結局のところ私がどう思うかだけの話であることは間違いのない話です。
今日の話は、不快に感じる人も少なくないと思います。あらかじめ断らせていただきます。

ちょっと懐かしい話を持ち出しますが、私は、坂東さんを尊敬します。あの文章には、それだけの価値があると思います。

あの文章は、自分を正当化しているものではありません。その逆です。

そう解釈させるように、たくさんの伏線をはっています。

坂東さんが一番言いたいことは、「この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。」の部分でしょう。
残りの全ての文章は、この2文の価値を上げるためのオプションでしかないと思います。

残念ながら、現代日本人は、命に関して、軽く考えすぎています。それは、残念ながら、以前私が書いた「恋愛、結婚、セックス」シリーズに皆さんから頂いたコメントにより、確信しています。

セックスという行為は、誰が何と言おうと、繁殖するための行為です。私はこれに関しては絶対に譲りません。
避妊という言葉が存在しますが、100%の避妊などは、存在しない。と言われています。

その上で、セックスを行うということは、妊娠を覚悟の上でセックスをしていると解釈せざるを得ません。
しかし、現実問題、望まない妊娠が起こったとき、どうするのでしょう?

多くの場合は、中絶するわけです。

法律上は、少なくとも、中絶できる期間の胎児のことを人間として認めていません。
つまり、法律上は、命ではないと解釈されているわけです。

そう、命ではない。

本当ですか?本当に命ではないのですか?

私はそれは違うと考えます。

つまり、命を殺すことを前提として、自分の快楽、あるいはコミュニケーションと称して、セックスをしているわけです。

避妊をすれば大丈夫?私に言わせれば、ふざけるなです。
100%でない限り、その可能性を覚悟しておく必要があります。セックスとは、それだけ重い行動です。

セックスをし、妊娠し、中絶したのであれば、それは、紛れもない殺人です。生まれた子どもを殺す親とどの程度の違いがあるのか?
私に言わせれば、その違いは法律で許されるかどうかの違いでしかないと考えます。

つまり、合法であれば、人を殺しても良いのか?ということです。

「恋愛、結婚、セックス」の裏側には、このような意味も含めて論じていました。

さらに話を前にもっていきます。

どこまでを命と称するのかという問題です。

人間の場合は、日本の法律では、22週までは、少なくとも命と認めていないことになります。
しかし、以上で述べたように、それ以前も命であるはずです。

もっと言えば、今後生まれるであろう可能性のある命は、命と表現しても良いはずである。と私は思います。

つまり、避妊手術を行った場合、今後生まれる可能性のあった全ての命を奪ったに等しい。と考えます。

ここで、猫の話に戻します。

もし、猫に避妊手術を施した場合、その猫が今後産むはずであった生命をあらかじめ奪ったということになります。
つまり、胎児であれば殺しても良いという発想と全く同じです。

この行動に、生まれた子猫を殺すこととどのような違いがあるのか、疑問です。

つまり、子種を殺すか、できた子を殺すか、大きな違いはないと思います。

実際に、眼に見えるか見えないかです。

もちろん、この違いは人間の罪悪感において重要です。眼に見える猫を殺すのと、眼に見えない猫を殺すのでは、罪悪感に天と地程の差があります。

しかし、私は問いたい。罪悪感のない犯罪ほど怖いのでは?
同じ原理で、罪悪感のない猫殺しのほうが危ないのでは?

私は先日、保健所に連れて行くくらいなら、自分で殺した方がましだと表現した。
命の大切さを学ぶときは、命を失う瞬間に立ち会った時だと言われています。これは、私の意見ではありません。よく聞く意見です。

保健所に連れて行き、その最後まで立ち会う人間がどれほどの数いるのでしょう?
おそらく、その割合はとてつもなく少ないと思います。

つまり、人任せであり、そして、眼に見えない死です。

眼に見えない死に、命の大切さを感じることは難しい。

しかし、自分で手を掛けた場合はどうでしょう?
その瞬間に、やりきれない思いでいっぱいになるでしょう。

そして、自分の行動がいかに身勝手であるかを身をもって知るでしょう。

この時の思いを私は想像できません。

しかし、最初から猫に避妊手術を行い、自分の罪を隠し、また、覚悟もなく平気でセックスをする人には、この考えは理解できないでしょう。
もし、理解できるのであれば、坂東さん、日経新聞の真意というのは、少し読めばわかるのではないのでしょうか?坂東さんの文章を読み、ギャーギャー言っている人は、胎児は殺しても良いと本気で思っているに違いないと思います。

