を与えると思っているのですか?
自分の親が、男ないし女と出て行ったら、どう思ったと思うんですか?

本当に、自分さえ良ければ良いのですか?
Fruitsさんの日記「報道できない事件の裏側(http://diarynote.jp/d/63593/20060622.html下のほう)」に良いことが書いてありました。

略奪愛…

本人さえ良ければ、それで良いのか?

限りなく自分勝手な行動です。

私の知っている人にも、こういうことをした女性がいます。

こういう事を平気でするその人の心の中身がどうなっているのか知りたいです。
また、もっと良い人が現れたからと言って、奥さんと子どもを平気で捨てる男の心の中身も知りたいです。
私には、想像もつきません。

私が一番気に入らないと思うことは、Fruitsさんも書いていましたが、こういう内容が、メディアに取り上げられ、美化して描かれ、それを見た人々が、本来、汚いはずのものを、綺麗なもののように見ている現状です。
失楽園や、東京タワーなど、その事自体が美化されていることが間違いだと感じます。

特に、今のミーハーな日本人は、簡単に洗脳されていきます。
洗脳された人々は、それに憧れ、実行するでしょう。もちろん、全員がとは言いませんが、それでも相対的に増えることは間違いありません。

もし、Fruitsさんの書いていた今回の事件の裏側が本当であれば、美化された物語の裏側には、人が死んでいると言うことになります。
これらの話は、本当に綺麗な話なのか?

メディアに取り上げる人も、その取り上げた裏で何が起こるのかと言うことに対しての責任を持って、取り上げて頂きたいと感じます。

もちろん、未来を担う子どもたちのことを一番考えて頂きたいと思います。
よく、「アナログな人間」とか「デジタルな人間」という言葉を耳にします。

「アナログな人間」は、古い人間、時代に乗り遅れた人間という意味で使い、「デジタルな人間」は、融通のきかない人、頭の固い人という意味で使われています。どちらもあまり良い意味では使われてないようです。

今日はそれとはちょっと違ったお話を。

アナログにはアナログの良さがあり、デジタルには、デジタルの良さがあります。
アナログの良さは、無段階な連続性です。
デジタルの良さは、白黒はっきりしていることです。
したがって、日本人はアナログ的性質が強く、欧米人はデジタル的性質が強いのでしょう。
私個人の感覚としては、欧米に比べ、日本がデジタルになじめていない、言い換えれば、デジタルの導入が遅いのは、そのためではないのだろうかと思います。
しかし、自然はある一定の段階に区切って表現されるものではなく、連続性を持って日々変化していくものです。したがって、本来なら、自然の一部である人間もまた、連続性をもったアナログな存在です。特に、曖昧を好む日本人は、まさに、アナログな存在です。そんな人間がデジタルを扱うのですから、不自然さや、違和感を覚えるのは当たり前の話です。
もっとも、万物の根源は原子をはじめとする粒子であり、結局、その原子が有るか無いかで全てが決まっています。もし、その部分まで、区切ることができれば、それは、デジタルで表現せざるを得ない世界でしょう。
つまり、もし、デジタルとして無段階に、区切ることができれば、それはアナログでありデジタルな世界なのかもしれません。
今現在、デジタルの世界は急速に進歩し、1と2の間の1.5を、そして、その間の1. 25を表現できるようになっています。そう遠くない未来、無段階に区切ることができるデジタルの世界がやってくるでしょう。今はその過渡期です。
しかし、その時に忘れてはいけないのは、それでも、その間に曖昧な部分が存在し、特に日本人は、その曖昧な部分を愛していたということを。
昨日、TVを見ていたら、トップキャスターの中で、生瀬さんが、感動的なことを言っていました。紹介します。

昨日、娘に絵本を読んでやったんですよ。
「ちゃっかりネズミ」て言うんですけど、ご存知ですか?
一匹のネズミがいましてね、このネズミが、わがままな王様をあの手この手で騙して、出世していくんですよ。最後には、こいつが王様になるんですけどねぇ、これがまた嘘つきなネズミで、子どもの絵本てのは、意外と真実ついてますよ。生きていく上で嘘も大事です。真っ直ぐ歩いているだけじゃぁ、壁にぶつかる。汚れるのを恐れているだけじゃぁ、外にも出られなくなる。曲がったり、汚れたりすることも、生きていく上で大切なんじゃぁないんですか?

