価値を置くもの

2006年5月15日 人間
人それぞれ、何に価値を置くかが違うと思います。

例えば、時間について。

なんにしてもそうですが、時間を守りましょうと言います。

基本的には、時間を守ることは大切です。しかし、全ての価値を時間において良いんでしょうか?

具体的には、家庭教師。

私は、家庭教師をやっています。
某大手(昔、上戸彩がCMしてたいた)の家庭教師仲介業者のお世話になっております。
そこの方針は、とにかく、時間のことを気にしています。

ある意味、当たり前のことです。社会において、時間を守ることは、ごく自然なことです。

しかし、家庭教師は、1対1の個人指導。

1対多の話とは違います。

お互いが納得していれば、それで良いのです。

例えば、生徒さんが、「何だか今日だるいなぁ」と思った場合、普通に考えると、そんなことは関係なく、先生は指導に行って、実際、指導するわけです。
しかし、私は、そうではなく、もしお互いが次の日なり、来週なりに、都合がつくのであれば、それは、延長するべきだと考えます。
それは、やはり、気が乗らないのに勉強したところで、集中できません。集中して勉強するのとでは、効率が天と地ほどの差ができます。こんなことでは、お互いに時間の無駄です。生徒さんにとっては、お金の無駄です。

休憩に関してもそうです。途中にはさむ休憩も、指定されています。しかし、それも同じ理由で、適せん調節していくべきでしょう。

また、逆に、私たち先生側にも同じことが言えます。
もし、忙しくても、仕事だからと思って、時間通りに行ったとしましょう。しかし、その後もやることがあると、ソワソワして仕事にならないでしょう。時間に送れそうだから、メチャクチャ頑張って走って行ったとしましょう、しかし、疲れきって仕事にならないとかもあるでしょう。

こういうことを考えると、お互いが納得できるならば、もっとリーズナブルに対応をするべきなのです。あくまでも、お互いが納得できるならばですけれども。

実際、時間を大切に使いたいということに、価値を置くならば、お互いに納得できるのであれば、もっと時間にリーズナブルに、お互いのベストの時間を設定するという価値の置き方もあるわけです。

しかし、その一方で、従来通りの時間厳守に価値を置く人もいるわけです。

難しい話です。

最後に、チャーリーさんリンクありがとうございます。
もしかすると、この内容は、人類の永遠のテーマなのかもしれません。

まず、理系的に考えると、友情とは何かが、問題です。
今回は、5月3日の「友達って?」を主に、定義してみます。

1つ。まず、お互いに好きでなければならないと思います。
2つ、相手のことを、本当に考えてあげなければいけないと思います。

大きくは、この2つだと思います。

ところで、有名な言葉に、「女が男の友達になる順序は決まっている。まずはじめが親友、それから恋人、そして最後にやっとただの友達になるというわけだ。(チェーホフ、ロシア)」というのがあります。

私は、男ですので、女性の考えることは良くわかりません。しかし、これは、男にも言えることではないかと思います。

まず、友達の条件1の「好き」という感情は、恋愛感情(LOVE)と友情(LIKE)では、違いがあるのでしょうか?

おそらく、男には、この違いが理解できないと思います。自分の「好き」という気持ちが、どちらなのかは、おそらく、理解できません。
まず、言えることは、男は、それだけ馬鹿なのです。そして、感情に対して不器用なのです。

これは、遺伝子レベルでの話だと思います。実際、男と女では、脳のつくりのも若干の違いがあります。それにより、考え、能力、感情にも差が生じます。

女性は、井戸端会議を筆頭に、おしゃべりが好きな傾向がありますが、男は、あまりしゃべりません。
一説によると、よく話す人は、長生きすると言う話があります。例えばよくしゃべる職業(政治家、大学教授)は長生きをします。そして、男と女では、女性の方がよく喋ります。
女性の方が、圧倒的に長生きします。

さて、話を戻します。それだけ、男と女では、生物としての違いがあるということです。

では、男はどうやって、好きという感情のLOVEとLIKEの違いを判断しているのか?おそらく、その「好き」の度合いで判断しているのです。

そして、友情の定義2の相手のことを考えるですが、相手のことを想うのならば、嫌われるかもしれないリスクを負ってでも、その人がもし、間違いをしているならば、正してあげる必要があります。
しかし、これって、かなりのレベルで好きでなければならないでしょう。そうでなければ、リスクを負ってまで、正すようなことはしません。

さて、ここで問題。
もし、この時、相手が女性だったら、この感情は、LIKEでしょうか?LOVEでしょうか?

