まさか、3日も「見る 見える 見せる」を続けて書くことになるとは思いませんでした。
面白いニュースを見つけてしまったのでしょうがないです。

本日YAHOO!ニュースで見つけた記事。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20061005ddm013100062000c.html

言葉とは刻一刻と変化するものです。
このような変化が起こることもまた、ひとつの文化。

ギャル文字もまた、その1つ。

大文字のみで、英文を書くと、叫んでいるように見えるそうです。
と言うことは、逆に、小文字で文を書くと、可愛く見える?

そうではなく、不完全な文章が、子どもらしくて可愛く見えると私は思います。
まぁ、そんなことはどうでも良いです。

ブームとかそういうのではなく、その世代世代の言葉や文字があるというのは、悪いことではないと思います。
ギャル文字を使っていた人たちと、今、小文字を使っている人の世代は、違います。

子どもが子どもに向けて書いた文章は、子ども達にとっては、見せる文章であっても、大人達には見える文章でしかないのかもしれません。

それはそれで、ある種の暗号的表現として、ブログやメールで使うことは、ある意味で正解なのかもしれません。

例えば、機種依存文字。これらの文字を多用するならば、その文章は、その文字に対応した機器でしか読むことが困難です。
それは、書き手が行う読み手の選別ともとることができます。

同じ要領で、ギャル文字、小文字と、表現を変えることによって、読み手の世代をある程度選別することができます。

この選別という行為は、良いことなのか?悪いことなのか?

それは、決して悪いことではなく、ココの秘密日記や、mixi、はたまた、会員制のサイト等、世の中には、その選別であふれています。

万人に見えるものが、万人に宛てられたものであるわけではありません。

見えるものでも、誰に宛てたものなのか?

そんなことを考えていると、文字、言葉という意味でも、面白いなと思う今日のニュースでした。
昨日、すごく当たり前の話を考えたのですが、今日も引き続き講義中に考えていました。
すると、ある方からのアドバイスも重なり、あるとんでもない目から鱗の結論に至りました。

私は、今までブログは、見せるためのものだと思っていました。
インターネット上に書くわけですから、世界中から見られます。

この世界中から見られるという事実と、自分の文章を見せるという行動が、どうも混同していたようです。
あらためて考えてみると、どこがどう似ているのか、全くわかりません。

少なくとも、勘違いをしていた私は、今まで、見せるためのブログを書いていました。
しかし、先日、私はこの場を借りて、見せるためではない文章を書きました。
その文章は、ある方1名を除けば、ただ見える文章でしかないのです。

もちろん、見られる覚悟はした、誰にでも見ることができる文章です。しかし、見せるために書いた文章ではありません。
その文章を、煮ようが焼こうが、それは、書いた人間と宛てられた人間の自由です。
そこに、第三者の介入はお門違いです。スカートの中と同じです。

見える文章なのか、見せる文章なのか?

それは書いている人間にしかわからないのかもしれません。
その辺りは、読み手が判断するしかないのかもしれません。
それでも、明らかなものもあります。

しかし、見える文章は、あくまで見える文章であり、見せる文章とは別物です。

そんなことに、やっと気がつきました。目から鱗です。そんなことに気がついた午後の講義。

秘密日記も使っていこうかな?
見せる文章ではなく、見えてしまう文章を書くために。
「園子姉ちゃん、パンツ丸見え!!」
これ、昨日のコナン君の名言。
これは、見える状態です。

先日、女子高生のパンツの中を手鏡に写して見た教授が話題になりましたが、これは、見えない状態。

見えるから見ることと、見えないのに見ることは、全く別物です。

次に、男が目のやり場に困る見せパンと呼ばれるもの。
これは、見せている状態です。しかし、見える状態でもあります。

見える状態でも、スカートがめくれてしまって、パンツを見ることと、見せパンを見ることも、全くの別問題。

ところで、昨日はパンツを見せていたけれども、今日は見せていないお姉さんに、「昨日は見せていたのに、なぜ今日は見せないんだ?」と問うと、それは、嫌がられるでしょう。と言うか、下手すると捕まるでしょう。

同じ対象でも、その時の状態によって、見える状態なのか、見せている状態なのかは、変化するものです。
そして、それを見ても良いかも別問題です。

見えるものは、見ても問題ないとは思いますが、それを見ても良いかは別問題。「問題ない」ことと、「良い」ことは違います。

元に戻しますが、昨日パンツを見せていたお姉さんに、「昨日俺見てないから、今日見せて」と頼むのはお門違い。さらに、「見せないなんておかしい」と批判するのもお門違い。