昨日読んだのは、「おひとよしキツネ」というお話なんです。
これは、「ちゃっかりネズミ」とは違って、わがままな王様の言うことを聞かず、本当のことを正直に話したばっかりに、村を追い出され、独りぼっちになってしまったキツネのお話なんです。そうしたら、そのお話を聞いた娘が言ううんですよ。この間読んだ話と違う。「ちゃっかりネズミ」と言っていることが違う。「おひとよしキツネ」と「ちゃっかりネズミ」、確かに全然違うお話です。一方では、生きるために嘘をつけと言う。一方では、何があろうとも正直に生きろと言う。娘がね、聞くんですよ。キツネさんとネズミさん、どっちが正しいと思う?って。私は、ついつい本音で答えてしまいました。キツネさんの方が正しいよ。大事なのは、正直に生きることだよ。例え、苦しかろうとも、笑われようとも、貧しくなろうとも、何よりも大事なのは、正直に生きることだよ。お父さんが嘘ついちゃ駄目じゃないですか?
いいか?お前達。俺達は会社員じゃねぇ、報道マンだ。この仕事に、誇りを持って働いているんだ。

感動的な台詞です。

本当に、正直に生きていきたい。そして、自分の行動に自信と誇りを持ちたい。と常々感じています。
こんな事は、おそらく誰もが多かれ少なかれ感じていることでしょう。
しかし、これを実行できている人が1人でもいるのでしょうか?

確かに、嘘をつくことも時と場合によっては、大切なことだと思います。
しかし、それでも、自分には嘘をつきたくない。

たとえ、人には嘘をついても、自分にだけは嘘をつきたくない。そんなことを感じます。
多数決は、恐ろしいです。

私は、どう考えても、正しいことを言っています。
でも、周りの人間は、全員が私が間違っていると言います。

そうなると、もめます。

ここで登場。民主主義の王道、多数決です。

恐ろしい世界です。こんなの絶対に負けます。

でも、間違いのまま進めるわけにはいけません。

こういう時は、どうすれば良いのでしょうか?

この事を考えたのは、皆で文章を考えていたときです。
どう考えても、文法がおかしかったのですが、そのことが通じない。
この場合は、本で調べたり、詳しい人に相談すれば良い話なのですが、これは何も、こんなことだけに当てはまるものでは無いのではないでしょうか?

改めて、多数決の恐ろしさについて考えさせられました。
まず、お二人にお礼を。ありがとうございました。

自己犠牲の精神は非常に素晴らしいものです。
それが見られないということは悲しいことですが、だから劣るということはないと考えます。
他者より自分を優先させることは自然ですから。(暇つぶしの達人さんのコメント一部引用)

私には、自己犠牲という概念はありません。
周囲の環境、もしくは受けてきた教育、その時点で得られた情報...それらを「ちゃんぽん」にした結果、常に「そうするのが、自分自身にとって心地良いから」だと思い込むようにしていますから(^_^;)
周囲の人々が「そうする事が、かっこ良いんだ」という価値観で塗り固められた状況下においては、国なんざ守りたいヒトなんざぁ、どうでも良いです。
...ナルシストでしかないですからねぇ、私は。でもまぁ、その行為をして、他人様が、どう思われるかは、その方のご自由にって所でしょうかねぇ、やっぱり。
でも、何処から行っても、何処まで言っても、自分自身の言動は、つまるところは自分自身の「心地良さ」が、全てですかねぇ、うん。(kajさんのコメントの一部引用)