おそらく、男には、この違いが理解できないのです。

時には、LOVEだと思うこともあるでしょうし、時には、LIKEだと思うこともあるでしょう。

ここで、もし、LOVEだと感じれば、それは恋愛感情なのです。そして、もし、この時、LIKEだと判断すれば、友情なのです。

こう考えると、男って馬鹿だなとつくづく思います。

さて、ここで、5月1日の「男は昔の女を忘れられるか?」で書いたことを思い出してみます。

まず、男は、1度好きになった人は、永遠とは言いませんが、好きでなくなることはありません。
次に、「あきらめる=好きでなくなる」ではないのです。

そして、ここまでの話をまとめると、まず、自分の好き(LIKE)な人と友達になります。そうすると、好きな度合いがあがっていきます。そして、男は、その好きな度合いがある点を越えると、LOVEだと思います。

そして、付き合うかどうかは別として、いずれふられます。ふられても、男は、その女性のことが好きです。しかし、相手に、恋愛感情の返信はあきらめます。でも、その女性のことは好き。

この時の感情は、おそらく、LIKEともLOVEとも表現できない、あえて言えば、親友の好きになれるのではないでしょうか?

まとめますと、男の場合、「友達→恋愛対象→親友」という課程を踏めれば、友達になれると思います。(はじめから、恋愛対象としてスタートした場合は除きます。あくまで、最初が友情だった場合の話です。)

それが、男ではないかと思います。

しかし、チェーホフの言葉では、女性は、「親友→恋人→友達」という手順を踏むわけです。

もしかすると、その手順の若干の違いが、男と女が友達になれない理由なのかもしれないと思いました。

それは、そうです。男は、恋愛対象になるだけで良いのに対し、女性は、恋人にならなければならない。そして、その後も、男は、親友だと思うのに対し、女性は、友達なわけです。

さて、ここまでは、男の私1人の個人的な意見です。実は友人と話をした結果をここに書くことが多いのですが、今回の話は、全くしたことのない話ですので、他の男性が本当にこう思っているかはわかりません。

そして、今回、このようなことを考えるきっかけとなったのは、実は、このDiaryNoteなんです。こういう点が、このDiaryNoteの面白い点です。

颯子さんの日記(http://diarynote.jp/d/71129/20060511.html)を読んだからです。ここでは、女性の視点から書かれた内容が書いてあります。やはり、若干の考え方の違いがあるようです。
読み比べていただければ面白いのではないでしょうか?(本当は、トラックバックを何とかすれば良いのでしょうが、使い方が…)

最後に、私個人の経験から考えますと、告白してふられる場合、女性がその後を拒否します。この拒否する理由に関しては、颯子さんの日記を参考にして下さい。しかし、告白せずに、失恋してしまった場合、女性は、そのことに気がつかないため、友達になれます。

さて、これは男が悪いのでしょうか?それとも女が悪いのでしょうか?

でも、確実に言えることは、やはり、告白はしたいと言うか、するべきだと思います。いかがでしょう?

最後に、kajさん、ジャスミンさん、リンクありがとうございます。
先日の新庄選手のニュース。

王監督に聞きたい。新庄選手が、襟付きのアンダーシャツを着ることが、どのように青少年の健全育成に影響があるのですか?

私には、理解しがたいです。

実際、マスコミもこのような内容については、ほとんど触れていません。

その他にも、ゲームや漫画、その他、青少年の健全育成に問題があると言われているものはとても多くあります。
近年、その傾向はかなり薄まってきている傾向はありますが、やはり、その毛色が拭い去れていないのは現状です。

しかし、そのほとんどが、私には、どのような理由によって、問題であるかは説明不足であると感じます。

私が思うに、何事にも、理由があるとは思います。
しかし、その説明をできていない事柄が多すぎます。

やはり、何事にも、訴えるからには、説明責任があると思います。

特に、それが子どもであれば、なおさらです。
子どもを1人の人格者と見るのであれば、その子の行動を、否定するのであれば、それなりの理由をきちんと説明するのが筋ではないでしょうか?
理由も話さずに全否定されては、その子は、考えを改めることができません。
もし、納得したとしても、それは、納得ではなく、自分の気持ち、考えを殺しただけにすぎません。

自分の気持ちを殺すと言うことは、それは、その子の個性を1つ殺したことになります。
個性を殺すだけであれば、まだ、許せるかもしれませんが、その殺した気持ちが、たとえば、学校の勉強をする動機付けであったり、夢や目標であったり、その子の生きていくうえでの、原動力となる部分かもしれません。

こういった部分が1つ、また1つと殺されていけば、その子は、どんどん、廃人になっていくのではないでしょうか?

