ブログ運営方針1.02
2006年8月28日 御一読ください コメント (2)私は、たいした人間ではありません。
自分勝手で、傲慢で、すき放題にやってます。
それが、ある意味で、ここの運営方針です。
以下、運営方針を追加します。
運営方針1.リンクに関して。
リンクしていただける価値があると判断していただけた場合、リンクしていただければ幸いです。
しかし、いらぬ誤解を避けるためにも、リンクする前に、一度過去の日記に目を通して、それでも価値があると思っていただければ、リンクをお願いします。
過去に書いたことがあることをもう一度書いただけで、ああだこうだ言われるのは、たまりません。
しっかりとした判断で、リンクしてください。
お願いします。
以上。疲れました。精神的に。
自分勝手で、傲慢で、すき放題にやってます。
それが、ある意味で、ここの運営方針です。
以下、運営方針を追加します。
運営方針1.リンクに関して。
リンクしていただける価値があると判断していただけた場合、リンクしていただければ幸いです。
しかし、いらぬ誤解を避けるためにも、リンクする前に、一度過去の日記に目を通して、それでも価値があると思っていただければ、リンクをお願いします。
過去に書いたことがあることをもう一度書いただけで、ああだこうだ言われるのは、たまりません。
しっかりとした判断で、リンクしてください。
お願いします。
以上。疲れました。精神的に。
私のいないところで、派手にやり合っているみたいです。
私は、ログアウトしていることも少なくないので、足跡が残っていなくても見ていることは多いです。
さて、それを見て、Fruitsさんのお言葉が身にしみてきました。
そして、昔、ある方が仰っていたのは、喧嘩両成敗。
どっちが正しいとか、どっちが悪いとかではないのです。
まぁ、勝てば官軍、負ければ賊軍ですけど。
気に入らなければ、無視すればいいのです。
荒しは無視するというのは常識です。
私もFruitsさん同様、去る者追わず、来る者拒まずの精神でいきます。
誤解されているのは、気に入りませんけど。
そこはしょうがないですね。
しばらくの間、リンクを外すつもりはありません。
ところで、あのやり取りは、8月5日の「バカ人間の行く末は…」のコメント欄にそっくりです。
私自身もしっかり反省しなければと思いました。
文字だけで、考え方の違う人間が解り合おうと思うのが間違いなのかもしれません。
日本語が読める読めないの問題ではないです。
先入観や、自分の印象がそうさせるのです。
何が言いたいのかは、その人にしか解りません。
だから、その人のことを尊重しなければいけないと思います。
その人の考えを大切に。だって、本当にその人がそう考えているかはわかりませんから。
常に、そのことを前提に置いて、批判する時も批判したいと思います。
それにしても、よくあそこまで酷い文章を書きますね。
著名人を批判しているのではないのですから、その辺理解すべきでは?とは思いますが。
結局、そういう論争だと私は思います。
私は、ログアウトしていることも少なくないので、足跡が残っていなくても見ていることは多いです。
さて、それを見て、Fruitsさんのお言葉が身にしみてきました。
そして、昔、ある方が仰っていたのは、喧嘩両成敗。
どっちが正しいとか、どっちが悪いとかではないのです。
まぁ、勝てば官軍、負ければ賊軍ですけど。
気に入らなければ、無視すればいいのです。
荒しは無視するというのは常識です。
私もFruitsさん同様、去る者追わず、来る者拒まずの精神でいきます。
誤解されているのは、気に入りませんけど。
そこはしょうがないですね。
しばらくの間、リンクを外すつもりはありません。
ところで、あのやり取りは、8月5日の「バカ人間の行く末は…」のコメント欄にそっくりです。
私自身もしっかり反省しなければと思いました。
文字だけで、考え方の違う人間が解り合おうと思うのが間違いなのかもしれません。
日本語が読める読めないの問題ではないです。
先入観や、自分の印象がそうさせるのです。
何が言いたいのかは、その人にしか解りません。
だから、その人のことを尊重しなければいけないと思います。
その人の考えを大切に。だって、本当にその人がそう考えているかはわかりませんから。
常に、そのことを前提に置いて、批判する時も批判したいと思います。
それにしても、よくあそこまで酷い文章を書きますね。
著名人を批判しているのではないのですから、その辺理解すべきでは?とは思いますが。
結局、そういう論争だと私は思います。
東屋さんが消えちゃいました…
これは、8月21日の「高校生クイズ」への東屋さんのコメントの返信として書かせてもらったものです。
どこかで見てくれていると良いのですが…
一生懸命って何なんでしょう?と聞かれれば何なんでしょう?と答えてしまいそうです。
しかし、私が「高校生クイズ」で表現したかった一生懸命というのは、しなくても良いのに、したくなることがありますか?という話です。
と言いますか、「しなさい」と言われたり「しなければ」と思ってするのではなく、単純に「したい」と思ってしていることがありますか?という話です。
例えば、部活は、しなければならないものではなく、しなくても良い事ですよね?
つまり、自分でしたくてしているはずの事です。
しかし、今の高校生には、そこに、義務感を感じて活動をしているように見えるのです。
どんな義務を抱えているのかは知りません。
本気で「してみたい」と思ってしていれば、多少の障害は乗り越えられると思うのです。
だって、好奇心が先にたちますから。
しかし、義務感でやっていると、その障害を乗り越えられません。迂回路を探したり、引き返したりします。
好奇心は、恐怖心を取り除いてしまうとても危険な感情です。
しかし、若いうちは、恐怖心など必要ないと思います。ドンドン、前に進んでいくべきです。
進んでみて、考えれば良いのです。もし、間違った方向に進みそうになれば、きっと誰かが止めてくれます。大丈夫です。
だから、もったいないと思うのです。
同じようにやっていても、同じように頑張っても、義務感を持って行うのと、好奇心をもってやるのでは、モチベーションが全く違います。
モチベーションが違うと言うことは、自動的に濃度にも違いがでてきます。
私の話はそんな話です。
これは、8月21日の「高校生クイズ」への東屋さんのコメントの返信として書かせてもらったものです。
どこかで見てくれていると良いのですが…
一生懸命って何なんでしょう?と聞かれれば何なんでしょう?と答えてしまいそうです。
しかし、私が「高校生クイズ」で表現したかった一生懸命というのは、しなくても良いのに、したくなることがありますか?という話です。
と言いますか、「しなさい」と言われたり「しなければ」と思ってするのではなく、単純に「したい」と思ってしていることがありますか?という話です。
例えば、部活は、しなければならないものではなく、しなくても良い事ですよね?
つまり、自分でしたくてしているはずの事です。
しかし、今の高校生には、そこに、義務感を感じて活動をしているように見えるのです。
どんな義務を抱えているのかは知りません。
本気で「してみたい」と思ってしていれば、多少の障害は乗り越えられると思うのです。
だって、好奇心が先にたちますから。
しかし、義務感でやっていると、その障害を乗り越えられません。迂回路を探したり、引き返したりします。
好奇心は、恐怖心を取り除いてしまうとても危険な感情です。
しかし、若いうちは、恐怖心など必要ないと思います。ドンドン、前に進んでいくべきです。
進んでみて、考えれば良いのです。もし、間違った方向に進みそうになれば、きっと誰かが止めてくれます。大丈夫です。
だから、もったいないと思うのです。
同じようにやっていても、同じように頑張っても、義務感を持って行うのと、好奇心をもってやるのでは、モチベーションが全く違います。
モチベーションが違うと言うことは、自動的に濃度にも違いがでてきます。
私の話はそんな話です。
今日は、18禁のような気がします。自己責任で読んでください。
↑にメールアドレスを書いている人は少なくないですが、私もその1人です。
ここのリンク先の人は書いている人はあまりいませんが、皆さん、「日記読みました」とメールは来るんですかねぇ?
私は、未だ来たことがないのですが…
その代わりに色々と怪しげなスパムメールは届きます。美紀さんや田中さんなど。今くらいの量だと、まだ面白がっていられるので、問題ないですが。
ちょっと脱線しますが、スパムとは料理の名前だそうですね。
さて、それにしても、いわいる出会い系と呼ばれるサイトか、デリヘルの誘いばかりきます。
それも、女性が謝礼を払うそうです。
私は今まで、デリヘルと言うのは、女性の職業だと思っていたのですが、男でも働けるんですね。
新発見です。
普通は男がお金を払うと思うのですが。
そんなに、世の女性たちはセックスに飢えているのでしょうか?