次に、駅の掲示板に、何でも良いのですが、例えば「xyz」とメッセージを残したとしましょう。
もちろん、駅の掲示板ですから、誰が見ても問題は無いわけです。

しかし、これは、万人に宛てたメッセージではなく、ある特定の人に向けられたメッセージですから、向けられた人にメッセージが伝われば、それで、このメッセージの役目は果たされたことになります。ですから、普通は、消します。

これは、その特定の人に見せるものであって、他の不特定多数の人々には、見えるものでしかありません。
もちろん、そこには、ある程度のプライバシーもあるでしょう。

めくれてしまったスカートと同じで、見えるだけです。もちろん、見えてしまうことは覚悟しているので、見られることは問題ありません。スカートをはいた女性も、何かしらの理由で、めくれてしまい見られることは、覚悟しているはずです。
しかし、覚悟しているからと言って、スカートの中を鏡に写して見ても良いということにはなりませんし、スカートの中を見せろとも言えません。
それは、当たり前。

「xyz」も誰が見ても問題ないのですが、用が済めば、消すのは当たり前。他の人に見せるものではないのですから。
そうでなければ、一度めくれてしまったスカートは、永遠にめくっておかなくてはいけないことになってしまいます。

なんだかしょうもない話です。なぜ、こんな当たり前の話を書いたのだろう?
今日は、言葉遊びです。

9月8日の「何のために働くの?」でも少し触れましたが、最近の人々は、ボランティアと言う言葉を履き違えている人が多い気がします。

ボランティアは、本人がやりたいと思い、そして、無償で奉仕することです。

決して、誰かに強制されることでもなければ、やらされることでもありません。

あくまでも、本人が、進んで行うものです。

そして、言語の意味から考えると、その対象は、社会事業に無償で参加することですから、何かを組織的に行われなければボランティアとは言えません。

個人で、老人ホームを訪問してもボランティアとは言えないのではないでしょうか?
また、例えば独居老人を訪問しても、それはボランティアとは言えないのではないでしょうか?

本来、社会事業ですので、オリンピックや国体など、そういったことへのスタッフとして、無償奉仕することが、本来のボランティアの姿ではないでしょうか?

どうも、最近の傾向として、老人ホームなど、所謂、福祉関係の仕事を無償で行うことをボランティアだと考えている人が多い気がします。
そこに、本人の意思は関係ありません。

政治家がボランティアを義務化するとか言っているのを見ると、どうなのだろうと思ってしまいます。

もう少し、言葉を選べば良いのに…

ボランティアの義務化など本末転倒です。

とは言いましても、言葉は常に変化していくものですので、そういうことなのでしょうか?

ボランティア
《志願者の意》自主的に社会事業などに参加し、無償の奉仕活動をする人。(YAHOO!辞書より引用)


「何のために働くの?」http://diarynote.jp/d/77110/20060908.html

PS.Kajさん、お気遣いありがとうございました。
役目を終えたようなので、削除しました。
DVD バンダイビジュアル 2002/11/25 ?3,990 臼井儀人原作のTVアニメの、2001年公開の劇場版第9作。 突如出現したテーマパーク「20世紀博」で、大人たちは現実の生活を投げ出し、童心にかえって楽しんでいた。だがその裏には、絶望の21世紀を捨て、希望に満ち溢れていた20世紀を永遠に存続させようとする、秘密結社イエスタデイ・ワンスモアの計画があった。このままずっと20世紀…

先日、TVでやっていたのを見ました。

舞台は20世紀博。

20世紀を懐かしむ大人たちが、洗脳され、20世紀を求めて姿を消していく…
そんな話です。

この話は、子どもよりも大人が見るように創られてしまった作品だそうで、子どもを連れてきた親が、子どもそっちのけでボロボロ泣いていたそうだ。
後日、もう一度うっとおしい子どもを家において、大人だけで見にきていたそうな。(NHK情報)

戦後の20世紀は、東京オリンピック、大阪万博と、大きなイベントがありまして、大人たちは、それらが共通言語となっていて、とりあえず、その話をしておけば、会話ができるというイメージがあります。

でも、実際、そのような傾向があるようで、私の両親などは、その話が大好きなようです。

で、そういう話を聞いていると、自分達の世代に、そんなお祭りはあったのだろうか?