私自身も、暇つぶしの達人さんの言うとおり、自己犠牲の精神を持たない人が劣るとは思いません。しかし、その精神が素晴らしいとも思います。その素晴らしい人が減っていることは、やはり残念なことではないのかと思います。

これは、おそらく、戦後の日本の教育のせいだと思います。

太平洋戦争のような悲惨なことが起こったのは、全て、当時の教育のせいであるとされており、また、この自己犠牲の精神も、教育の副産物であることは、否定できないことではないかと思います。

今の日本で、命を投げ出してまでも何かをやり遂げようとするのは、一部の例外を除いて、バカな行動だと私は考えます。(一部の例外の中に、他者の命を救うためと言うのはもちろん入ります。)

やはり、命あっての物種ですから。何をするにおいても、自分の命を最優先に考えて行動をするべきだとは思います。

その上で、自分の損得を無視した、行動をとれれば、それが一番だと思います。

しかし、ここで重要なのは、自分の損得関係なしに人に人を気遣えるのは、kajさんの言うとおり、それがその人にとって、「心地良い」からです。

結局、自分が、心地よいことが、たまたま他者にとっても心地よいものであっただけなのです。

と、こう書くと、酷く見えますが、でも、私はそれが事実だと思います。
そして、一昔前までは、日本人の国民性が、そうであったのです。
それが、ちょうど良いバランスを得ていたのです。

しかし、今は違います。
それを私は残念だと思いますが、他の人はまた、良いことだと思うことでしょう。

それが、今の日本の現状だと思います。
「語り継がれる戦争の記憶」にコメントありがとうございました。
遅くなりましたが、まずは、私の個人的な意見を書きなぐらせていただいて、その後、皆さんの意見を踏まえてまとめさせて頂こうと思います。

この事故を表面から見たのでは、何も見えてこないと思います。

まず自衛隊の事故ですが、この事故の裏側に何があったのか?

私の恩師が当時言っていたことは、次のような話です。

「脱出をして自分が助かることはできたけれど、住宅に墜落させてはいけないと、最後まで操縦桿を握って、田んぼに墜落させ、死んでいった。」

私自身、この話の裏をとっていないので、本当の話かどうかはわかりません。しかし、このような話が嘘だとしても、このような話を考え、話をしてくれたこと自体が、評価できると思っています。

しかし、米軍の事故を見たとき、私はこう思いました。

「訓練のために、大学の上を横切らなければならないこともあるでしょう。訓練をしていれば、事故を起こすこともあるでしょう。しかし、その対応はおかしくないですか?大学のど真ん中にヘリコプターを平気で墜落させるその対応がおかしくないですか?自衛隊員は、最後まで操縦桿を握り、被害を最小限に抑えました。残念ながら、自衛隊員は亡くなられてしまいましたが。しかし、今回は、大学の真ん中に墜落していくヘリコプターを放って、脱出している。偶然、被害者は出ませんでしたが、もしかすると、大惨事になっていたかもしれません。」

実際、どういう経緯で墜落していったかということは報道されいませんので、こういう考えが正しいかどうかはわかりません。

しかし、この話をある人に話したところ、こんな言葉が返ってきました。

「アメリカ人は、まず、自分の事を考えるからね。こうやってヘリコプターが墜落しても、墜落させるほうは、自分の事だけを考えて行動し、落ちてくる地上の人も、自分の責任でかわさなければいけないという風潮があるから」

なるほどね。とは、思いました。

日本は平和だということに加え、日本人自体が謙虚だから、お互いがお互いを気遣うことにより、社会が成り立っていました。

それが良いことなのかはわかりません。

ただ、こういう極限状態の時の行動の本質的な部分は、その人の人間性をよく表すと思います。

従って、1以外の意見には、反論しません。
しかし、2の意見が正しいのかどうかは、疑問です。

実際、こうした中で、どのような行動をとったとしても、その行動自身に責任を持つことは不可能だとは思います。

その中で、「こうするべきです」という訓練をしたとしても、子どもの頃から摺り込むのならまだしも、大人になってからの訓練では、上手くいかないと思います。

自衛官は、最後まで操縦桿を握り、被害者を出さずに死んでいった。米兵は、さっさと脱出して、被害者が出なかったのは奇跡だった。

次回は、kajさんと暇つぶしの達人さんのご意見を踏まえて、コメントしてみたいと思います。
06月16日付 朝日新聞の報道「対北朝鮮法案「成立を評価」 拉致家族会が会見」へのコメント:

ヴァルハートさんをはじめ、結構、話題になっているようです。

たまには、リアルタイムで社会問題をとりあつっかおうと思います。

そういえば、こんな法案があったなぁ・・・と思ったのが第一印象。

内容もよく知りませんし、批判点も把握できていないのが現状です。
マスコミもあまり取り上げていないのも事実です。

しかし、その中で感じることは、まず、基本方針には反対するつもりはありません。
そして、北朝鮮への経済制裁も反対しません。と言いいますか、各国への援助自体が、あまり賛成できないと思っています。

その上で、批判点の概要を調べて感じたことは、政治家ってバカだよね。

住基ネットや郵政民営化に関してもそうなんですが、基本方針は概ね賛成なのですが、そこにたどり着く過程がおかしいのです。
摺り合わせよりも、もっと大切な事があるでしょう。
国のためにどうすれば良いかを考えてほしいです。

何をするにおいても、3割の人は反対します。これは、心理学的に立証されていることです。

その中で、反対意見と意見を摺り合わせるのではなく、反対意見を潰せる理論武装ないしは、前提での対策をするべきです。

反対意見に、ここが駄目なんじゃないの?と言われたならば、中間地点で妥協するのではなく、駄目であるところを駄目でなくなるように、意見を強化するべきだと思います。
特に、政治家や市民団体の中には、意地や面子、私利私欲のために、頭ごなしに反対するとんでもない奴がいます。本当に、そのことについて、どうすれば良いかを考えていないのです。
そんな理由で反対する連中に、自分の意見を曲げる必要なんてありません。
しかし、無視するのもどうかと思います。
もっと、自分の考えに自信を持って、立ち向かえるようになって、反対意見を叩きのめして欲しいところです。

そして、叩きのめしてもいないのに、無視して先に進まないで欲しいと思います。

何もこれは、別に政治の世界だけで言える事ではなく、ごく普通の個人間の間でも起こっている話だと思います。
kajさん6月7日の「道徳の上の法」にコメントありがとうございました。この返信は、本文に書ける内容だと思いましたので、遅くなりましたが、こちらで返信させて頂きます。

ヒトは、何も特別な生き物でもなければ、最終進化系でもないと思います。

しかし、ヒトは特別な存在です。

理性とか思考なんてのもヒトだけにしかないというのは、ヒトが勝手に決め付けた「決まり事」の一つでしかないんじゃないでしょうか?同様にして「道」だの「徳」だのって言葉すらもヒトの驕りでしかないんじゃないでしょうか??(kajさんのコメントを引用)


たとえ、ヒトが驕っていたとしても、ヒトは、ヒトであることに、誇りを持つべきだと思います。

生物は、種の存続のために、他の生物に対して、差別化を図らなければなりません。

これは、会社という意味でも当てはまると思います。
私のバイト先の社長が、「この分野での一番は、私だ。二番は○○(社員)で、三番目は△△(社員)だ。そういう気持ちで、仕事をしなければならない」と仰っていました。

そうなんです。例え違っていたとしても、そういう気持ちは大切なわけです。

生物として、他の生物よりも優れているからこそ、生態系の中で生き残っているのです。
当然として、他の生物達は、他の部分でその他の生物よりも優れているわけです。

もし、人間が、その理性や思考を売りとするのならば、そこの部分に他の生物よりも優れているという自信と誇りが必要なのです。
その自信と誇りが無ければ、この弱肉強食の生態系の中で生き抜くことは難しいはずです。