しかし、これは、子どもに限ったことではありません。
大人であっても、学生であっても、大きくは変わらないと思います。
自分を1人の人間として認めてもらう。このことが、どれだけの生きていくうえでの原動力となるか。それは、計り知れないものがあります。

しかし、理由も言わず、全否定されてしまえば、それは、自分を1人の人間として認めてもらえているとは、思えないでしょう。

もちろん、その理由について、すべてを話す必要はないとは思います。自分で考え、導き出すという過程も必要です。
しかし、そのきっかけを与えることは必要でしょうし、その後、見つけ出せてないようでしたら、また、別のきっかけを与えるというフォローをしてあげなければいけないのではないでしょうか?

例えば、今回の新庄選手。
彼は、事前に許可をとり、襟付きのアンダーシャツを着、試合に臨みました。
しかし、結果的に問題視され、禁止という形になりました。

もちろん、新庄選手は、強い人間で、その後のメディアへのフォローもできていて、すばらしいとは思いました。
具体的には、練習では、襟付きシャツ着るなど。

しかし、もし、あの時点で、新庄選手が腐っていたら?

見ている視聴者としては、とても、残念です。

せっかく、新庄選手が新しい風を吹き込もうと、きちんと順をおって行動したのに、「青少年の健全育成に問題である」と言う、意味のわかるような錯覚には陥るが、よく考えると、全く意味のわからない理由で、全否定されているのを見ると、夢やら希望やらといった感情が全くわかなくなります。

いけないことはいけないとは、思います。
しかし、その理由がしっかり説明できていなければ、それこそ、青少年健全育成に問題があると思います。
今まで、すき放題書かせていただきましたが、少し、休憩です。

このDiaryNoteってとても面白いです。

本当に色々な人の気持ちが読めます。

日常しか書いていない人でも、その奥に見え隠れするその人気持ちを感じることができます。
「素敵だなぁ」と思います。

ある人は、「本当に良い仲間に恵まれてるんだなぁ」と思いますし、またある人は、「良い1日を過ごしたんだなぁ」と。

そしてまたある人は、「自分の意見を話せるのは、気持ち良いなぁ」と書いていました。
私も、ここで、すき放題書かせていただいて、そして、読んでいただけていると言うことで、とても気持ち良いです。

普段出会えない、話せない人の気持ちの中を覗けるこのDiaryNoteが末永く利用させていただけますように。
私には少し不思議なことがあります。

それは、体罰について。

何年か前、体罰は駄目だとかなり問題になっていました。

先生が、児童、生徒を殴ったとか、蹴ったとか話題になっていました。

知り合いに、新人教師をしておられる方がいるのですが、やはり、今でも、かなり神経質になっているようです。
ドラマのようなPTAの抗議はさすがに無いようですが、それに近いものは、あるそうです。

しかし、私達が実際に学校に行っていた頃は、殴られるなんてことは、日常茶飯事でした。
男女問わず、殴られ、叩かれたものです。

さすがに蹴りはありませんでしたが…

でも、それが悪いことだとか、いけないことだとは思いませんし、私達の両親も先生方の教育方法に文句を言うなんてことも無かったです。

そして、私は今でも、その教育に方法について、疑問は感じませんし、将来、自分の子どもが学校に通ううことになっても、おそらくこの考えは変わらないでしょう。
私の友人達も、皆そう言います。(類は友を呼ぶといいますから、あまり意味のない話かもしれませんが)

私の心に残っているのは、小学校の先生のお言葉で、「叩かれてできるのは、サーカスの動物だ。言われてできるのも、人間としては幼稚だ。言われなくてもできるのが、人間だ。」です。
深い言葉だと思います。
その通りだと思います。サーカスやショーをする動物達は、餌で動いているか、鞭で動いているかです。
「飴と鞭」ですよ。

犬をはじめとする動物達ですら、飴と鞭で言うことを聞くわけです。

それなのに、人間ができないというのは、いかがなものか?
それも、確固たる意思を持って、反抗しているのならまだしも、おそらく、そんなたいそうな事は考えてないでしょう。

しかし、言ってできないものは、しょうがありません。鞭を与えるしかないと言うのも納得です。
できないものをそのままにしておいても、その人のためになりません。

さて、こういう親の考えは、多分、順を追って、グラデーションとしてちょっとづつ変化していくものだと思うわけです。
その中で、私達の親の世代は、げんこつを肯定し、私達の世代も、肯定する。
しかし、その中間の現在の子ども達の親は否定する。

これって、不思議ではありませんか?