坂東さんがこの文章で伝えたいのは、「私は罪深い人間である。しかし、避妊手術を行って生まれてくるはずの命をあらかじめ殺すこととどの程度の違いがあるのか?眼に見える猫を殺すことは罪深い。しかし、眼に見えない猫を殺す罪とどの程度の違いがあるのだろう?」ということだと思います。

この文章では、猫の殺し方も、より残虐でなければなりません。より残虐であった方が、罪深く感じられるから。
いかに、自分の罪が重いものかを表現することによって、それと同じことをしているあなたの罪は?と問いかけているのではないでしょうか。

こういう話を、避妊は罪深いと言葉で直接的に表現したところで、説得力は皆無に等しいです。

それは、今現在、この文章の批判を見れば一目瞭然です。

避妊手術と子猫殺しを同等化し、自分を正当化しようとしている。という意見が多いということは、避妊手術に罪はないと思っているという証拠です。

罪はないと思っている人間に、あなたは罪深いと表現したところで、馬の耳に念仏です。

そこで、この問題を違う視点から話題にし、避妊手術の是非にまで論点を広げてもらうという表現技法をとっているのです。

日常的に、中絶や避妊手術が行われている昨今、なぜ、それが正当化されるのかがわからない。

しかし、民主主義の日本では、少数派は、多数派に追いやられ、抹消されるもの。

坂東さんも日経新聞も鬼畜ではない。ただの異端児である。しかも、皆が逃げている罪に、真っ向から戦っている人です。私は、そんな坂東さんを尊敬します。
きっと、こんな私もただの異端児なんでしょう。

でも、知ってますか?殺人よりも、殺人教唆の方が罪は重いのです。
柳さんが、非常に上手にまとめていました。
さすが、我らが師匠柳さんです。

全くもって、その通りだと思います。
本当に上手にまとまっています。

でも、なにか違和感があるのです。
その違和感を取り除くために、何度かコメントで質問をさせて頂きました。
柳さんの返答は的確で、全くその通りなのです。

でも、違和感が取り除かれることはありませんでした。
しかし、その違和感の正体がたった今わかりました。

私は、日本も一夫多妻制にしても良いと思います。別に心とお金に余裕があるのなら、この方が生産的ですから。
特に、格差社会が問題視されている昨今、且つ、環境ホルモンの関係で、男の子が生まれにくくなっている昨今、一夫多妻制のほうが、はっきり言って生産的です。
金持っている人が、子どもをたくさん持って、それなりの教育をすれば良いと思います。
絶対に、その方が生産的なのです。

でも、日本はそうでない。

不倫は本能だからしょうがない。
同じく、殺人もレイプも半犯罪集団の2ちゃんねらーも、もっと言えば、ストーカーも流行の振り込め詐欺も架空請求も、全て本能だからしょうがない。

確かに、本能だからしょうがないのかもしれません。なくならないものなのかもしれません。

でも、なくならないからしょうがないで良いのでしょうか?

私は、大切な人や私自身が傷つくのは嫌です。
大切な人がレイプに会うのは絶対に嫌です。

大切な人が不倫をして、クシャクシャポイッ!とされるのも絶対に嫌です。
ストーカーに悩んでいる姿を見るのも嫌です。

突然、後ろから刺されて殺されるのも嫌です。

私は、しょうがないことでも、しょうがないとは思いたくありません。
だって、人間ですもの。特に人の痛みがわかる日本人ですもの。

しょうがないことでも、なくならないことでも、少しでも、1つでも減れば良いと思います。
それは、私達の努力次第、意識次第だと思います。

そして、それは、きっと自分に帰ってきます。
良いことも、悪いことも。

皆がしょうがないと思ってしまうと、そのうち自分が被害にあい、傷つきます。
でも、しょうがなくないと思って、上っ面だけでも、行動に移せば、変わるかもしれません。もちろん、変わらないかもしれません。
でも、何もしないよりかは良いではありませんか。