男は、古くから飢えているものですが。
ただ、そういう文句で誘い込んでおいて、まったく別な詐欺サイトにたどり着くという可能性はありますけれども。
でも、こう、再々、こんなメールを見せらると、偏見ではありますが、世の女性達を見る目が変わってしまいます。
また、私も年頃の男ですので、色々と怪しげなサイトを見たりするんですが、数え切れない人数の女性がカメラの前で、平気でそんなことをしています。
プロではないんですから。あくまでも、素人orセミプロですから。
※この世は性欲のみでできているのかと思ってしまいます。
さて、偏見ですが、私は、見せられる価値があるのであれば、見せるのはOKだと思っています。
しかし、触らせるのはNGだと思っています。
博物館と同じです。見せるのはOKでも、触るのはNG。最近は、ハンズオン展示と言って、触らせることに価値を置くように移行してきていますが、それでも、1級品を触らせたりはしません。
それと同じです。簡単に触らせるような女は、二級品以下。
ですから、ストリップやヌードモデルはありだと思っていますが、風俗やAV女優はなしだと思っています。
私の需要は前者です。それに、前者は、ある種の芸術の域に達しています。
しかし、どうも、需要は後者にあるようです。
※繰り返し
ある友人が、VHSがここまで普及したのは、AVを見るためで、同じくDVDの普及もインターネットの普及も同じだと言うのです。
※繰り返し
これだけ性が安売りされていると、「恋愛、結婚、セックス」(7/31〜8/4)なんて話を書きたくもなります。
本当に、※繰り返し
↑にメールアドレスを書いている人は少なくないですが、私もその1人です。
ここのリンク先の人は書いている人はあまりいませんが、皆さん、「日記読みました」とメールは来るんですかねぇ?
私は、未だ来たことがないのですが…
その代わりに色々と怪しげなスパムメールは届きます。美紀さんや田中さんなど。今くらいの量だと、まだ面白がっていられるので、問題ないですが。
ちょっと脱線しますが、スパムとは料理の名前だそうですね。
さて、それにしても、いわいる出会い系と呼ばれるサイトか、デリヘルの誘いばかりきます。
それも、女性が謝礼を払うそうです。
私は今まで、デリヘルと言うのは、女性の職業だと思っていたのですが、男でも働けるんですね。
新発見です。
普通は男がお金を払うと思うのですが。
そんなに、世の女性たちはセックスに飢えているのでしょうか?
男は、古くから飢えているものですが。
ただ、そういう文句で誘い込んでおいて、まったく別な詐欺サイトにたどり着くという可能性はありますけれども。
でも、こう、再々、こんなメールを見せらると、偏見ではありますが、世の女性達を見る目が変わってしまいます。
また、私も年頃の男ですので、色々と怪しげなサイトを見たりするんですが、数え切れない人数の女性がカメラの前で、平気でそんなことをしています。
プロではないんですから。あくまでも、素人orセミプロですから。
※この世は性欲のみでできているのかと思ってしまいます。
さて、偏見ですが、私は、見せられる価値があるのであれば、見せるのはOKだと思っています。
しかし、触らせるのはNGだと思っています。
博物館と同じです。見せるのはOKでも、触るのはNG。最近は、ハンズオン展示と言って、触らせることに価値を置くように移行してきていますが、それでも、1級品を触らせたりはしません。
それと同じです。簡単に触らせるような女は、二級品以下。
ですから、ストリップやヌードモデルはありだと思っていますが、風俗やAV女優はなしだと思っています。
私の需要は前者です。それに、前者は、ある種の芸術の域に達しています。
しかし、どうも、需要は後者にあるようです。
※繰り返し
ある友人が、VHSがここまで普及したのは、AVを見るためで、同じくDVDの普及もインターネットの普及も同じだと言うのです。
※繰り返し
これだけ性が安売りされていると、「恋愛、結婚、セックス」(7/31〜8/4)なんて話を書きたくもなります。
本当に、※繰り返し
ちょっと最近思うのは、相手にどう思われるかが、重要に思えます。
自分にそんなつもりがなくても、そう思われてしまえば、それまで。
どんなに否定しても、どんなに説明しても、理解してもらえなければ、お終いです。
時々、そんなことしたつもりはありません。と断言している人がいますが、なんて自分勝手な言動だろう思います。
本人にその気がなくても、そう相手に感じさせてしまったことを認めなくてはいけないのではないかと思います。
その上で、どう釈明するかは、その人の問題だと思いますが。
だからこそ、誤解のない言動を心がけなくてはいけません。特に文章を書く時は、会話よりも重要になってくるでしょう。
そして、常に、自分の言動が誤解を与えている可能性があることを理解しておくべきだと思います。
もちろん、あえて、誤解を与えるような書き方をするという表現技法もあると思います。
ですから、受け取る方にも、本当に、その受け取り方で良いのかという疑問を常に持っておくべきだと思います。
それができないから、喧嘩になってしまうのだと思います。
自分にそんなつもりがなくても、そう思われてしまえば、それまで。
どんなに否定しても、どんなに説明しても、理解してもらえなければ、お終いです。
時々、そんなことしたつもりはありません。と断言している人がいますが、なんて自分勝手な言動だろう思います。
本人にその気がなくても、そう相手に感じさせてしまったことを認めなくてはいけないのではないかと思います。
その上で、どう釈明するかは、その人の問題だと思いますが。
だからこそ、誤解のない言動を心がけなくてはいけません。特に文章を書く時は、会話よりも重要になってくるでしょう。
そして、常に、自分の言動が誤解を与えている可能性があることを理解しておくべきだと思います。
もちろん、あえて、誤解を与えるような書き方をするという表現技法もあると思います。
ですから、受け取る方にも、本当に、その受け取り方で良いのかという疑問を常に持っておくべきだと思います。
それができないから、喧嘩になってしまうのだと思います。
この問題。ただの内容批判で終わらせるのか、それとももっと、深く掘り下げるのか。
私は、あえて、内容についてのみの私の解釈を朝書きました。
それは、私が検索した限り、内容批判しかなかったからです。
しかし、問題はそんなに軽いものではありません。
読み手の気持ち、時代背景、ペットのあり方、命のこと、情報のあり方、その後の対応等、問題は様々だと思います。
ここのリンク先でも様々な意見を見ることができます。
しかし、さすがと言うか、切り口がすごいです。
そこら辺のブログとは訳が違う。
内容批判は誰でもできます。
この文章を読んで、不快に思わない人がいたら会ってみたい。
それだけすごい事を書いています。
しかし、批判するのは簡単です。
気に入らないことを書き綴ればいいだけです。
私は、あえて、内容についてのみの私の解釈を朝書きました。
それは、私が検索した限り、内容批判しかなかったからです。
しかし、問題はそんなに軽いものではありません。
読み手の気持ち、時代背景、ペットのあり方、命のこと、情報のあり方、その後の対応等、問題は様々だと思います。
ここのリンク先でも様々な意見を見ることができます。
しかし、さすがと言うか、切り口がすごいです。
そこら辺のブログとは訳が違う。
内容批判は誰でもできます。
この文章を読んで、不快に思わない人がいたら会ってみたい。
それだけすごい事を書いています。
しかし、批判するのは簡単です。
気に入らないことを書き綴ればいいだけです。
城崎 レイさんの日記:http://diarynote.jp/d/28652/20060822.html
記事画像:http://image.blog.livedoor.jp/dqnplus/imgs/6/3/63b13e28.jpg
細かいところは、そちらにしっかりと書かれていますので、割愛させていただきます。
その他にも、皆さんが色々なことを書いていますが、どうも、皆さんありきたりに否定されています。
この問題、非常に難しいと思います。
と言いますのも、私は、ありだと思うからです。
まず、触れたいことは、
仔猫、仔犬が生まれました。保健所に連れて行きました。その辺に捨てました。
という話と、どこがどう違うのですか?
いずれにせよ、この仔猫(犬)は多分死にます。自分が手を下したか、下してないかの違いです。
さらに言うと、たくさんの人に迷惑をかける行為です。
まだ、自分で手を下した方がましだと思います。
次に私が思うに、この文章の背景をどう考えるのかということです。
単純に、書いてあることのみを事実として受け止めるのですか?
私は、この文章を読んで、3つの可能性を考えました。
1つ目は、単純にウソを書いている。
私は、こんな事を本当にしているとは思えません。考え方としてはありだとは思っていますが、こんな事を平気でできるとは思えませんし、思いたくない。
つまり、いつも考えている疑問を書き綴ったものである。
2つ目は、本当にしている、あるいはしたが、自責の念に押し潰されそうになり、懺悔をした。
もし、本当にこんな事をしていたとして、HP炎上を覚悟の上、告白するメリットは何でしょうか?
何ですか?ないと思います。
自分のHPを炎上させてまで何が伝えたかったのか?
どうですか?皆さんはどう考えますか?
私は、この文章の真意は、直接的に書いている内容ではないと思います。
相手は作家です。文章の上で書き手の気持ちをコントロールすることは、簡単にやってのけるでしょう。
ですから、書き手の本当の気持ちを読み取ることは不可能と言って良いと思います。
この文字の羅列に隠された真意を文章から伺える気持ちから想像することは不可能です。
その読み取れる気持ちは演技である可能性が高いのですから。
では、どうすべきか?