グラデーションが成立してないわけです。私には、理解できない部分があります。
それとも、親の考え方が世代とともにグラデーションするという考えが間違いなのでしょうか?
自己満足って駄目なんでしょうか?

よく、「それって自己満足じゃない?」とかいう言葉を耳にします。

この言葉は、「自己満足であって、その人のためではないよ」という意味だと思います。

でも、それって駄目なことなんでしょうか?

確かに、自己満足で行動されると、される方は迷惑かもしれません。
しかし、その迷惑な話を「自己満足」なんて言葉で否定してしまって本当に良いのでしょうか?

まず、全てのことにおいて、満足いくように、行動するべきだと思います。
もちろん、様々な制約が出てくるとは思います。金銭的、時間的、その他もろもろ。
しかし、その中で、いかに折り合いをつけて、自分達が満足できるようにその事柄を実行できるかが大切だと思います。

そうすると、まず大切なのは、自分が満足することではないでしょうか?

自分が満足できないものを、他人が満足できるわけがないと思うのが普通ではないでしょうか?

それに、何かこだわりをもって、物事を行うというのは、とても良いことだと思います。
もっと言えば、こだわりの無い事柄は、良いものであるはずがないと思います。そして、心がないと思います。

私が思うに、「自己満足なんじゃない?」という言葉は、その人の心を踏みにじっています。ある意味最低な行動だと思います。

ですから、自己満足というのは、とても大切なことだと思います。

でも、最初に書いたように、迷惑なものは迷惑なので、その辺は、「私はすでに満足してますよ」としっかり理由をつけて解説してあげれば、良いのではないでしょうか?

と書いてみて、いつになくまとまりのない文章だと思いますが、せっかく書いたのでUPさせて下さい。すいません。
先日、社会人の友人と話をしていて言われました。
「会社になんか守ってもらえない」と。

そうかもしれませんね。
あっさり切られるかも?

しかし、少し考えてみてください。

なんで、あなたは、働くことができるんですか?どうして、暮らしていけるんですか?

それは、会社があなたを働かせてくれているからではないですか?

もちろん、世の中「GIVE AND TAKE」ですから、何も会社に与えてくれない社員に、会社は何も与えてくれないでしょう。
場合によっては、切られるでしょう。

しかし、少なくとも、働かせてもらっているうちは、会社という後ろ盾に守ってもらっているのは間違いないでしょう。

例えば、「○○さん、○○さん」と言って、仕事を持ってきてくれていた人、あるいは会社が、その○○さんが独立した瞬間、そっぽを向く。

こんな話はよく聞く話です。

これは、△△会社という信用ある会社の○○さんだからこそ、仕事を任せられていたのであって、○○さん本人が信用されていたわけではなかったと言う話です。

また、「満を持して起業する」と言うのもよく聞く話です。
そういった方々は、クレジットカードが作れないそうです。
なぜか?
その会社に信用が無いからだそうです。

金貸しも、不良債権を抱えたくないので、安定した収入源のない人には、貸せないそうです。

いつ潰れるかもしれない会社の人間は、安定した収入源をもっているとは解釈してもらえないそうです。

安定した、信用された会社だからこそ、自分も社会的に安定した位置にいられると言うわけです。

これを会社に守られると、私は表現しています。

まぁ、学生の考えることですので。

さて、最後になりましたが、舌足らずさん、みみさん、リンクしてくださってありがとうございます。
まだ、ここのシステムがよく理解できていないので、まずはお礼だけ。
機会がありまして、「創価学会ってどう思う?」と聞かれました。

私自身、創価学会のことを良く知らないので、コメントしがたい部分はあるんですが、それでも、勝手な思い込みからコメントさせて頂くと、以下の感じになります。

私個人としては、全く支持しません。それは、よく聞く噂などから判断した結果です。

しかし、それは、その辺で聞く批判からではなく、それとはちょっと違った見解です。

一度、私のところにも勧誘に来たことがあるんですが、私達学生が実際に参加する部分は、私がここに書いているような事をテーマとして皆で話し合う場だと思います。

実際、私がここに書いてある内容は、独断と偏見に満ち満ちていますが、書いているテーマというのは、生きていくうえでとても大切な部分だと思っています。特に、人とのつながりという部分はとても重要な部分です。