長野オリンピックも、サッカーのワールドカップ、花博、地球博も、イマイチ記憶にない。私にあっても、周りにない。周りにあっても私にない。
う〜ん…私達の世代は、懐かしさによる洗脳は無理なのかもしれません。と考えたり。
寂しいような、悲しいような…

それも、最近の個性を大事にする傾向の副産物だとは思います。個性を大事にすることは、良いことではあるのですけれども。

ところで、三丁目の夕日でも感じるのですが、夕焼けの色が違うんです、今と。
あれが不思議で、あの夕日の色を見ると、なぜか懐かしくなる…
今と昔では、夕日の色が違っているのでしょうか?
昔の方が、夕焼けが赤かった?

科学的に考えますと、空気が汚いほど、夕焼けは赤くなりますので…高度経済成長のころの空気は、汚かった?ということ?でも、それなら納得できます。行動経済成長期よりは、フィルターや規制のおかげで空気が綺麗であるような気はします。

謎です。
さて、3日にわたって、漫画とゲームから、男と女の違いについて考察してきましたが、では、なぜそのような違いが生まれたのかを、私の独断と偏見で考察してみたいと思います。

6月14日の「男と女の生物学的違い」に書いたように、原始時代、男は外に狩に、女性は家に残り子守を担当しました。

私は、その結果だと考えます。

男は、常に外に出かけ、狩りを行いました。狩りは、戦いです。狩る方も狩られ方も命をかけた戦いです。無事、狩ることができれば、奥さんと子どもに美味しいものを食べさせてあげられる。しかし、狩れなければ帰れない。
男は、本能から、戦いを求めるのです。そして、負けられません。

また、家にいたのでは、狩りはできません。常に、外に出かけ、より良い狩り場を捜し求めたことでしょう。それは、常に未知との遭遇をもたらしたことでしょう。冒険もまた、男が本能から求めるものなのです。

そして、あの洞窟の奥には何があるのだろう?あの草原の向こうには何があるのだろう?そんな夢のような話を仲間としていたに違いありません。
もし、洞窟に入り、生還した人がいれば、ヒーローとして皆に尊敬され、「次は自分も…」と思ったことでしょう。

しかし、女性は、常に家に残り、夫の帰りを待ちました。男が帰ってくるまで、食事はお預けです。
男は、外で、適当に狩ったモノや、木の皮などを食べていたことでしょうが、女性はそうはいきません。ただひたすら待つのみです。
そのため、脂肪がつきやすくし、代謝の良い筋肉をなるべく減らしたのでしょう。

また、男をひたすら待つのです。その間、女性は何をしていたのでしょう?
おそらく、暇で暇でしょうがなかったでしょう。することもない。食べるものもない。ただ待つだけ。
ですから、女性はしゃべりました。子どもと、友人と。その話も、きっと、話題らしい話題は、子どもと夫のことくらいしかないでしょう。外に行かないのですから。経験らしい経験もない。
すると、話題は恋愛の話しかありません。

外の世界を知らない女性は、今見える現実のみを話すのです。

ですから、女性は本能として、恋ばなを求めてしまうのです。

以上、漫画から紐解く男と女の生物学的(と言うか進化学的?)違いでした。
昨日、一昨日と、男は夢の世界を冒険する漫画が好きであると書きました。

さて、TVゲームの王道は、やはり、冒険と戦いです。

TVゲームの王道と言えば、マリオとドラクエでしょうか?
いずれも冒険するものです。

他には、ストリートファイター。戦いです。

と言った具合に、ほとんどのゲームは、冒険と戦いなのです。

ですから、王道のゲームの需要は、男にあるのです。
今でこそ、女性もやっていますが、元々、男がやっていることが多かったです。

それはそうなんです。わざわざ、コンピューターの中の不完全な擬似世界に現実を描くことに、全く意味がなかったのです。
と言いますか、現実を求める女性には、コンピューターの中の擬似世界に全く興味がないのではないでしょうか?

しかし、夢の世界は、どんなに不完全であっても良いのです。どうせ、誰も真の夢の世界を知らないのですから。
今まで、完全に受身でしかなかった夢の世界に、TVの画面を通して入り込み、その中を、自分の意思で動き回れることに価値があったのです。例え、それがコントロールされたものであっても。

そして、冒険し、戦う。それも、自分の意思で行える。
今まで漫画を読むことでしか体験できなかった世界を、実際に自分の意思で歩き回れるのです。
正に革命です。

たぶん、それが男のロマンなのです。

ちなみに、今、女性もTVゲームを行うようになった理由の1つは、技術が発達し、コンピュータの中の擬似世界が、女性にも納得できるくらい、現実世界に近くなったからだと考えています。