どの生物においても言えることですが、自分達の種族は、他の生物に対して特別な種族なのです。
そして、これは、その生物の中での個々の個体にも当てはまります。

しかし、人間の社会という限られた環境の中では、4月27日の「人はなぜ生きていけるのか?」に書いたとおり、その限りではありません。
人は弱者を守ります。必ずしも他者よりも優れていなければ、生きていけないわけではありません。
それが、人だと思います。
(もちろん、他の生物でも、このような傾向は見られるでしょう。従って、なにも、ヒトだけそうであるとは言えないとは思いますが。)

つまり、ヒトという種族が、他の生物よりも優れていると思い込むことは、それは、生物として、正しい行動であり、その結果、他の生物を駆逐していくことも、それは生物として当然の行動なのです。たとえ、それがヒトという種を絶滅に追い込む行動であっても、それは生物の進化の上で、全くもって、生物らしい行動なのです。

しかし、人は、弱者を守ることができる生物です。それは、生物として、一歩前に進めている証拠ではないでしょうか?

そして、その優れている部分が、最近損なわれている気がするのです。

それは、ヒトがヒトでなく、ただの生物になりさっがていっていると言うことではないかと感じているのです。
人それぞれ価値を置くものが違います。
それは、男と女という大きな枠組みでも言えるのではないでしょうか?

今クールの私の中でのヒットドラマ「ブスの瞳に恋してる」の台詞で、7年前に無言で出ていった彼女との再開の場面で、

稲垣五郎が、「聞きたいことがある。何で7年前に出て行ったんだ?」と。

男の私としては、すごく気持ちがわかります。

しかし、彼女の井川遥は、「それを今更聞いてどうするの?良いじゃない、こうやってまた会えたんだから」と。

女の人ならこう言いそう・・・こんな身もふたもないないことを。

劇中で稲垣吾郎も言っていましたが、こういうことがあると、男は前に進めないのです。
終わってない恋ほど、残酷なものはありません。

実際、私自身も、失恋できていない恋があります。
もう何年も経ちますが、今でも心のどこかで引っかかっています。

5月1日の「男は昔の女を忘れられるか?」にも書きましたが、そう簡単に、忘れられるものではないのです。そして、忘れるべきものではないのです。
そして、恋を終わらせるには、好きでなくすのではなく、その人から恋愛対象としての返信をあきらめることです。

男は、理論だてて物事を考えます。その過程や、理由も大切なわけです。その課程や理由があるからこそ、納得できるのです。
しかし、女性は、どうも、結果を大切にしているように見受けられます。

したがって、今回のドラマのようなことが起きるのです。

これは、以前にも書きましたが、男と女が生物学的に違うからなのです。

原始時代、男は、猟をするために進化していきました。具体的には、空間認知能力や、パワーを身につけました。猟をするためには、作戦を立てたり、時間軸を認知する能力や、チームワークも必要でしょうから、そういった方向にも特化していったでしょう。
逆に、女性は、子どもを生み、育てるために進化していきました。体に脂肪を蓄え、飢えに耐え、同時に体を保温し、長く生きれる能力を手に入れました。そして、子どもを育てるため、コミュニケーション能力にも特化していきました。

したがって、男は、その過程を重要視しますが、女性は、コミュニケーションを大切にします。これが、人類が生き抜いていくために進化して得た分業の結果なのです。
少し前、ヴァルハートさんが素晴らしいことを書いていました。学生、生徒さんは是非、御一読ください。
http://diarynote.jp/d/51081/20060610.html

これを読んで、思い出したことを書きます。

私のお世話になっている教授のお言葉です。

「勉強こそが最高のバイトだ」

要約しますと、学生、生徒は、しっかり勉強することが、最高のバイトになるのです。

例えば、多くの私立大学には、特待生(スカラシップ)制度があります。

入試の段階で成績がよければ、在学中の学費が全て免除になります。
一部薬学部等では、年間の学費が一千万を超える大学もあるようです。
もし、この学費が免除になれば、年に一千万の所得を得たことと同等になります。