しかし、こういった話は、普段の実生活での、コミュニケーションや、人との関わりの中から、自然と身につけていったり、考えていったりする部分だと思っています。

実際、私自身も人とのコミュニケーションの中で、様々な方々やTV、本の意見を参考にし、自分で考え導き出した考えです。

こういった内容のことは、宗教によって、人から教わるものではありません。
実生活の中で、時には困り、時には悩み、時には喜び導き出すものです。

そして、導き出した自分の考えと他の人の考えを、照らしあわそうと思い照らし合わせるのではなく、ある時、ひょんなことから、何の前ぶりもなく、他の人の意見に触れ、その時、初めて、自分の考えと照らし合わせてみるものだと思います。

もし、宗教によって布教されてしまうと、まず、自分の意見を持つ前に、人の意見を知ってしまうことになります。

それでは、不味いわけです。
あくまで、まずは自分の意見を持つことが大切なのです。

そして、もし、自分の意見を持っていたとしても、宗教による布教には問題があります。

それは、1対1で話をしているのなら良いですが、おそらく、1(布教する側)対多数(布教される側)又は、多数(布教する側)対1(布教される側)でしょう。
まず、前者であった場合、一緒に聞いている周りの人は、とにかく納得しているでしょう。そして、もし、納得していなくとも、そういう場では、納得しているふりをしていると思います。
そうなると、その場では、その布教される内容が、正しいという空気になってしまいます。

そして、後者の場合、自分の周りは、すでにそういった思想の持ち主ばかりです。そうなると、もちろん、そこの空気は、その布教される内容が、正しいという空気です。

人間は、多数意見に従う生き物です。
そうなると、その内容が正しいという錯覚におちいってしまうでしょう。
そして、簡単に洗脳されてしまうでしょう。

洗脳されてしまっては、問題です。洗脳されてしまうと、白装束でその辺をウロウロし始めたり、地下鉄にサリンをまいたりし始める可能性だってあるわけです。(これは極論ですが)

しかし、洗脳されるというのは、そういうことです。
そして、宗教が洗脳を目的としているかというと、それは違います。しかし、宗教というものは、布教する側にその気がなくても、結果的にそうなっている可能性が高いと言う事はできると思います。

話を戻しましょう。

まずは、自分の意見をもち、その上で、他の人の意見と照らし合わせ、自分の意見と、人の意見を対等な立場において、それらの意見を吟味することが大切なのです。

そうするためには、人の意見を聞くときに、「これから人の意見を聞くぞ」という心構えがあってはいけません。
あくまで、話半分くらいで話をしなければ、その意見に耳を傾けすぎ、洗脳されてしまうからです。

話す人間は、自分の考えが正しいんだとすごい勢いで話します。そして、「これから話すぞ」という気持ちでしっかり準備をしてから話すと、その勢いは倍増します。
それでは、また、洗脳されやすくなってしまいます。
あくまで、話すほうも、話半分くらいで話さなければいけません。

こう考えると、こういう事を話し合いませんか?という勧誘は、私は間違っていると考えます。

あくまで、聞くほうも、話すほうも、話半分くらいで、なんとなく考える。
そうすることがちょうど良いコミュニケーションだと考えています。

その結果、人の意見が正しいということになれば、次からは、それが自分の意見ですし、自分の意見が正しいと思えば、それからもその意見を貫けばよいわけです。たいていは、足して割るという結果になるとは思いますが。

以上のような考えから、創価学会という宗教的組織は、個人的には賛同できません。

しかし、ここで1つ思うことは、現代社会において、以上のようなコミュニケーションがしっかり取れている人がどのくらいいるのかということです。
私個人の感覚としては、ほとんどの人ができていないのではないかと思います。

そういった背景で、このようなことを訴えたところで、あまり意味はないのではないかと思います。

まずは、どう思うのかということを強制的にでも考える機会が必要なのではないかと思います。

そういう部分では、創価学会のような組織が、提案して考えさせるという部分は必要ではないのかとは思う部分はあります。

しかし、あくまで、私個人は、否定しますが。
最近流行の成分解析に挑戦です。

まずは、ここのテーマ「人間」

人間の成分解析結果 :

人間の47%は回路で出来ています。
人間の25%はアルコールで出来ています。
人間の14%は罠で出来ています。
人間の8%は鉄の意志で出来ています。
人間の4%はかわいさで出来ています。
人間の2%は媚びで出来ています。


???