今日の話は、王道のゲームの話でした。
相互の柳大先生が、呼応して書いてくださいました。
http://diarynote.jp/d/59631/20060928.html(下の方、頑張ってスクロールしてください)
私とは違った見解を見ることができます。

さて、柳大先生とは全く違った展開で、以下昨日の続きを。

「りぼん」や「なかよし」を読んでいる女子高生や女子大生は、あまり見かけませんが、「ジャンプ」や「マガジン」を読んでいる男子高生や男子学生は、よく見かけます。

女性は、ある程度の年齢に達すると、少女漫画から卒業しますが、男は「コロコロコミック」からは卒業しても、王道の少年漫画からは卒業しません。(あくまで傾向です)

それは、DiaryNoteを読んでいるだけでも納得できると思います。

これは、男が求めているものが夢の世界の冒険であり、女性が求めるものが現実だからです。

女性は、漫画に現実を求めます。ですから、漫画で起こることは、全て現実に起こりうることです。
人生を謳歌していくにつれ、女性は、漫画の出来事を同じように体験し、わざわざ漫画を読まなくても、自分で漫画の主人公を演じられるようになるのではないでしょうか?
あるいは、漫画の内容は、あくまで子ども向けに描かれているため、漫画の中の恋愛では満足できなくなるのではないでしょうか?
ですから、映画、ドラマ、小説と、もっと年相応のものを新規開拓していくのではないでしょうか?

一方、男は、夢の世界を求めます。
夢の世界に、大人も子どももありません。夢の世界では、例えば、非科学的な死者蘇生や魔法を使い、話が展開していきます。そこに、大人も子どもありません。
もちろん、ストーリー展開が難解であるか、あるいは、幼稚であるかなどの問題は出てきますが、基本原理は生涯変わりません。
そのため、子ども向けであっても、満足できるのです。
満足できれば、わざわざ新規開拓を行わなくとも、問題ないのです。

また、供給側も、そのことを理解し、子どもには難しすぎない、大人には幼稚すぎないストーリー展開をすることにより、どちらの読者も獲得しようとしているのです。

男は、非常に単純なのです。

以上、こころの考える「漫画から考える男と女の違い」でした。
今日は、少々マニアックな話になります。

少年マンガで、人気のあるアニメ化されたマンガ。

古くは、
・宇宙戦艦大和
・北斗の拳
・ドラゴンボール
・聖闘士星矢
・キン肉マン
・シティーハンター
・ガンダム

最近では、
・ONE PIECE
・遊戯王
・ブリーチ
・犬夜叉

などなど。

一方、少女漫画では、

・ベルサイユの薔薇
・セーラームーン
・怪盗 セイント・テール
・魔法騎士レイアース
・カードキャプター さくら
・こどものおもちゃ
・ママレード・ボーイ
・NANA
・花より男子

などなど。

こう書くと、ある種の特徴が見えてきます。

少年漫画では、戦い、冒険と言ったものが前面に押し出されています。(あるいは、エロ)

しかし、少女漫画では、LOVEを前面に押し出しています。そして、いくら戦い、冒険をメインストーリーにしても、LOVEがかなりのウェイトを占めていることがわかります。

それは、どんなに子ども向けの話でも同じで、少女漫画系列では、必ず好きだ嫌いだという話が必ず絡んできます。
一方、少年漫画系列では、一切、好きだ嫌いだという内容が出ないことが多く、出たとしても、あくまでギャグの範囲内であるか、あるいは、エロを前面に押し出したものなります。
つまり、純粋な好きだ嫌いだと言う話は、一切出てこないと言っても過言ではありません。

少年漫画と少女漫画では、そんな面白い傾向が出てきます。

また、単純に少年漫画誌と少女漫画誌をペラペラめくってみても、少年漫画雑誌では、冒険や戦いをしているものがほとんどですが、少女漫画雑誌では、普通の中学生、高校生が、好きだ嫌いだとやっているものがほとんどではないでしょうか?