また、大学によれば、さらに、月に数万円の生活費の援助が受けられてしまう大学もあります。

在学中の成績で特待生を選出する大学もあります。

それだけ、私立大学では、優秀な人材を求めているのです。

日本学生機構(旧育英会)の第一種奨学金は無利子で貸与されます。これも、成績が優秀でなければなりません。
奨学金ですので、返還はしなければなりませんが、下手にバイトをするよりかは、良いと思います。

また、最近始まった制度では、第一種奨学金の貸与者は、在学中の成績により、返還を免除されます。

以上、勉強こそが、最高のバイトになると言う話でした。

もう、お金が無いのは言い訳にならないのです。
その他にも、スポーツ特待生もありますしね。
勉強を続けるのに経済的障害はほとんど無いのです。

日本代表

2006年6月12日 社会
ワールドカップが始まりました。

オリンピックもそうですが、お祭り好きの日本人としては、大いに盛り上がるべきイベントでしょう。

さて、今回のワールドカップの結果は?

マスコミ的な報道は、2勝1分(1敗)で決勝リーグ出場の可能性は十分にあるとのことですが、どうなのでしょう?

トリノもそうなのですが、マスコミが盛り上げすぎて、能力以上の期待をさせておき、駄目だったら、必要以上に残念がる。最近の国際試合には、そういった構図が出来上がっています。
私自身は、お祭りですから、そういった展開にもっていって、お祭りを盛り上げるということ自体には肯定的です。場の空気が、実力以上の力を発揮させるということも少なくありませんから。
しかし、マスコミの駄目なところは、負けた後のフォローをしないということです。

さて、そんなマスコミ批判は置いといて、最近の日本代表のコメントで気になる点があります。

それは、「楽しむ」です。

この言葉、意外と、問題発言なのです。

私も又聞きなのですが、やはり、古い考え方の人は、「楽しむな。税金を使っているのだから、やるからには勝て。勝てないなら行くな」と。

やはり、そうなんでしょうか?

私自身は、オリンピックもワールドカップも、参加することに意義があると思いますので、ドンドン参加していただきたいと思います。
また、スポーツは楽しんでもらいたいと思いますので、「楽しい」とか「楽しめた」とかいうコメントも別に否定するつもりはありません。

ただ、1つ気になる点は、本当に、コメントが、「楽しい」「楽しめた」だけで良いのですか?と問いたいです。

一昔前の選手達は、「皆様のおかげでここまで来ることが出来ました。ありがとうございました。」と口をそろえて言っていました。

ここまでこれたのだって、本人がここまで頑張ったからこそであって、別に視聴者にお礼を言うようなことではないと、当時は思っていました。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

どんな人だって1人では生きていけません。いろんな人に助けられることによって生きています。これは、何度も書いてきました。

スポーツ選手だって同じです。いろんな人に助けられ、そして、理解していただけた結果、ここまで頑張ることが出来たのはずです。

さらに、多かれ少なかれ、ワールドカップやオリンピックに出場するにあたり、必ず、税金が投入されていることでしょう。これは、国民全員の理解があってこその結果です。

別に、選手一人の力でここまで来れたとは、とうてい思えません。

もちろん、一番頑張ったのは、選手自身ですので、選手自身が一喜一憂して、スポーツに取り組んで欲しいと思います。
その結果が勝とうが負けようが、本人が納得できるのであれば、それで十分だと私は思います。

コメントだって、今の選手の方が、人間味にあふれているコメントが多くて好きです。
「ちょー気持ちいい」とか「くやしいー」とか。

でも、選手がここまで頑張れたのは、自分だけの力ではないことはきちんと理解して、感謝するところは感謝して、大会に挑んでいただきたいと思います。

と言うことで、頑張れ日本!!
人には、様々な気持ちがあります。

例えば、A君の料理が上手なところは好きだけど、A君の字が下手なところは嫌いだったとします。
では、A君のことは好きなのでしょうか?嫌いなのでしょうか?
これは、また違った話です。