それは、読み手が想像するしかありません。色々考えて、考えて、必死に考えるしかありません。
つまりこれは、作家・坂東眞砂子さんからの挑戦状だと思います。
今の皆さんの答えは、坂東さんの想定内の動きでしかありません。
さて、書き手は何が伝えたいのでしょうか?
私が思うに…
これから先、私は書きません。
しかし、3つ目の可能性…ただのバカだった場合は…
どうしようもありませんが…
ちなみに、皆さんのご意見は、この「ただのバカ」に対しての意見です。
本当に、坂東さんと日経新聞は、ただのバカなのでしょうか?
それは、本人達のみぞ知る話。
しかし、たとえ腐ったとしても、日経新聞。あの超有名な日経新聞。ただのバカなのでしょうか?
多分、今後、日経新聞に謝罪文が掲載されるでしょう。
しかし、私は、そうさせてしまう今の日本人の方に疑問を感じます。
記事画像:http://image.blog.livedoor.jp/dqnplus/imgs/6/3/63b13e28.jpg
細かいところは、そちらにしっかりと書かれていますので、割愛させていただきます。
その他にも、皆さんが色々なことを書いていますが、どうも、皆さんありきたりに否定されています。
この問題、非常に難しいと思います。
と言いますのも、私は、ありだと思うからです。
まず、触れたいことは、
仔猫、仔犬が生まれました。保健所に連れて行きました。その辺に捨てました。
という話と、どこがどう違うのですか?
いずれにせよ、この仔猫(犬)は多分死にます。自分が手を下したか、下してないかの違いです。
さらに言うと、たくさんの人に迷惑をかける行為です。
まだ、自分で手を下した方がましだと思います。
次に私が思うに、この文章の背景をどう考えるのかということです。
単純に、書いてあることのみを事実として受け止めるのですか?
私は、この文章を読んで、3つの可能性を考えました。
1つ目は、単純にウソを書いている。
私は、こんな事を本当にしているとは思えません。考え方としてはありだとは思っていますが、こんな事を平気でできるとは思えませんし、思いたくない。
つまり、いつも考えている疑問を書き綴ったものである。
2つ目は、本当にしている、あるいはしたが、自責の念に押し潰されそうになり、懺悔をした。
もし、本当にこんな事をしていたとして、HP炎上を覚悟の上、告白するメリットは何でしょうか?
何ですか?ないと思います。
自分のHPを炎上させてまで何が伝えたかったのか?
どうですか?皆さんはどう考えますか?
私は、この文章の真意は、直接的に書いている内容ではないと思います。
相手は作家です。文章の上で書き手の気持ちをコントロールすることは、簡単にやってのけるでしょう。
ですから、書き手の本当の気持ちを読み取ることは不可能と言って良いと思います。
この文字の羅列に隠された真意を文章から伺える気持ちから想像することは不可能です。
その読み取れる気持ちは演技である可能性が高いのですから。
では、どうすべきか?
それは、読み手が想像するしかありません。色々考えて、考えて、必死に考えるしかありません。
つまりこれは、作家・坂東眞砂子さんからの挑戦状だと思います。
今の皆さんの答えは、坂東さんの想定内の動きでしかありません。
さて、書き手は何が伝えたいのでしょうか?
私が思うに…
これから先、私は書きません。
しかし、3つ目の可能性…ただのバカだった場合は…
どうしようもありませんが…
ちなみに、皆さんのご意見は、この「ただのバカ」に対しての意見です。
本当に、坂東さんと日経新聞は、ただのバカなのでしょうか?
それは、本人達のみぞ知る話。
しかし、たとえ腐ったとしても、日経新聞。あの超有名な日経新聞。ただのバカなのでしょうか?
多分、今後、日経新聞に謝罪文が掲載されるでしょう。
しかし、私は、そうさせてしまう今の日本人の方に疑問を感じます。
もっと、アナログに生きたい
2006年8月22日 人間 コメント (2)今日は、ちょっと個人的な話です。
最近、常々思うこと。それは、もっと、アナログな人生を送りたいなと。
私のような、理工系の男は、秋葉原にあこがれ、機械類、コンピューターにあこがれ、デジタルにあこがれた人間です。
理論を中心に、デジタルチックに話を進めます。このブログも傾向がよく出ていると思います。
それはそれで、別に悪いことではないと思っていますし、いつも書いているように、理論武装は必要です。相手を打ち負かすためには、デジタルチックな理論で戦うしかありません。特に、今の制度ではそうです。
感情論で話を進めることはできません。
でも、もっと、感情的に生きていきたいなとも思います。
もっと、自分の考えに感情的にありたいなと思います。好きなものを好きと説明するのに、理論は必要ないはずです。今の私は、完全に理論的に考えて説明します。
もっと、感覚的に、感情的に、好きなもの好き、理由なんて必要ない!!と胸を張って言えるくらいになりたいです。
コンピュータをツールとは思えない、そんな人間になりたいなと思います。
でも、同時に思うのは、周りの人間に、もう少し理論的に生きてくれよと思うのも事実です。
難しいです。
注) 私のイメージする秋葉原は、電気街です。コンピューターや、デジタル家電(初期型)を売っていて、さらに、ゲームに手を出している。と言っても、ゲームは、まだ普通のゲームで、萌えではない。そんな街です。
いつから萌えとアニメの風俗街まがいの街になってしまったんだろう…
最近、常々思うこと。それは、もっと、アナログな人生を送りたいなと。
私のような、理工系の男は、秋葉原にあこがれ、機械類、コンピューターにあこがれ、デジタルにあこがれた人間です。
理論を中心に、デジタルチックに話を進めます。このブログも傾向がよく出ていると思います。
それはそれで、別に悪いことではないと思っていますし、いつも書いているように、理論武装は必要です。相手を打ち負かすためには、デジタルチックな理論で戦うしかありません。特に、今の制度ではそうです。
感情論で話を進めることはできません。
でも、もっと、感情的に生きていきたいなとも思います。
もっと、自分の考えに感情的にありたいなと思います。好きなものを好きと説明するのに、理論は必要ないはずです。今の私は、完全に理論的に考えて説明します。
もっと、感覚的に、感情的に、好きなもの好き、理由なんて必要ない!!と胸を張って言えるくらいになりたいです。
コンピュータをツールとは思えない、そんな人間になりたいなと思います。
でも、同時に思うのは、周りの人間に、もう少し理論的に生きてくれよと思うのも事実です。
難しいです。
注) 私のイメージする秋葉原は、電気街です。コンピューターや、デジタル家電(初期型)を売っていて、さらに、ゲームに手を出している。と言っても、ゲームは、まだ普通のゲームで、萌えではない。そんな街です。
いつから萌えとアニメの風俗街まがいの街になってしまったんだろう…
連日甲子園で素晴らしい試合が行われている最中且つ、リンクしてくださっている方々に、高校生の方も少なくないので、こんな話を書くのも少々気が引けますが、甲子園は例外として扱わせていただくことにし、且つ、高校生が見てくれていると思うからこそ、あえて書かせて頂きます。
先日、ローカルではありますが、とあるTV局の方とお話をする機会がありました。
その中で、何故か話題になったのが、「最近の高校生クイズって、面白くないでしょ?」という話。
確かに、昔は喜んで見ていましたが、最近は見ようとも思わないです。
それで、その方が仰られるには、「この原因は、視聴者が飽きてきたとか、企画力が落ちたとか、もちろんそういった理由もあるのだが、それ以上に、今の高校生に魅力がないからだ」と。
もちろん、こんな事を仰られるので、日本テレビ系列のTV局ではありません。ですから、自分達のことを棚に上げているわけではありません。
まぁ、言われてみれば、確かに、番組としてのスケールは大きくなっていっていますので、企画力に大きな問題があるわけでもないでしょうし、今の高校生に魅力がないと言うのも、若干うなずける部分はあります。
それは、私達の世代の頃から言えることではありますが、魅力がないと言われれば、そうなのかもしれないです。
原因は、わかってはいます。
今の高校生は、と言うか、高校生に限りませんが、一生懸命さが伝わってこないんです。
確かに、喜んで見ていた頃の高校生クイズに出ていた高校生は、何かに一生懸命で、その一生懸命さが伝わってきていました。
何も他人に伝わらなくても、本人が満足しているのならば、それはそれで良いのですが、どうもそうではない気がするのです。
7月30日の「のび太!勉強しなさい!!(4)」でも触れましたが、私は、一生懸命なことが必要だと思います。
何でも良いんです。それが、勉強だと言うのであれば、勉強でも良いですし、部活だと言うのならば、それで良いですし、高校生くらいだと、バンドと言う人も少なくないと思います。
何も自分が何かを生産しなくても、そのお手伝いでも良いのです。例えばマネージャーとか。何かの追っかけとか。
何でも良いから、一生懸命になっていることが、大切だと思います。
で、最近の高校生、もちろん私の世代や小中学生をも含めて、何をしているのでしょうか?