もう1つ。少年漫画の主人公は、この地球にいないことが少なくない(つまり、違う次元で話が進む)ですが、少女漫画では、ほとんどの場合が普通の中高生、あるいは普通の中高生が何らかの理由で特別な状態に陥るというストーリーが多いです。

以上のことから、何が言えるかと言いますと、少年は、現実離れした夢の世界を旅する漫画を求め、少女は、現実とリンクした世界で、好きだ嫌いだとやる漫画を求めているのです。

面白いですね。

輪廻転生

2006年9月26日 その他
輪廻転生とはよく言ったものだと思います。

生まれ変わりを信じるか否かは別として、1つの命が失われることにより、1つの命が生まれてくるのです。
地球にある炭素量は、有限ですので、必然的に有機物量も有限になります。(もちろん、全ての炭素が有機物になるわけではないのですが)

その有限の有機物で、生物は構成されていますので、命の数も有限です。
1つの命が生まれるということは、1つの命が失われたと言うことです。

人間が繁殖し、増えていくということは、違う種の生物の個体数が減っていっているということです。

我々は死ぬと土に返り、次の生物の構成要素となるのです。
日本人は火葬されますので、二酸化炭素として大気中に放出され、その二酸化炭素を植物等が光合成をし、有機物として大地に還元します。
それは、微生物から始まり、いずれ哺乳類を始めとする高等動物の構成要素となるでしょう。

前世があるかどうかわかりませんが、こういう風に考えると、輪廻転生という言葉は、あながち間違いではないのではないかと思います。

勧善懲悪

2006年9月25日 人間
よく目にする勧善懲悪のストーリー。
何を悪とし、何を善とするのか?

先日、そんなことに疑問を感じました。

例えば、人のモノを奪うことは、悪と言われています。

しかし、よく考えてみましょう。その奪われたものは、本当にあなたのモノだったのでしょうか?

例えば、木の実を八百屋で買ってきたとしましょう。
確かに、買ったものですので、自分のモノです。でも、その店に並んでいた木の実は、誰かが、山から採ってきたものです。
その山で採ったものは、本当にその採った人のモノでしょうか?

例えば、山のリスが自分の食料として集めていた木の実を盗ってきたのかもしれません。

リスにとっては、採ってきた人は、悪です。
リスがその木の実を取り返しにきたら、リスは悪でしょうか?

結局、何が悪で何が善かと考えると、絶対に答えは出ないと思うのです。

自分に対して都合が悪いものが悪で、都合が良いものが善なのです。
そして、社会にとって都合の悪いものが悪で、都合が良いものが善なのです。

ですから、よくある勧善懲悪のストーリーでも、住民にとって、都合が悪い魔王や山賊、海賊が悪となり、都合の良い勇者などの主人公が善となるのです。

で、結局、何が言いたいのかと言いますと、何が悪で何が善なのかは判らないということです。
ですから、何事においても、見方を変えれば善と悪は入れ替わります。

何事も、簡単に悪と決め付けず、もう一度よく考える必要があります。

もし、「悪を根絶やしに」と考えている人がいれば、それは、間違いです。

あなたにとって、都合が悪いだけで、他人にとっては都合が良いかも知れません。それを根絶やしにすると、それは、その都合が良いと思っていた人から都合が悪い存在、つまり悪になってしまうのです。

そして、自分が、根絶やしにされてしまう。

あなたにあなたの正義があるのと同じで、あなたが悪だと思っている人たちにも、その人なりの正義があるのです。

昨今のニュースを見ていると、そう感じます。
最近、飲酒運転の話題がつきません。
と言うか、飲酒運転ばかり話題にしていますが、信号無視、スピード違反、携帯電話などなど。

飲酒運転について偉そうに、どうだこうだ言っている人たちの中にも、これらの違反を平気でしている人は少なくないはずです。

特に、原付でのスピード違反と携帯電話の通話は、絶対に、平気でやっている人は少なくないはずです。

そこで、先日、ちょっと思いついたのは、どんな些細な違反でも、免許証の裏に、いつどんな違反をしたか明記し、更新しても消さないようにすれば良いと思います。

レンタカーを貸す時も、貸し手はこの人がどのような人なのかすぐに判りますので、便利でしょうし、警察が取り締まる時も、免許を見るだけで全てが判りますので、便利です。

そして、免許証の裏が真っ黒な免許を持ち歩くとなると、犯罪抑止力としては、悪くないでしょう。
なにより、身分証明書として提示することの少なくない免許証ですから、レンタルビデオ屋の店員さんにまで知られてしまうとなると、下手に罰則を強化するよりも抑止力は絶大だと思います。

もし、裏側がいっぱいになってしまった場合は、大きい免許証に更新するようにすれば、なお、抑止力が働きます。
更新にはお金がかかりますし、どんどん免許証が大きくなっていけば、不便になります。

そのうちB4サイズくらいの大きさになったりするかもしれません。
そのような免許証を持ち歩くとなると大変です。と言うか、なかなか笑えます。

こんな風にすれば良いのに…

不思議ダネ

2006年9月24日 社会
少々、不思議なことがあります。
少し前、乙武さんが、「ひとつの命が誕生したことがめでたいの? それとも誕生した命が「男児だったから」めでたいの? 」と問いかけただけで、あれだけの大バッシング。

しかし、今回の「君が代」の判決には、あまり大きなバッシングを聞きません。

「君が代」の歌詞の「君が代」は、天皇であるといわれています。
その中で、「君が代」に敬意を払うことを強制することは、違憲であるという判決が出ました。

と言うことは、天皇をどう思うも自由と判決が出たということになりますよね?