つまり、A君のことが好きな自分と、嫌いな自分がいるのです。

物事は、ドンドン細分化することができます。しかし、その細分化したものの集合体が、その物なのです。

つまり、細分化すればするほど、様々な部分が見えてきます。しかし、普段はその細分化した全ての集合体を見ているのです。
科学の世界では、こうやって細分化し、それぞれの干渉を見極めることによって、解明していきますが、人間において、そんなことは必要ないのではないかと思います。

心理学的には、自分のことを4つに分けることができるそうです。
1つめは、自分も他者も知っている自分
2つめは、自分しか知らない自分
3つめは、他者しか知らない自分
4つめは、自分も他者も知らない自分

例えば、寝ているときに、いびきをかいていたとします。普通、いびきを自分がかくかどうかはわかりません。つまり、2です。しかし、一緒に寝た人から、「いびきかいてたよ」と言われれば、それは、1になるのです。

こうやって、ドンドン自分の事を知っていくのです。

さて、自分の事を知れば知るほど、自分の事がわからなくなると思います。それが細分化にあたります。
本当の自分って?とか思い始めるかもしれません。

自分だって、物事ですから、細分化すればするほど複雑になっていきます。

A君を好きな自分もいれば、嫌いな自分もいるわけです。はたして、自分はA君のことを好きなのか嫌いなのかわからなくなるでしょう。

しかし、そんなに気にする必要があるのでしょうか?人は、細分化した自分を見るのではなく、その集合体を見ています。自分から見た自分もそうです。
もっと、直感的に、自分を眺めれば良いのではないでしょうか?

意外と簡単な存在であるのかもしれません。

しかし、こういうことを悩むこと自体が、とても楽しい事でもあり、そして、生きていく上で大切なことになってくるのかもしれません。

以上、少し古い話ですが、以前、颯子さん、kajさんが書いておられたのを見て、書いてみました。
合わせて読んでみると、面白いのではと思います。
http://diarynote.jp/d/71129/20060527.html
http://diarynote.jp/d/54244/20060527.html

追加:kajさんからコメントを頂きました。
そちらも合わせて読んでみてください。

私の存在

2006年6月10日 人間
人間に関わらず、一部の例外を除いて全ての物事において、そのモノの存在価値は、他との関係にあると思います。

ココに私という人間が存在しても、他との関係がなければ、その存在を証明するものもなければ、意味すらも疑問になります。

自分という存在は、他者との関係により、存在の証明と意味を得るのです。

それが例え幻だとしても、他のものに影響を与えることにより、その幻の存在が証明されるのではなでしょうか?

これは、生き物だけでなく、この宇宙に存在する全てのモノに当てはまると思います。

コンピュータ上の実体のないコンテンツ達も、例外ではありません。

存在するという事実よりも、他と関係があるかが、そのものの存在価値になるはずです。

さて、ここで人間についてですが、人間は、人間同士で関わりあう生物です。
お互いがお互いを干渉しあいます。

これは、進化の過程において、分業制が発展し、1人が1人で生きるのではなく、多数の人間が多数の人間で生きるように進化したためです。1人で生きていくためには、全てを自分で行わなければいけませんが、今は、労働の対価としてお金を手に入れ、そのお金を使い、食料をはじめとする生活に必要なものを手に入れるのです。

人間は、一人では生きていけないように進化してしまったのです。
人は、人と関わることで生きています。関わらなければ生きていけません。

生物に、雄と雌ができた時点で、生物は、その個体だけで生きていくことはできなくなってしまったのです。

自分の言動に、意味はないと思っているかもしれませんが、必ず何かに影響を及ぼします。

その中で、自分がどのような分業を担っていけるかが、大切なのではないでしょうか?

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