主成分は回路とアルコール…
コメントできない・・・

次は「にんげん」で解析

にんげんの成分解析結果 :

にんげんの30%は気合で出来ています。
にんげんの27%は覚悟で出来ています。
にんげんの23%は欲望で出来ています。
にんげんの16%は知恵で出来ています。
にんげんの2%は濃硫酸で出来ています。
にんげんの1%は呪詛で出来ています。
にんげんの1%は優雅さで出来ています。

これは当たってるかも?

「気合」と「覚悟」と「欲望」と「知恵」がなければ生きていけないでしょう。
欲望を知恵と気合でかなえる覚悟がなければ前に進めません。
友達ってどんな人のことを呼ぶんでしょう?

よく話をする人?よく電話やメールをする人?
それとも悩みを打ち明けられる人?

友達だと難しいから、親友で考えてみます?

さて、その友達や親友ですが、どういった人のことを友達と呼ぶのでしょう?

例えば、何か悩みを持ったとき、友達に相談することは多いと思います。

しかし、相談する人のほとんどは、実は、相談する前に結論を出してしまっています。
そして、その結論が、正しいかどうかを確認するために、相談します。

もし、相談した相手が自分の出した結論と同じことを言ってくれれば、そのまま自信を持って、先に進めるわけです。

と言うことは、相談する相手は、自分の出している結論と同じ事を言ってくれれば都合が良いわけです。

人間は無意識のうちに、自分と同じ結論を出してくれそうな人を選んで相談をしているはずです。

こういった背景から、「類は友を呼ぶ」という言葉ができているのではないかと思いますが、それはまた別の話です。

さて、話がそれましたが、様々な意見が聞きたい場合は、もちろん、自分の出した結論とは全く違った事を言ってくれる人に相談すべきです。つまり、あまり気の会わない人に話を聞くべきです。

ところで、相談した相手が、本当に、そう思っていれば良いのですが、中には、先ほど書いたような内容に、気がついている人がいると思います。
そういった人は、気を使って、相談をしている人が出していそうな結論を話すと思います。

そういう人は、良い感じに背中を押してくれるので、自分にとってすごく心地よい相談相手になります。

しかし、本当にそんなことで良いのでしょうか?

NHKの番組「謎のホームページサラリーマンNEO」の『サラリーマン語講座』の中で、相談してきた新入社員に向かっての一言と言うのがありました。
講師の吉田周助さんは「今時の若者には、すべて肯定で対処するのが効果的なんですね。」と言います。

確かに、その通りだとは思います。

対応はマジカルワード「それ正しいよ」で。

「悩んでいるおまえは正しい。そんなおまえだからすばらしい、むしろ麗しい、と持ちあげれば、悩みなんて吹き飛んでしまうんですよ。」

しかし、その後、アシスタントの原史奈さんは、すかさず「でも悩みに対して正しいって何かおかしくないですか?何も解決されていませんよね。先輩としてこれでいいのでしょうか?」と言っています。

確かに、その通りです。

しかし、講師の吉田周助さんは、「いいんです。どうせ短いつきあいなんですから。こんな時に親身になって説教なんかしたらよけいに鬱陶しがられる心配があります」と。

さて、話を戻します。
このサラリーマンNEOは、コントである上に、吉田さんの言う通り「短い付き合い」だから、これもありだと思います。

しかし、今回のテーマは「友達」です。

何もかもを肯定してあげるのが友達なんでしょうか?

例えば、非人道的なことを相談されて、そう、例えば不倫とか。

「私、不倫してるんだけど、どう思う?」と相談された場合、「好きになったものはしょうがないよ」とか、「奪っちゃえよ」とか肯定的アドバイスするのは、友達でしょうか?

今の時代、必ずしも不倫が悪いとは言えない時代が来ているとは思います。
しかし、一般的に考えて、悪いことです。やはり友達としては、止めさせるべきではないでしょうか?

それを、肯定してあげるというのは、それは友達ではないと思います。
本当にその人のことを大切だと思うなら、それは、たとえ自分が嫌われてしまったとしても、相手のことを否定してあげるのが、友達ではないでしょうか?