部活を頑張っている人がいることは間違いないですが、何かが違って見えるのです。
一生懸命と言うよりかは、何か、ある種の義務のような、または、もっと他に何かを持っているような。何かを持っているのなら、それで良いのですが、だからと言って、その何かを一生懸命している雰囲気はないのです。
人生、損してるよなと思って見ている部分があります。(もちろん自分の事を第三者として見てみても)
一生懸命している人は、7月24日の「うさんくさい顔」につながってきますが、それなりに顔に出てきてわかるのです。
それに、何かを一生懸命している人は、結果的に、その他も一生懸命にやるはずなので、例えば成績に反映されてくるはずです。
しかし、学力低下が叫ばれる昨今、データとしてそれが反映されていないことがわかります。
どうなのでしょう?
先日、ローカルではありますが、とあるTV局の方とお話をする機会がありました。
その中で、何故か話題になったのが、「最近の高校生クイズって、面白くないでしょ?」という話。
確かに、昔は喜んで見ていましたが、最近は見ようとも思わないです。
それで、その方が仰られるには、「この原因は、視聴者が飽きてきたとか、企画力が落ちたとか、もちろんそういった理由もあるのだが、それ以上に、今の高校生に魅力がないからだ」と。
もちろん、こんな事を仰られるので、日本テレビ系列のTV局ではありません。ですから、自分達のことを棚に上げているわけではありません。
まぁ、言われてみれば、確かに、番組としてのスケールは大きくなっていっていますので、企画力に大きな問題があるわけでもないでしょうし、今の高校生に魅力がないと言うのも、若干うなずける部分はあります。
それは、私達の世代の頃から言えることではありますが、魅力がないと言われれば、そうなのかもしれないです。
原因は、わかってはいます。
今の高校生は、と言うか、高校生に限りませんが、一生懸命さが伝わってこないんです。
確かに、喜んで見ていた頃の高校生クイズに出ていた高校生は、何かに一生懸命で、その一生懸命さが伝わってきていました。
何も他人に伝わらなくても、本人が満足しているのならば、それはそれで良いのですが、どうもそうではない気がするのです。
7月30日の「のび太!勉強しなさい!!(4)」でも触れましたが、私は、一生懸命なことが必要だと思います。
何でも良いんです。それが、勉強だと言うのであれば、勉強でも良いですし、部活だと言うのならば、それで良いですし、高校生くらいだと、バンドと言う人も少なくないと思います。
何も自分が何かを生産しなくても、そのお手伝いでも良いのです。例えばマネージャーとか。何かの追っかけとか。
何でも良いから、一生懸命になっていることが、大切だと思います。
で、最近の高校生、もちろん私の世代や小中学生をも含めて、何をしているのでしょうか?
部活を頑張っている人がいることは間違いないですが、何かが違って見えるのです。
一生懸命と言うよりかは、何か、ある種の義務のような、または、もっと他に何かを持っているような。何かを持っているのなら、それで良いのですが、だからと言って、その何かを一生懸命している雰囲気はないのです。
人生、損してるよなと思って見ている部分があります。(もちろん自分の事を第三者として見てみても)
一生懸命している人は、7月24日の「うさんくさい顔」につながってきますが、それなりに顔に出てきてわかるのです。
それに、何かを一生懸命している人は、結果的に、その他も一生懸命にやるはずなので、例えば成績に反映されてくるはずです。
しかし、学力低下が叫ばれる昨今、データとしてそれが反映されていないことがわかります。
どうなのでしょう?
たかだか1万HITでお祝いのお言葉ありがとうございます。
皆様にはまだまだ、及びませんので、精進させていただきます。
さて、昨日の「矛盾だらけ」にコメントありがとうございます。
まさか、こんなに素晴らしいコメントを頂けるとは思っていませんでしたので、少々戸惑っています。
確かに、仰られるとおりだなと感服しております。私自身の未熟さが恥ずかしいです。
しかし、一方で、ちょっと違うなとも思っている自分もいます。
これが先日私の表現した矛盾です。
私は、ここのブログを1つのストーリーとしてまとめ上げるつもりはありません。
もちろん、シリーズとして書いている時や、以前書いたものを引用する場合は、1つにつながっていなければいけませんが、そうでない場合は、その限りではありません。
私は、特にブログの世界での意見の矛盾は成長だと思います。
はじめは、そう思っていても、時が経つにつれて考えが変わっていく。「それを昔はこう思っていましたが、今はこう思います。」と断りを書く人は少ないと思います。
これが成長だと思います。
また、物事は、見る方向を変えれば、見え方も変わってきます。
そのうちの1つを立てれば、他の見え方は矛盾してきます。その矛盾を認めることが、私は一番大切なことだと考えています。
ここのテーマは、私と皆さんとが、「へぇ〜、こんな考え方もあるんだぁ〜」と思うことです。
そのためには、色々な意見に柔軟でなければいけません。
また、提案する私自身が、様々な角度から物事を見る必要があります。
ですから、この矛盾点もまた、様々な角度から眺めることによって、知ることが大切だと考えています。
従って、矛盾することは、ごく自然且つ、欠かせないものだと考えています。
しかし、確かに、仰られるとおり、1人の人の言うことがいつも違っていれば、あまり良い気はしません。
この意見には賛成です。
これもまた矛盾です。この矛盾をどう評価するかという話にもなります。
確かに、答えを作っておいて、その答えに向かって進んでいけば、矛盾は生じないのかもしれません。
しかし、私は、皆さんの意見も立派な考え方として、受け入れることをモットーとしています。
だって、皆さんの意見と自分の意見を融合することにより、新しい考え方をすることができれば、それって、すごく素敵なことではないですか。
ですから、この矛盾は致し方ないことだと考えています。
矛盾を受け入れ、しっかり考えることが大切だと考えています。
その結果は、結局矛盾しているのかもしれません。
しかし、答えを出してはいけない問題もあると思います。答えがなく、永久に考え続けなくてはいけない話。そんな話もあると思います。例えば…8/15の問題とか
人の考えを受け入れ、その上で、どうするのか?
良い意見は良い意見として受け入れ、且つ、自分の意見も持ておく。それもまた1つだと思います。
その結果は、多くが矛盾だと思います。
この矛盾を矛盾として受け入れる。それも大切な考え方だと思います。
王様は、あくまでも最終決定を下す人間であって、自分の思うように動かすだけの人間では駄目だと考えています。
皆様にはまだまだ、及びませんので、精進させていただきます。
さて、昨日の「矛盾だらけ」にコメントありがとうございます。
まさか、こんなに素晴らしいコメントを頂けるとは思っていませんでしたので、少々戸惑っています。
確かに、仰られるとおりだなと感服しております。私自身の未熟さが恥ずかしいです。
しかし、一方で、ちょっと違うなとも思っている自分もいます。
これが先日私の表現した矛盾です。
私は、ここのブログを1つのストーリーとしてまとめ上げるつもりはありません。
もちろん、シリーズとして書いている時や、以前書いたものを引用する場合は、1つにつながっていなければいけませんが、そうでない場合は、その限りではありません。
私は、特にブログの世界での意見の矛盾は成長だと思います。
はじめは、そう思っていても、時が経つにつれて考えが変わっていく。「それを昔はこう思っていましたが、今はこう思います。」と断りを書く人は少ないと思います。
これが成長だと思います。
また、物事は、見る方向を変えれば、見え方も変わってきます。
そのうちの1つを立てれば、他の見え方は矛盾してきます。その矛盾を認めることが、私は一番大切なことだと考えています。
ここのテーマは、私と皆さんとが、「へぇ〜、こんな考え方もあるんだぁ〜」と思うことです。
そのためには、色々な意見に柔軟でなければいけません。
また、提案する私自身が、様々な角度から物事を見る必要があります。
ですから、この矛盾点もまた、様々な角度から眺めることによって、知ることが大切だと考えています。
従って、矛盾することは、ごく自然且つ、欠かせないものだと考えています。
しかし、確かに、仰られるとおり、1人の人の言うことがいつも違っていれば、あまり良い気はしません。
この意見には賛成です。
これもまた矛盾です。この矛盾をどう評価するかという話にもなります。
確かに、答えを作っておいて、その答えに向かって進んでいけば、矛盾は生じないのかもしれません。
しかし、私は、皆さんの意見も立派な考え方として、受け入れることをモットーとしています。
だって、皆さんの意見と自分の意見を融合することにより、新しい考え方をすることができれば、それって、すごく素敵なことではないですか。
ですから、この矛盾は致し方ないことだと考えています。
矛盾を受け入れ、しっかり考えることが大切だと考えています。
その結果は、結局矛盾しているのかもしれません。
しかし、答えを出してはいけない問題もあると思います。答えがなく、永久に考え続けなくてはいけない話。そんな話もあると思います。例えば…8/15の問題とか
人の考えを受け入れ、その上で、どうするのか?