なぜ、このことには反応しないのでしょう?

乙武さんは、疑問を投げかけただけ。一方、今回は結論付けてしまったわけです。

不思議です。いったい、日本人は、何処に向かいたいのでしょうか?

それとも、まだ公になるには時間が不十分なだけ?
連日の報道が気になるお話。

石原都知事の言っていることもごもっともだし、裁判所の言っていることもごもっとも。

こういう政治と住民との裁判は、下級裁判所では、住民側に有利で、上級裁判所では政治側に有利な展開になるもの。
従って、今後、東京都側が有利になっていくでしょう。

石原都知事は、上告すると言っているので、今後、大逆転が起こる可能性は、非常に高い。

ところで、私は、国旗国歌に敬意をはらう必要は、あると思います。
理由は、以下に。
5月23日 「君が代について考える(前編)」
5月24日 「君が代について考える(後編)」

とりあえず、式典という意味では、石原都知事の言っていることが正しいと思う。

もちろん、本当に、国旗国歌に敬意を払えない先生も少なくないと思いますが、そうではなく、生徒になぜ敬意を払う必要があるのか聞かれて、きちんと答えられず、そのままになってしまい、強制できなくなってしまった先生も少なくないと思います。そういう先生は、もちろん、なぜ敬意を払わないと言う考え方があるのかも答えられないはずです。
そういった先生が、自分の不甲斐なさを棚に上げて、裁判に参加していることは、間違いないと思います。
生徒とは、不甲斐ない教師に反抗したいものなのです。

5月23日 「君が代について考える(前編)」
 http://diarynote.jp/d/77110/20060523.html
5月24日 「君が代について考える(後編)」
 http://diarynote.jp/d/77110/20060524.html
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060922k0000e040085000c.html

まさか、毎日新聞に坂東さんの真意が本人によって、発表されるとは、全くもって、予想外の展開です。
こういう話を、自分で、公表してしまうと、その価値と説得力が、大きく下がってしまうからです。

しかし、私が言いたかった、坂東さんの真意とは?とは、こういう話です。

特に、後半に書かれている解説部分は、読んでおくべきだと感じます。他人による客観的意見としてとらえることができるからです。

なぜ、避妊は良くて、仔猫殺しが駄目なのか?

「社会が抱える病理を多数派の意見で押し込めてはならない。」と、本当にそう思います。
これは、ある人へのメッセージです。
なるべく、多くの方の意見を知ってみると言うのも、悪いことではないと考え、紹介させていただこう考えました。

昨日のmixiの話で、面白いご意見をいただきましたので、掻い摘んで紹介させて頂きます。

その方はmixiでは日記を書けないそうです。 

mixiは人から情報を得る場所で、ここは人と触れ合う場所だそうです。

mixiは掲示板の名前のとおりで「身元が分かる2ちゃんねる」のような雰囲気だそうそうです。
「祭り」みたいな事もあるし、日記部分はこことは違い掲示板なんだと感じさせるそうです。

しかし、mixiのコミュニティは非常に価値が高く、また、非常に多くの情報を得られるそうです。

従って、mixi=ブログではなく、mixi=コミュニティだと解釈しているそうです。

祭りがある時点で、それをコミュニティーと呼べるのかどうかは、私にとって、疑問が残る部分もあるのですが、この方が思う、ココとmixiの違いとは、そういうことだそうです。

さらに、もう一点。あの後、このような話を見つけました。

嗚呼さんの記事。(http://diarynote.jp/d/77897/20060920.html)

皆様、色々感じられているようです。

私は、ココが好きなので、ココで満足しています。
今日も、ある人へのメッセージです。
なるべく一般化して書くつもりですので、良ければ読んでみて下さい。

ブログもまた「モノ」であるという話は、8月16日の「もったいないおばけ(3)「物」と「者」と「もの」」に書きました。

ブログは、モノであり、そして、人に何かを伝えるための「モノ」であります。
もちろん、書き手によって、その限りではないとも考えられますが、人に読ませることを前提としないのであれば、7月5日の「秘密日記」に書いたように、その辺にあるメモ帳にでも書いて、大切に仕舞っておけば良いのです。