私はそう思います。
ハンサムウーマンのコラム「恋の六法全書」の第1回の内容は、「女は昔の男を忘れられるか?」でしたが、今回はその逆を考えてみたいと思います。

結論から書くと、もちろん、ケースバイケースだとは思いますが、基本的には無理だと思います。

ドラマや映画などでも、男は、そのような描写をされていることが多いです。

自分からふったのならまだしも、ふられたくらいで、自分が1度好きになった人をそう簡単に好きでなくなるわけがないと思います。

「あきらめる=好きでなくなる」ではないはずです。

女性がどのようなことを考えて、恋愛をしているのかわかりませんが、私はそう思います。

もちろん、時間とともに好きという感情も風化していくとは思います。しかし、それは、好きでなくなっていくわけではなく、単純に、好きという気持ちを忘れていっているだけだと思います。
忘れた感情は、あるときふと思い出します。そうすれば、やはりその人のことが好きだということになります。

男は、よく「執念深い」とか言われますが、それはある意味で正解だと思います。
しかし、それが間違っているとは思いません。

そして、こうやって、いつまでも同じ人を好きでいることを気持ち悪いと言う人がいます。
でも、それは違うと思います。

もちろん、こういった感情を外に出すかどうかで、その人の人間性が評価されることはあると思います。

しかし、こういった感情は相思相愛にならなければ抱いてはいけない感情なのでしょうか?
それはそれで違うと思います。

逆に言うと、簡単にその人のことを好きでなくなれる人間が、相思相愛になったからと言って、その人のことをずっと好きであり続けることができるでしょうか?

私は難しいと思います。

こういう風に考えてみると、人を好きであり続けるということは、とても大切なことではないでしょうか?

そして、とても素敵なことではないかと思います。
今週末は、色々と有意義でした。

その中で思ったこと。

恋愛に関しても、なんに関してもそうだと思いますが、上手く成長できていない人はいるものです。

例えば、恋愛に関して。
もし、好きな人ができたとき。

まずは、相手の人に、恋人や配偶者がいるかを探るところから始まると思います。

しかし、もし、その方法がわからなかったら?

普通は、周りの人に相談しますが、相談できる人がいなかったり、恥ずかしかったりしたら?

それは、年齢とともにドンドン相談しにくくなっていってしまいます。

幼い頃は皆そうですし、実体験と共に学習し、様々なことを知っていきます。

しかし、年を重ねるにつれ、実体験には差が生じ、知識にも差が生じていきます。

例えばたくさん告白されれば、その対応の仕方、例えば「ふり方」も上手くなっていくでしょうし、様々な人と付き合えば、男女交際の方法や、口説き方なども上手くなっていくでしょう。

しかし、それがなければ?

こればっかりは、縁な部分もあるでしょうし、異性に相手にされないこともあるでしょう。
この辺りは、さすがに本人ばかりのせいではないと思います。

そんな中、人より少し成長が遅くなってしまえば、それはやはり、上手く異性に対して自己表現もできないでしょうし、なれた人にとっては、理解不能のような言動をとっているように見えることもあるでしょう。

でも、それはある程度しょうがないことなのではないでしょうか?

ちょっと、この週末は、こんなことを思った週末でした。

さて、結局何が言いたいかと言うことですが、そんな人を見捨てないでください。
先日書いたニート問題とは違って、その人は、頑張って人と関わりを持とうとしています。
それを見捨ててしまうと、その人は、また経験する機会を失ってしまうことになります。
さて、1日おいて、さらにニートについて考えていきたいと思います。

正直な話、私は、ニートとは無縁の世界にいます。
私自身、就労意欲がなくなるとは思っていませんし、私の周りにもそんな人は存在しません。

これから書くことは、そんなニートとは無関係な人間の意見であるということを念頭において読んで欲しいです。

ニート対策として、様々なことが唱えられています。
例えば、杉村太蔵議員なんかがTVで訴えてます。

しかし、この様々なことを訴えている人もまた、無縁であったり、縁遠い人が多いことを忘れてはいけません。

さて、話を戻します。

ニートがなぜ増加するのか?

やはり、この超氷河期と呼ばれる就職難の背景に、就職できずモチベーションが下がってしまったというのもあるとは、思いますが、私に言わせてみれば、そんな背景は甘えや、言い訳でしかありません。

まず、1つの問題は報道です。
社会問題であるとは思いますが、そこで、持ち上げて、社会のこんなところが問題であるとか、こういう背景があるとか、あたかもニートに正当性を持たせた報道をすることによって、ニートが正当なものだと言うことを、ニート予備軍にもたせていることです。
そしてもう1つ。ニートという言葉があまりにも浸透してしまい、「なんだ、自分もニートで良いや」と思わせてしまっている部分です。

もちろん、報道による周知はとても大切なことだとは思いますが、知る必要のないことや、知らなかったほうが良かったこと、または、間違った方向性の報道と言うのもあると思います。
報道関係者は、そのあたりも考えて頂きたい所です。