良い意見は良い意見として受け入れ、且つ、自分の意見も持ておく。それもまた1つだと思います。
その結果は、多くが矛盾だと思います。
この矛盾を矛盾として受け入れる。それも大切な考え方だと思います。
王様は、あくまでも最終決定を下す人間であって、自分の思うように動かすだけの人間では駄目だと考えています。
早くも?やっと?1万ヒットいたしました。これもひとえに皆様のおかげです。とは言っても、この1割以上は自分で増やしたのは言うまでもありません。
ところで、9999は自分で踏んでしまいました…
←証拠映像
これだけ9が並ぶと…
相互の皆様、その他リピーターの皆様、ありがとうございます。
10000は誰が踏んだのでしょう?
ところで、9999は自分で踏んでしまいました…
←証拠映像
これだけ9が並ぶと…
相互の皆様、その他リピーターの皆様、ありがとうございます。
10000は誰が踏んだのでしょう?
今日、おそらくカウンター桁数が1つ増えると思います。
特に何も準備していませんが、9999と10000を取られた方、もし良ければ、コメントで足跡残していただければ幸いです。
本題。
私の話って、矛盾してると思いませんか?
ある時は否定したことを、ある時は肯定している。そうではないですかね?
しかし、「人の「こころ」って…(中間報告)」シリーズに書いたとおり、色んな考え方があり、それを知ることが重要なのです。
そして、何も、それを人から学ばなければいけないわけではなく、自分で2種類以上の考え方を持ったって良いんです。
さらに、6月11日の「本当の私」に書いたように、自分にも色々な自分がいるのです。A君のことを好きな自分と嫌いな自分。矛盾しているようですが、それが人間だと思います。
そして、人が見る自分というのは、その矛盾点全てをまとめた集合体として見ているのです。
もし、自分が自分を偽り、嘘の自分を演じていたとしても、それが自分であり、それが本当の自分なのです。
つまり、「隠している私」が本当の自分なわけです。
人間には良いところ、悪いところ、色々あります。しかし、その全てをひっくるめて、その人なのです。そして、その人を皆は見ている。
自分が誰かを演じていたとして、それは本当に自分の虚像なんでしょうか?
そして、矛盾だらけの自分を否定する必要はあるのでしょうか?
特に何も準備していませんが、9999と10000を取られた方、もし良ければ、コメントで足跡残していただければ幸いです。
本題。
私の話って、矛盾してると思いませんか?
ある時は否定したことを、ある時は肯定している。そうではないですかね?
しかし、「人の「こころ」って…(中間報告)」シリーズに書いたとおり、色んな考え方があり、それを知ることが重要なのです。
そして、何も、それを人から学ばなければいけないわけではなく、自分で2種類以上の考え方を持ったって良いんです。
さらに、6月11日の「本当の私」に書いたように、自分にも色々な自分がいるのです。A君のことを好きな自分と嫌いな自分。矛盾しているようですが、それが人間だと思います。
そして、人が見る自分というのは、その矛盾点全てをまとめた集合体として見ているのです。
もし、自分が自分を偽り、嘘の自分を演じていたとしても、それが自分であり、それが本当の自分なのです。
つまり、「隠している私」が本当の自分なわけです。
人間には良いところ、悪いところ、色々あります。しかし、その全てをひっくるめて、その人なのです。そして、その人を皆は見ている。
自分が誰かを演じていたとして、それは本当に自分の虚像なんでしょうか?
そして、矛盾だらけの自分を否定する必要はあるのでしょうか?
ドキッとしたあなたへ
2006年8月18日 人間色々とブログなどを読んでいて、ドキッとすることはありませんか?
私なんて、ほとんど毎日です。
このドキッとする気持ちは、図星だったからです。
そこに書かれている内容が、自分に合致したからです。
その内容は、多かれ少なかれ、自分のその部分を否定していることが多いと思います。
そういう時、どうします?
無視しておきますか?それともしっかり受け止めて、反省しますか?無かったことにしてしまいますか?書いている人が間違っているということにしますか?
私が思うに、とりあえずは、どれでも良いと思います。
それよりも、そういった内容であっても、途中で読むのを止めずに、最後まで読み、その上で、しっかりとその人の考えを受け止め、考えてみるべきだと思います。
その結果、無視することにしても、書いた人が間違っていると思っても、それは、それで良いと思います。
しっかり考え、自分の考えを持つことが大切だと思います。
私なんて、ほとんど毎日です。
このドキッとする気持ちは、図星だったからです。
そこに書かれている内容が、自分に合致したからです。
その内容は、多かれ少なかれ、自分のその部分を否定していることが多いと思います。
そういう時、どうします?
無視しておきますか?それともしっかり受け止めて、反省しますか?無かったことにしてしまいますか?書いている人が間違っているということにしますか?
私が思うに、とりあえずは、どれでも良いと思います。
それよりも、そういった内容であっても、途中で読むのを止めずに、最後まで読み、その上で、しっかりとその人の考えを受け止め、考えてみるべきだと思います。
その結果、無視することにしても、書いた人が間違っていると思っても、それは、それで良いと思います。
しっかり考え、自分の考えを持つことが大切だと思います。
もったいないおばけ(4)
2006年8月17日 人間さて、「モノ」という表現の中に、「コンテンツ」も含まれるとすると、どうなるのか?
どうもなりません。モノを大切にしましょうと言いたいのです。
そう、形のない、文章やプログラム、音楽、映画を大切にしましょう。
例えば、ブロガーの皆さん。あなたの書いているブログは、もう立派なコンテンツです。
そのコンテンツを自分の作り上げたコンテンツとして、大切にしましょう。
もちろん、できの悪いコンテンツを消したくなることはあるでしょう。しかし、それもあなたの記録なのです。失敗したことも記録です。失敗があるからこそ、成功もあるのです。
その記録を封印することはあっても、大切な記録として、残しておきましょう。
安易に消し去って良いものであるはずがありません。
自分で生み出したモノを簡単に消し去ってしまうことが良いはずがありません。
自分で生み出したものこそ、本来、愛着がわくはずです。
人につくってもらったモノよりも、自分でつくったモノの方が愛着があるはずです。
自分でつくったモノに愛着をもてない人が、人につくってもらったモノに愛着をもてるはずがないと思うのです。
つまりは、モノを大切にできない。簡単に使い古して捨てるのです。
さて、結局何が書きたいのか言いますと、コンテンツを大事にすることを忘れていませんか?と言いたいのです。
コンテンツがまだ新しい文化であるため、そのコンテンツがなんなのか理解できていない人が多いのではないかと思います。
私の見解も、あくまでも1つの見解ではあります。しかし、コンテンツは、モノであると思います。モノである以上、やはり、大切にすべきではないでしょうか?
コンピューターが発達した昨今、
自分の今までしてきた行為に責任を持つことと、その結果、失敗したのなら、その失敗を受け止めることが大切だと思います。本来、皆さん、そう教わってきたはずです。
そういう過程を踏むからこそ、出来上がったモノを大切にできるのだと思います。
コンピューターの発達により、そういった過程がないがしろにされている気がします。
先日、「リセットしたかった・・・」と言って、人を殺した少年がいました。
そのニュースを見て、たくさんの方がTVやブログなどで、コメントされていますが、「現実は。ゲームとは違うんだよ。」とか、「ゲームと現実の違いが理解できていない」とか言っていますが、それは、あくまでも結果論です。
だいたい、子ども(彼は高校生でしたが)が、現実とゲームの違いを理解できるはずがないのです。
小さい頃、TVのヒーローにあこがれて、いつかウルトラマンになるんだと思いませんでしたか?これこそ、子どもが現実との区別がついていない証拠です。(TVは自分が操作することができないため、自分の行動に直接的な影響を及ぼさないのです)
でも、今でも、心のどこかにウルトラマンがいれば良いのにと思いませんか?
ゲームが直接悪いわけではなく、コンテンツを大切にしない、もっと言えば、モノを大切にしない、そんな風潮が、そうさせているのです。
親や先生が、子どもを教育するとき、「失敗は、失敗として受け止めなさい。リセットしてやり直すことができるのだとしても、やり直すのではなく、その失敗を受け止めて、それを糧としてもう一度挑戦しなさい」と教えれば良いのです。
ゲームのセーブデータも、あなたが長時間かけて積み重ねてきた、あなたの記録であり、ある種のコンテンツなのです。
その記録を大切にすることが、本来大切なのではないでしょうか?