その中で、インターネットと言うものを利用してブログを書くということは、それは、多かれ少なかれ、人に読んでもらいたいという願望があることに他なりません。

さて、素人考えなのですが、例えば、芸術家(アーティスト)という観点では、絵とか音楽というものは、生み出す人間は、ある特定の人に向けたものをかくのかもしれませんが、それを関係のない人間にも見せ(聞かせ)ますよね?
そして、向けて書いた人よりも、その他多数の人の評価を気にしませんか?

例えば、ライブに来てくれるかや、展覧会に来てくれるか、コンクールで評価されるか、プロであれば、売れるかどうか?などなど。

何かを生み出す時、その目的と言うのは大切なのかもしれませんが、人の目(耳)につくようにする場合、それは、その目的以上に、その他大勢の人に認められるかと言うことがかなり大きなファクターになってきます。

そして、それは、このDiaryNoteを始めとするブログでも言える事で、日記をインターネット上に書く以上、それは、不特定多数の人間に見てもらうことが1つの目的になっていると解釈することができます。
もし、あくまで、「自分のために書いている」とか「あなたのために書いたのではない」と言ったとしても、インターネット上に書かれている以上、不本意であっても、それを見た不特定多数の人間は、非常に重要なファクターとなってしまいます。(そのファクターをどのように扱うかは、今回のテーマからは逸脱するので触れません)

その中で、例えば、私の場合は、自分の考えたことを人に評価してもらいたいという気持ちから書いる部分があります。

このように、ブログをインターネット上に書くという行為は、多かれ少なかれ、不特定多数の人間に評価(評価と言う表現では、ちょっと違う気もしますが、良い言葉が思いつきません)してもらいたいと言う気持ちが含まれていることは、間違いないと思います。
もし、そのような考えが微塵もないのであれば、インターネット上でのブログ運営を行うという行為は、非常に疲れる行為になると思います。

私は、ブログには、そのような側面があると思います。

ところで、これまた素人考えなのですが、ブログの類似品として、mixiというものがあります。
これは、閉鎖されている環境の中で、文章を書くものであると認識しています。
つまり、上記のような私の考えるブログの側面を持たないものなのです。

しかし、現在、ブログ⊇(含まれる)mixiという式が成り立っている気がします。
mixiとブログでは、似て非なるもの。

閉鎖しているからこその特徴もあるでしょう。
その文章に、どのような性格をもたせるかによって、発表の場が変わってくると言えます。

閉鎖的環境で生産されているものは、ある意味で日の目をみません。
しかし、DiaryNoteのような環境であれば、常に、不特定多数の人間が目にする環境にあります。

どちらを選ぶかは、利用者の判断です。
しかし、不特定多数の人間に向けて(も)、モノを書きたいのであれば、ココです。
mixiでは、そのような機会は少ないでしょうし、逆に、自分の生産したものを、せっかくだからと、世界に発信したい人には、理解し得ない環境でもあるでしょう。

実は、ココの秘密日記にも、同じ側面があると思うのです。
だからこそ、私は秘密日記を使っていません。

これらは、例えば「芸術」を含む「モノつくり」を目指す人間としては、ごく自然な考えだと思うのです。

キーワードは、「不特定多数」です。

もちろん、ケース バイ ケースで、自分を使い分けるというのが、社交的なのかもしれません。
しかし、そこまで苦労して、付き合う必要もないのではとも思うのです。
仕事ではないのですから、わざわざ疲れなくても?とも思うのです。


今日から、自分の記事を引用した場合は、最後にリンクを貼ろうと思います。この方が便利だと思いますので。
「もったいないおばけ(3)「物」と「者」と「もの」」http://diarynote.jp/d/77110/20060816.html
「秘密日記」http://diarynote.jp/d/77110/20060705.html
今日は、昨日、一昨日の実験後記みたいなものを。

まず、昨日の16人のご新規さんの定義ですが、足跡機能で、色が青のままの人を対象として数えました。
ですので、こちらが足跡を残した人は足跡を見て、来てくれたと解釈し、数に入っていません。
また、もし、以前来てくださったことがあったとしても、私が最後に見させてもらってから、一定期間が立っていれば、履歴が削除されて、色は青に戻りますので、その場合も人数に数えられてしまいます。
このように数を数えさせていただきました。


確かに、カウンターを回すために、ブログを書くようになってしまっては、本末転倒だとは思います。
しかし、せっかく書いているブログですので、1人でも多くの人に読んでもらいたいと思うことは、ごく自然な話だと思います。
そのために、色々試したり、試行錯誤するすることは、カウンターを回すためにブログを書くことになるのでしょうか?