さて、次にあげられるのは、松本紳助で松本人志も言っていましたが、フリーターもそうですが「ニート」と言う言葉がかっこよすぎます。もっと聞くのも言うのも恥ずかしいような名前でなくてはいけないと思います。

しかし、ここで、昨日の話に戻しますが、人間は守られているから、生きていけるのです。

今行われている対策のほとんどや、ニートの周りの人間は、ニートを守りすぎていると感じます。

守られるためには、それなりの対価を支払う必要があります。
日本国憲法における三大義務のうちの「納税の義務」、「労働の義務」の2つの義務を果たせていない上に、果たそうと言う意欲もない。こんな人間に、日本国憲法の規定する「最低限度の生活を営む権利」を主張して良いもでしょうか?
そして、保護する必要があるのでしょうか?

厳しいようですが、私はそう思います。

もっと、厳しく、そして、その気のある人に対して、もっとサポートをしていくべきだと思います。

本当にその気になって、そのつもりで頑張れば、必ず、誰かが助けてくれるし、何とかなるもんものだと思います。
しかし、本人にその気がなければ、誰が手を差し伸べても、その手をつかまなければ、全く意味がありません。
どうにかなるものも、どうにもなりません。

私は、そう思います。

そうやって、ある程度追い詰められると、人間は変わらざるを得ません。良い意味で変われるか、悪い意味に変わってしまうかはわかりませんが…
しかし、その変わった時、周りの人間や国、社会がきちんと接してあげれれば、上手く解決できるのではないでしょうか?

あまいかもしれませんが。
人間はなぜ生きていけるのでしょうか?

人間は間違いなくあっさり死にます。簡単に溺れるし、高いところから落ちれば死ぬ。

自然界には人間より強い動物はたくさんいて、その動物に襲われれば、死んでしまうことも少なくありません。

それでも、人間が安心して生きていけるのはなぜでしょう?

それは、人間が弱者を守るからです。
人間は弱者を守るために群れを作ります。
そして、もし守りきれなくても、その人を諦めません。

それが人間です。

良いところでもあれば、悪いところでもあります。生物学的に人間が繁栄するためには、明らかに間違っています。しかし、それが人間です。

今現在、その群れとは社会です。自然と人間の社会を隔離し、より、安全な世界を作り出そうとしてきました。警察や軍隊は、その社会を守るために存在します。

社会によって守りきれないものをさらに小さい群れ(例えば学校や家族)が守ります。親や先生は子どもたちを守るものです。そして、老いた両親は子どもが守る。

最近のニュースを見ていると、それが機能していない部分もありますが、それが、人間の作ってきたルールです。

私はただの学生です。
親や学校、先生が守ってくれているからこそ、勉強ができ、そして、生きていけているわけです。もちろんその部分には感謝していますし、また、親や学校、先生は守る義務もあるわけです。

そして、社会人になってもそれは変わりません。
自分の所属している会社に守られています。守られているからこそ、仕事ができるのです。

会社に守られていないと感じる人でも、多分守られていると思います。

そして、どうしてもそう思えない人でも、社会や国が守ってくれています。

少なくとも、日本国憲法には、「全ての国民は、最低限度の生活を営む権利がある」明記されています。

このように、人間は、守られ、守り、生きているのではないでしょうか?
今回はニートについて考えてみようかと思います。

ニートとは?
一般に言われているのは、就労意欲がなく、仕事をしていない人のことです。

では、ニートはなぜ発生するのか?

単純に、はなっから就労意欲の無い人、夢破れてモチベーションが下がってしまった人、リストラにあい、就労意欲が無くなってしまった人、本当に原因は様々だと思いますが、全てに共通して言えることは、就労意欲がないと言うことです。

この就労意欲が無いと言うのは、どうにもならないのでしょうか?

しかし、このことを考える前に、1つ考えたいのは、なぜ、仕事をしなくても生きていけるのかです。

なぜでしょう?

一般に言われているのは、親のスネをかじっていると言うことです。

そして、次に考えたいのは、仕事もせず、勉強もせず、いったい何をしているのかです。

これも、一般論になってしまいますが、ひたすら親の金で遊んだり、家に引きこもってゲームしたり、ただひたすら寝ていたり…

以上の2点から、まず、問題なのは、仕事をしていないのに、生きていける環境があることです。

本来、生物が生きていくうえで、自分の食を自分で確保することは、必要最低限のことです。それができていないと言うことは、自然界では生きていけないということです。

まずは、その辺りに問題があるのは間違いないでしょう。

続く

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