それができないから、命を大切にできないのです。
ゲームの遊び方にだって、タブーがあって良いのです。
それを教えるのは、親や先生といった大人達なのです。
どうもなりません。モノを大切にしましょうと言いたいのです。
そう、形のない、文章やプログラム、音楽、映画を大切にしましょう。
例えば、ブロガーの皆さん。あなたの書いているブログは、もう立派なコンテンツです。
そのコンテンツを自分の作り上げたコンテンツとして、大切にしましょう。
もちろん、できの悪いコンテンツを消したくなることはあるでしょう。しかし、それもあなたの記録なのです。失敗したことも記録です。失敗があるからこそ、成功もあるのです。
その記録を封印することはあっても、大切な記録として、残しておきましょう。
安易に消し去って良いものであるはずがありません。
自分で生み出したモノを簡単に消し去ってしまうことが良いはずがありません。
自分で生み出したものこそ、本来、愛着がわくはずです。
人につくってもらったモノよりも、自分でつくったモノの方が愛着があるはずです。
自分でつくったモノに愛着をもてない人が、人につくってもらったモノに愛着をもてるはずがないと思うのです。
つまりは、モノを大切にできない。簡単に使い古して捨てるのです。
さて、結局何が書きたいのか言いますと、コンテンツを大事にすることを忘れていませんか?と言いたいのです。
コンテンツがまだ新しい文化であるため、そのコンテンツがなんなのか理解できていない人が多いのではないかと思います。
私の見解も、あくまでも1つの見解ではあります。しかし、コンテンツは、モノであると思います。モノである以上、やはり、大切にすべきではないでしょうか?
コンピューターが発達した昨今、
まず、簡単に複製できてしまいます。自分でつくるという行為を忘れていないですか?
次に、跡形もなく消し去ることも容易です。自分のつくったモノを簡単に消し去っていませんか?
リセットできてしまう。失敗したら、簡単にリセットしてやり直しませんか?
自分の今までしてきた行為に責任を持つことと、その結果、失敗したのなら、その失敗を受け止めることが大切だと思います。本来、皆さん、そう教わってきたはずです。
そういう過程を踏むからこそ、出来上がったモノを大切にできるのだと思います。
コンピューターの発達により、そういった過程がないがしろにされている気がします。
先日、「リセットしたかった・・・」と言って、人を殺した少年がいました。
そのニュースを見て、たくさんの方がTVやブログなどで、コメントされていますが、「現実は。ゲームとは違うんだよ。」とか、「ゲームと現実の違いが理解できていない」とか言っていますが、それは、あくまでも結果論です。
だいたい、子ども(彼は高校生でしたが)が、現実とゲームの違いを理解できるはずがないのです。
小さい頃、TVのヒーローにあこがれて、いつかウルトラマンになるんだと思いませんでしたか?これこそ、子どもが現実との区別がついていない証拠です。(TVは自分が操作することができないため、自分の行動に直接的な影響を及ぼさないのです)
でも、今でも、心のどこかにウルトラマンがいれば良いのにと思いませんか?
ゲームが直接悪いわけではなく、コンテンツを大切にしない、もっと言えば、モノを大切にしない、そんな風潮が、そうさせているのです。
親や先生が、子どもを教育するとき、「失敗は、失敗として受け止めなさい。リセットしてやり直すことができるのだとしても、やり直すのではなく、その失敗を受け止めて、それを糧としてもう一度挑戦しなさい」と教えれば良いのです。
ゲームのセーブデータも、あなたが長時間かけて積み重ねてきた、あなたの記録であり、ある種のコンテンツなのです。
その記録を大切にすることが、本来大切なのではないでしょうか?
それができないから、命を大切にできないのです。
ゲームの遊び方にだって、タブーがあって良いのです。
それを教えるのは、親や先生といった大人達なのです。
もったいないおばけ(3)「物」と「者」と「もの」
2006年8月16日 人間私が「モノ」と表現するのには、もう1つ理由があります。
「物」と表現すると、どうも、物体そのもののように感じてしまうからです。
例えば、作家さんのことを「もの書き」と表現します。つまり、文章自体を「モノ」という音で表現するということです。しかし、「物」と書かれて、文章自体を思い浮かべることは少ないと思います。
やはり、「本」という実体あるものを想像すると思います。
しかし、「本」の価値は、その紙を束ねたその物体にあるのではなく、その紙に書かれた内容に価値があるのです。
以上を考えると、「モノ」という音の中に、もちろん物体としての物という意味もありますが、それ以外に、その内容そのものを指すこともできるのです。
さて、ここで考えたいのは、今、日本政府の方針は、コンテンツ事業に力を入れようとしていることです。
コンテンツとは、一般に、本であれば文章や絵のこと、コンピューターの世界では、ハードではなくソフト、その他映画やTV番組などを指す和製英語です。
つまり、実体のある「物」ではなく、その中身を指します。
今、日本は、産業を今までのイメージする「物」から、その内容(つまりコンテンツ)にシフトしていると言うことです。
その中で、「物」と表現していると、物体そのものをイメージしてしまいます。
しかし、これからの時代、その物体そのものよりも、その内容について考えていかなければなりません。
そこで、あえて、「物」ではなく「モノ」や「もの」という表現をすることにしています。
そうすることにより、「物」と「者(人)」と「コンテンツ」を同時に表そうとしているのです。
「物」と表現すると、どうも、物体そのもののように感じてしまうからです。
例えば、作家さんのことを「もの書き」と表現します。つまり、文章自体を「モノ」という音で表現するということです。しかし、「物」と書かれて、文章自体を思い浮かべることは少ないと思います。
やはり、「本」という実体あるものを想像すると思います。
しかし、「本」の価値は、その紙を束ねたその物体にあるのではなく、その紙に書かれた内容に価値があるのです。
以上を考えると、「モノ」という音の中に、もちろん物体としての物という意味もありますが、それ以外に、その内容そのものを指すこともできるのです。
さて、ここで考えたいのは、今、日本政府の方針は、コンテンツ事業に力を入れようとしていることです。
コンテンツとは、一般に、本であれば文章や絵のこと、コンピューターの世界では、ハードではなくソフト、その他映画やTV番組などを指す和製英語です。
つまり、実体のある「物」ではなく、その中身を指します。
今、日本は、産業を今までのイメージする「物」から、その内容(つまりコンテンツ)にシフトしていると言うことです。
その中で、「物」と表現していると、物体そのものをイメージしてしまいます。
しかし、これからの時代、その物体そのものよりも、その内容について考えていかなければなりません。
そこで、あえて、「物」ではなく「モノ」や「もの」という表現をすることにしています。
そうすることにより、「物」と「者(人)」と「コンテンツ」を同時に表そうとしているのです。
もったいないおばけ(2)
2006年8月15日 人間 コメント (4)昨日の日記から読んでください。
昨日、モノを大切にしなくなくなったという話を書きました。
私は、昨日、「モノ」と書きました。「物」とは書きませでした。これは、きちんと意図するところがあったからです。
別に「もの」でも良いのですが、「もの」だと、他の字の中に埋もれてしまって読みにくくなるために、「モノ」を使いました。本当は「もの」の方が、やわらかく見えるので良かったのですけれども。
皆さん、「物」と解釈して読んでいたと思います。
私自身、「物」と解釈させるように意図的に文章を作ったつもりです。
しかし、「もの」と打って、変換してみてください。
WindowsXPの場合、「喪の」や、「藻の」なども出てきますが、「者」という漢字が出てきませんか?
そう、私が使った「モノ」は、「物」という意味はもちろんのこと、「者」つまり、「人」を指す言葉としても使いました。
こう書くと、シャーペンと人間が同じなのか?と思われるかもしれませんが、別に大差はないと考えています。
元来、日本では物にも魂が宿ると言われています。百鬼夜行はその典型的例です。
わかる人にはわかる「へなもん」もそうです。
アニメでは、物がしゃべって動きます。物がしゃべれば良いのにという日本人の願望が生み出した産物でしょう。
そして、私達は、物に話しかけます。
それは、物を物としてだけは見ていない証拠です。
最近、命を大切にしないとか、自分を大切にしないとか、よく耳にしますが、それ以前に、物を大切にしていないのです。
そして、残念ながら、最近、「物を大切にしましょう」という言葉をあまり聞かなくなりました。以前に比べ、「物を大切にしましょう」という教育がされていないのです。
命は確かに大切です。世界に1つしかない、代えようのない存在です。
しかし、本来、物だって、世界に1つしかない存在です。
確かに、大量生産により、本当に良く似た物があふれています。
しかし、そこにあるその物は、世界に1つしかないのです。隣に並んでいる同じ商品とは、どこかが若干違うはずです。
歌のフレーズで、「あの頃すっごくはやっていたから買いに走ったこのスニーカーも、今では世界中探しても見つからない最高のボロボロ靴さ」というのがあります。
例え、大量生産された物でも、自分しか持っていない、大切な存在なのです。
物を大切にできない人間が、者を大切にできるはずがない。
物を大切にしない人間が、者だけを大切にできるはずがない。
最近の事件の裏側には、こういった、根本的問題が隠れているのです。
私は、そう思います。
昨日、モノを大切にしなくなくなったという話を書きました。
私は、昨日、「モノ」と書きました。「物」とは書きませでした。これは、きちんと意図するところがあったからです。
別に「もの」でも良いのですが、「もの」だと、他の字の中に埋もれてしまって読みにくくなるために、「モノ」を使いました。本当は「もの」の方が、やわらかく見えるので良かったのですけれども。
皆さん、「物」と解釈して読んでいたと思います。
私自身、「物」と解釈させるように意図的に文章を作ったつもりです。
しかし、「もの」と打って、変換してみてください。
WindowsXPの場合、「喪の」や、「藻の」なども出てきますが、「者」という漢字が出てきませんか?