もちろん、アクセス数を増やすことが全てではありません。
しかし、アクセス数が、自分のブログの評価を客観的に表すことができる数値であることに間違いはありません。

事実、こんな事を書いたため、真似して書いてみている方もいらっしゃいます。

皆さん、結果はどうだったのでしょう?アクセス数は増えましたか?

このように、皆さんのブログ運営の基礎データになれば良いと思います。

しかし、反省すべき点もありました。

実験の対象になってしまったご新規さんに対する配慮です。
このような実験を行うこと自体は、悪いことではないと考えています。
しかし、せっかく見に来て、こんな実験の対象にされてしまっては、気分が良いものではないと思います。
その辺りの配慮が欠けていたことは、深く反省し、お詫び申し上げます。
あれから約24時間経過しました。

結果発表です。

ジャジャジャジャジャジャジャーン

258HITです。

ここ数日、100〜150HITくらいで安定していたので、結果としては、エロは、カウンターを回すのに有効であると結論できると思います。

また、コメントも、0〜1件だったのが、昨日は4件。
エロはコメントを誘うこともできるようです。

しかし、以前、日に300程度のHITで安定している頃もあったので、その辺りを考えると、そこまで有効であるとも言えないのかもしれません。

しかし、特筆しておきたいことは、ご新規さんです。
普段は、1〜2人くらいしかいないのが、本日は、16人のご新規が訪れてくれました。
これは、記録的です。
ちなみに、その内訳は、男5人、女11人でした。

また、検索ワードもエロは少なくありません。
最近気になるのは、「高校生 セックス」
・・・
何を調べているのでしょう?

以上を踏まえまして、実践編を考えてみました。

固定客の獲得は、カウンターを回す上で、とても重要な問題です。
しかし、固定客を得るためにも、まずは、一度訪れて頂かなければどうにもなりません。
そのご新規さんを一度訪れさせるには、エロは有効であることが今回、わかりました。

そこで、エロを彷彿させる題名にしておき、その中で、本編を自分流に自分色でまとめ上げる。
もし、認めていただければ、そのご新規さんは、きっとリピーターになってくれるでしょう。
その時、題名と本編が全く違っていれば、がっかりしてしまうでしょうから、最終的には、「あぁ、なるほどね」と思えるような題名にしなければいけないとは思います。

以上、エロとカウンターについての考察でした。

今日の本当の題名は、「カウンターの回し方(3)」になります。
次回は、(4)を書きますので。
本当の題名は「カウンターの回し方(2)」です。

どうも、カウンターを回すのに一番良いのは、エロを書くことのようです。
下ネタは強い気がします。

「恋愛、結婚、セックス 」を書いていた時は、普段よりもアクセス数が増えていた気がします。

また、私が思うに、ついついクリックしてしまいたくなるような題名にしておけば、アクセス数が伸びるのではと思います。
が、しかし、これは、以前験してみたのですが、普段とはあまり変わりませんでした。

では、題だけエロにするとどうなるか?
それが今日の試み。

こんなことしていると嫌われてしまうのでしょうか?
まぁ、色々やってみると、皆さんのブログ運営の基礎データになり得ますから許してください。

そして、一番確実にアクセス数が増えるのは、コメントです。以前、コメントが増えまくったときは、同じようにアクセス数が増えました。
ですから、コメントを書いていただけそうな内容あるいは構成にすると、アクセス数は増えるかもしれません。

それからコメントに関して思うことは、私の中で、「しっかり書き込めたな」と思った文章と言うのは、意外と反響が少なく、適当と言いますか、不完全な文章、あるいは自分でも無茶苦茶だなと思う文章は、反響が大きかったりします。
これは、やはり、私が否定的意見を歓迎しますと言っているから、荒の多い文章に対して反響があるのだとは思いますが、なかなか複雑です。

そして、これがまたアクセス数と相関があるのがまた複雑です。

この考えからいくと、適当に荒を残しておくのも一興かもしれません。

でも、皆さん。もちろん肯定的な意見も受け付けておりますので、遠慮なさらずに書き込んでいただいて結構ですので。

以上、こんなことを書くと、いやらしく見えてしまいますが、どうせ守りませんので、気にしないで下さい。

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