そう、私が使った「モノ」は、「物」という意味はもちろんのこと、「者」つまり、「人」を指す言葉としても使いました。
こう書くと、シャーペンと人間が同じなのか?と思われるかもしれませんが、別に大差はないと考えています。
元来、日本では物にも魂が宿ると言われています。百鬼夜行はその典型的例です。
わかる人にはわかる「へなもん」もそうです。
アニメでは、物がしゃべって動きます。物がしゃべれば良いのにという日本人の願望が生み出した産物でしょう。
そして、私達は、物に話しかけます。
それは、物を物としてだけは見ていない証拠です。
最近、命を大切にしないとか、自分を大切にしないとか、よく耳にしますが、それ以前に、物を大切にしていないのです。
そして、残念ながら、最近、「物を大切にしましょう」という言葉をあまり聞かなくなりました。以前に比べ、「物を大切にしましょう」という教育がされていないのです。
命は確かに大切です。世界に1つしかない、代えようのない存在です。
しかし、本来、物だって、世界に1つしかない存在です。
確かに、大量生産により、本当に良く似た物があふれています。
しかし、そこにあるその物は、世界に1つしかないのです。隣に並んでいる同じ商品とは、どこかが若干違うはずです。
歌のフレーズで、「あの頃すっごくはやっていたから買いに走ったこのスニーカーも、今では世界中探しても見つからない最高のボロボロ靴さ」というのがあります。
例え、大量生産された物でも、自分しか持っていない、大切な存在なのです。
物を大切にできない人間が、者を大切にできるはずがない。
物を大切にしない人間が、者だけを大切にできるはずがない。
最近の事件の裏側には、こういった、根本的問題が隠れているのです。
私は、そう思います。
食事中の方がおられましたら、食事が終了してお読みください。若干汚い表現が含まれます。
少し前、「もったいない」という言葉が話題になりました。
さらに、先日新幹線に「MOTTAINAI」というポスターが貼ってありました。
諸外国には無いそうですね。そういう言葉。
私も、ジーニアスで簡単に調べてみましたが、私がイメージする「もったいない」に合致する英単語はありませんでした。
以前、ジャスミンさんに頂いたコメントにこんな話がありました。
なにも、これはコンピュータに対することだけではなく、全てのモノに対して言えることだと思います。
日本人は、「モノを大切にする」、それも、壊れて、使えなくても大切にしてしまう、そんな傾向があるようです。
昔から、「もったいない」の他にも、「百鬼夜行」という言葉があります。これは、まだ使えるのに、捨てられた道具達が妖怪となって町を行脚するというもの。(簡単に調べた結果、実はこの見解は違うかもしれないので、あまり信用しないでください。)
実際、私は、親や先生から、「もったいない、もったいない」と言われ続けて育ちました。
祖母が亡くなって、家を片付けたとき、ありえないようなものが次々と出てきました。
それを見るたびに、「こんなもの捨てれば良いのに…」と思いました。
しかし、両親は、そんなことを言っている私に、「昔は物が無かったから、何でもとっておく癖があるんだよ。」と。
でも、これこそが、正に「もったいない」なのです。
何事にも限度と言うものがありますが、それでもモノを大切にすることは大切です。
昔はよく、「もったいないおばけがでるぞー」と言われたものです。
本来、日本人は、究極のリサイクル生活を送っていました。
鯨をとってみてもそうです。捨てるところは無かったそうです。
また、下に関してもそうです。肥溜めに溜めておき、畑に撒いて肥やしにする。
究極の循環型リサイクル社会が実現していたのです。
また、日本製のもの、特に自動車はその典型的例だと思いますが、とても持ちが良いです。
和服や和紙、日本家屋と、とにかく、その物持ちの良さには、驚かされます。
これは、今まで、日本人が、その一時的な機能よりも、より長持ちするものを作るために、技術開発をし続けた結果だと思います。
1つのモノを長く使う、国民性がそうであったために、そうあれたのだと思います。
しかし、どうも最近はそうでなくなってきている。そんな気がします。
その影には、高度経済成長期の大量生産、大量消費があることは言うまでもありません。
実際、「もったいない」という言葉を聞いたのも、すごく久しぶりだった気がします。
なにもかも、まだ壊れてもいないのに、買い換えてしまう。
そして、簡単にモノが壊れてしまう。
確かに、便利になりました。でも、簡単にモノを捨ててしまう。そんな生活をしています。
悲しいことだなと思いました。
以上、期待を裏切る最低のこころのブログでした。
少し前、「もったいない」という言葉が話題になりました。
さらに、先日新幹線に「MOTTAINAI」というポスターが貼ってありました。
諸外国には無いそうですね。そういう言葉。
私も、ジーニアスで簡単に調べてみましたが、私がイメージする「もったいない」に合致する英単語はありませんでした。
以前、ジャスミンさんに頂いたコメントにこんな話がありました。
難しい話はわからないけどね、以前、新聞の記事でこんなこと言ってました。
『日本人は自分のコンピューターに名前をつけて、挨拶までしている。
そして壊れたコンピューターを捨てられずにいる。
壊れたコンピューターをどうして捨てられない?
もう使えないもなら、ただのゴミだろう。
どうして日本人はただの道具に愛着を持つのだろう?
日本人はロボットにまで名前をつけて、一緒に生活をし、
ともに笑い泣いたりし、友達のようにロボットと一緒にいる。
なんだか理解に苦しむよ。』
というのがアメリカ人の評論家のような人が言ってました。
なにも、これはコンピュータに対することだけではなく、全てのモノに対して言えることだと思います。
日本人は、「モノを大切にする」、それも、壊れて、使えなくても大切にしてしまう、そんな傾向があるようです。
昔から、「もったいない」の他にも、「百鬼夜行」という言葉があります。これは、まだ使えるのに、捨てられた道具達が妖怪となって町を行脚するというもの。(簡単に調べた結果、実はこの見解は違うかもしれないので、あまり信用しないでください。)
実際、私は、親や先生から、「もったいない、もったいない」と言われ続けて育ちました。
祖母が亡くなって、家を片付けたとき、ありえないようなものが次々と出てきました。
それを見るたびに、「こんなもの捨てれば良いのに…」と思いました。
しかし、両親は、そんなことを言っている私に、「昔は物が無かったから、何でもとっておく癖があるんだよ。」と。
でも、これこそが、正に「もったいない」なのです。
何事にも限度と言うものがありますが、それでもモノを大切にすることは大切です。
昔はよく、「もったいないおばけがでるぞー」と言われたものです。
本来、日本人は、究極のリサイクル生活を送っていました。
鯨をとってみてもそうです。捨てるところは無かったそうです。
また、下に関してもそうです。肥溜めに溜めておき、畑に撒いて肥やしにする。
究極の循環型リサイクル社会が実現していたのです。
また、日本製のもの、特に自動車はその典型的例だと思いますが、とても持ちが良いです。
和服や和紙、日本家屋と、とにかく、その物持ちの良さには、驚かされます。
これは、今まで、日本人が、その一時的な機能よりも、より長持ちするものを作るために、技術開発をし続けた結果だと思います。
1つのモノを長く使う、国民性がそうであったために、そうあれたのだと思います。
しかし、どうも最近はそうでなくなってきている。そんな気がします。
その影には、高度経済成長期の大量生産、大量消費があることは言うまでもありません。
実際、「もったいない」という言葉を聞いたのも、すごく久しぶりだった気がします。
なにもかも、まだ壊れてもいないのに、買い換えてしまう。
そして、簡単にモノが壊れてしまう。
確かに、便利になりました。でも、簡単にモノを捨ててしまう。そんな生活をしています。
悲しいことだなと思いました。
以上、期待を裏切る最低のこころのブログでした。
小ネタいかがだったでしょうか?
カウンターの回りは悪いですが、日本語も1つのテーマになるかもしれません。
さて、今日は、次回予告。
毎日毎日、暑い日が続きますね。
完全に夏です。
さらに、今年は残暑も厳しいそうで。
さて、夏といえば?
カキ氷?アイスクリーム?海?プール?
スイカ割りに、絵日記に、宿題?
いえいえ、違いますよ。
そう、夏といえば、おばけです。
次回からは、おばけの話。お盆ですし。(いや、違うだろう)
皆で涼しくなりましょう。
PS.完全にネタ切れなこころお許しください…
カウンターの回りは悪いですが、日本語も1つのテーマになるかもしれません。
さて、今日は、次回予告。
毎日毎日、暑い日が続きますね。
完全に夏です。
さらに、今年は残暑も厳しいそうで。
さて、夏といえば?
カキ氷?アイスクリーム?海?プール?
スイカ割りに、絵日記に、宿題?
いえいえ、違いますよ。
そう、夏といえば、おばけです。
次回からは、おばけの話。お盆ですし。(いや、違うだろう)
皆で涼しくなりましょう。
PS.完全にネタ切れなこころお許しください…
先日の「恋愛、結婚、セックス」を書いている途中で、たくさんの方がリンクしてくださいました。改めて、ありがとうございます。
さて、その中で、無言でリンクしてくださる方や、挨拶だけコメントに残してくださる方や、感想と挨拶の両方を書き込んでいって下さる方と、その貼り方も様々なことに面白さを感じます。
私が、リンクを貼らせていただく時も、適当ですので、そのこと自体は、全く気にしていないんですが、コメントの文章にちょっと気になる点がありましたので、今回取り上げさせていただくことにしました。
こんなコメント残してくださった方がいました。
???
何か失礼ではないですか?
通りすがり=ついでです。
本当の用事は別にあるんですが、たまたま通りがかったので、ついでにリンクしました。ついでによろしく。
初対面の人に、失礼では?
コメントを残すだけの場合は、「ついでに書いたものなので、気を使わないでください」とか「たまたま通りがかっただけなので、次は無いかもしれません」という意味だと思うのですが、ついでにリンク貼りましたとはいかに?
次もあるわけですし、気を使わないでくださいと言われても、リンクを貼られて、気を使うなというのも無茶な話です。
それに、リンクを貼るという行為は、相手が上で自分が下に位置すると思います。相手を敬う気持ちが必要ではないかと感じます。
どうしても、「通りすがり」という言葉を使いたいのであれば、「通りすがっただけなのですが、あなたの○○が○○だと思い、リンクさせてもらいました。」といった表現が必要なのでは?とちょっと感じました。
皆様、いかがでしょうか?
私も含めて誰もそのように解釈はしないでしょうが、誤解を与えてしまう可能性はあります。
また、日本語は大切にしたいです。(お前が言うなって?)
さて、その中で、無言でリンクしてくださる方や、挨拶だけコメントに残してくださる方や、感想と挨拶の両方を書き込んでいって下さる方と、その貼り方も様々なことに面白さを感じます。
私が、リンクを貼らせていただく時も、適当ですので、そのこと自体は、全く気にしていないんですが、コメントの文章にちょっと気になる点がありましたので、今回取り上げさせていただくことにしました。
こんなコメント残してくださった方がいました。
はじめまして。通りすがりの○○です。
・・・感想・・・
ところで、リンク貼らせて頂きました。
・・・以下略・・・
???
何か失礼ではないですか?
通りすがり=ついでです。
本当の用事は別にあるんですが、たまたま通りがかったので、ついでにリンクしました。ついでによろしく。
初対面の人に、失礼では?
コメントを残すだけの場合は、「ついでに書いたものなので、気を使わないでください」とか「たまたま通りがかっただけなので、次は無いかもしれません」という意味だと思うのですが、ついでにリンク貼りましたとはいかに?
次もあるわけですし、気を使わないでくださいと言われても、リンクを貼られて、気を使うなというのも無茶な話です。
それに、リンクを貼るという行為は、相手が上で自分が下に位置すると思います。相手を敬う気持ちが必要ではないかと感じます。
どうしても、「通りすがり」という言葉を使いたいのであれば、「通りすがっただけなのですが、あなたの○○が○○だと思い、リンクさせてもらいました。」といった表現が必要なのでは?とちょっと感じました。
皆様、いかがでしょうか?
私も含めて誰もそのように解釈はしないでしょうが、誤解を与えてしまう可能性はあります。
また、日本語は大切にしたいです。(お前が言うなって?)
それって褒め言葉?(訂正しました)
2006年8月11日 その他 コメント (2)
ことばおじさんとアナウンサーズ CD インディペンデントレーベル 2006/09/22 ¥840
ことばおじさんことNHKアナウンサー梅津正樹さんが歌う、「これってホメことば?」
なかなか話題沸騰?のようで。
CD&DVDの発売も決定して、好調のようです。
私は好きです。
企画のおバカ度もNHKにしてはなかなか面白いのですが、今回はそんな話は置いといて、城崎レイさんのコメントを見て思い出したお話を。
この歌詞の中に、「なにげに」と「普通」、「やばい」、「よくなくない?」と言うことばが出てきます。
意味は、褒め言葉ということですが、「本当に?」と最近の若者のこころは思うのです。
「やばい」は、「危険や不都合な状況が予測される」状態を言いますので、転じて、ニュアンス的には、「人並み外れた、想定外の結果」という意味です。
「やばい」と言うと、予想外というニュアンスが考えられますが、良い意味でも悪い意味でも、想定外という意味です。従って、想定外に良ければ、褒め言葉になり得ます。
と、ここまでは、褒め言葉として成り立っているとは思うのですが、
「なにげに」と言うと、元々「ひっそり」と言う意味があるので、「こっそり」とか「意外に」というニュアンスがあると思います。従って、「なにげに上手い」と表現すると、私的解釈では、「能有る鷹は爪を隠す」的な表現だと思っています。
「意外に上手ですね?」と言うのは、本当に褒め言葉?
「普通に美味しい」ということは、すごく美味しいのではなく、美味しくないわけでもなく、ごく普通の美味しさを表しています。
つまり、普通だと。「普通に美味しい」ので、美味しいことには間違いないのですが、格別美味しいわけでもなく、ごく一般レベルの美味しさとなります。
いずれにせよ、微妙な言葉です。
私がこう、周りの人間と会話するに、どうも、上記のようなニュアンスを含んでいる気がするのです。
実際、歌詞もそんなニュアンスで作っていますが、本当に褒め言葉?
いずれにせよ、相手を小ばかにしたような表現だと思いますけど。
最後に、「よくなくない?」ですが、これは、二重否定となっていますので、「良くない」の否定になります。従って、「良い」という意味になります。
が、しかし、この文章には「?」がついており、疑問文として、相手に同意を求めています。
ですから、解釈としては、「この花、良いですよね?」というニュアンスではないでしょうか?
しかし、花を貰っておいて、くれた人に「良いですよね?」と聞き返すとは、まったく天晴れな行動です。
「つまらない物ですが…」と言いながらも、良いと思ったから、プレゼントしているのに…失礼極まりないです。
参考URL:http://www.nhk.or.jp/a-room/index.html
*コメントでちきさんに指摘されたことを訂正しました。
ことばおじさんことNHKアナウンサー梅津正樹さんが歌う、「これってホメことば?」
なかなか話題沸騰?のようで。
CD&DVDの発売も決定して、好調のようです。
私は好きです。
企画のおバカ度もNHKにしてはなかなか面白いのですが、今回はそんな話は置いといて、城崎レイさんのコメントを見て思い出したお話を。
この歌詞の中に、「なにげに」と「普通」、「やばい」、「よくなくない?」と言うことばが出てきます。
意味は、褒め言葉ということですが、「本当に?」と最近の若者のこころは思うのです。
「やばい」は、「危険や不都合な状況が予測される」状態を言いますので、転じて、ニュアンス的には、「人並み外れた、想定外の結果」という意味です。
「やばい」と言うと、予想外というニュアンスが考えられますが、良い意味でも悪い意味でも、想定外という意味です。従って、想定外に良ければ、褒め言葉になり得ます。
と、ここまでは、褒め言葉として成り立っているとは思うのですが、
「なにげに」と言うと、元々「ひっそり」と言う意味があるので、「こっそり」とか「意外に」というニュアンスがあると思います。従って、「なにげに上手い」と表現すると、私的解釈では、「能有る鷹は爪を隠す」的な表現だと思っています。
「意外に上手ですね?」と言うのは、本当に褒め言葉?
「普通に美味しい」ということは、すごく美味しいのではなく、美味しくないわけでもなく、ごく普通の美味しさを表しています。
つまり、普通だと。「普通に美味しい」ので、美味しいことには間違いないのですが、格別美味しいわけでもなく、ごく一般レベルの美味しさとなります。
いずれにせよ、微妙な言葉です。
私がこう、周りの人間と会話するに、どうも、上記のようなニュアンスを含んでいる気がするのです。
実際、歌詞もそんなニュアンスで作っていますが、本当に褒め言葉?
いずれにせよ、相手を小ばかにしたような表現だと思いますけど。
最後に、「よくなくない?」ですが、これは、二重否定となっていますので、「良くない」の否定になります。従って、「良い」という意味になります。
が、しかし、この文章には「?」がついており、疑問文として、相手に同意を求めています。
ですから、解釈としては、「この花、良いですよね?」というニュアンスではないでしょうか?
しかし、花を貰っておいて、くれた人に「良いですよね?」と聞き返すとは、まったく天晴れな行動です。
「つまらない物ですが…」と言いながらも、良いと思ったから、プレゼントしているのに…失礼極まりないです。
参考URL:http://www.nhk.or.jp/a-room/index.html
*コメントでちきさんに指摘されたことを訂正しました。