ブログで、不倫反対と書くことに、どんな問題があるのでしょう?
殺人反対と書くことに、どれだけの苦労があるのでしょう?
非常に簡単です。

一番訴えやすい場所で肯定して、どうなるのでしょう?
絶対に良くはならないです。

不倫がしょうがない事かどうかは関係有りません。
法律で、悪いことだと定められているのです。
不倫により傷ついている人がいるのです。
それは、事実です。

時には情で、時には論で。
情でしょうがないと思うことを論で否定する。
論で否定できないことを情で訴える。
いけないことなんでしょうか?

ニューヨークの地下鉄で、落書きを消したら犯罪が無くなったそうです。なぜでしょう?

例え、無駄なことであっても、私は、私の大切な人が傷つかないためにも、どんなにしょうがないことでも、悪いことは悪いと言いたいです。
情けは人の為ならずですか。
人の為にするのではなく、自分の為にする。

私は結局、全てがそうだと思うんです。
情け以外でも。

悪いことも、良いことも、結局は全て何らかの形で自分に跳ね返ってくると思います。

何でも良いのです。

そう、例えば「いじめ」

いじめれば、それは楽しいでしょう。
その時はスカッとするでしょうし、ギャーギャー喚けば楽しいでしょう。

でも、もしいじめを苦にして自殺でもされてみなさい。
それは、一生の傷となってついて来るでしょう。
そんなつもりはなかったでは、済みません。

先生も本気で、児童生徒に接すれば、子ども達もきっとそれに答えてくれるでしょうが、先生がいいかげんなことをすれば、子ども達もいいかげんにする。
逆もあります。先生がいくら本気でも、子ども達がそれに答えてくれなければ、先生もいずれ力尽きるでしょう。

他には、核の話。

核を作ったが為に、新しい問題ができ、色々面倒なことになり、核の恐怖と隣りあわせで生きていかなくてはならない。

次はHPの荒らしの問題。

荒らす人はいます。いなくなりはしないと思います。
でも、人が荒らしているからといって、一緒になって荒らすと、それは自分に跳ね返ってきます。
荒らしをする人間が増えると、必然的に模造犯が増えます。
これは、おそらく割合で増えていくのだと思います。

荒らす人が増えると、必然的に自分も被害にあう可能性が高くなるということです。

その辺りわかって荒らしているのでしょうか?

また、違う見解もできます。

優良なものが必然的に減少するでしょう。
自分も荒らされるのが怖く、辞めてしまうからです。

なぜなら、良いものを生み出す人は、先見性がある人が多いからです。
自分は大丈夫とは思わないからです。
そして、残るのは、しょうもないものばかり。

良いものを選択していけば、良いものが残りますが、悪いものを潰していっても、良いものが残るわけではないと思います。

逆に、親切にしていれば、親切にしてもらえます。
お世話になった人には、なにかお返しをするものです。

結局、全ての行いは、いずれ自分に帰ってくるものだと思います。

以前、4次元の世界を認識していないという話を書きましたが、そこにもつながってきます。
9月13日 「時間軸の認識」http://diarynote.jp/d/77110/20060913.html
9月12日 「四次元の世界」http://diarynote.jp/d/77110/20060912.html
触覚型アメーバ人間というのが最近増えているそうです。
ちなみに、この「触覚型アメーバ人間」という言葉は、造語なのか新語なのか、検索してもHITしません。

触覚型人間は、言葉が少ない、「ガー」とか「ウー」という擬音語が多く、一貫性もなく、筋も通っていないそうです。これでは目高組には入れませんな(笑)

ところで、皆さんは『南国の海』という言葉から、何を連想しますか?

A.青い海や白い雲?
B.カモメの鳴く声や波の音?
C.冷たい海の水や暑い砂浜?

もし、
Aを連想したあなたは【視覚型人間】です。
Bを連想したあなたは【聴覚型人間】です。
Cを連想したあなたは【触覚型人間】です。
(http://newtype0719.livedoor.biz/archives/50154635.htmlより勝手に引用)

引用先の方の調査によると、9割が視覚型に分類されたようです。

これらの分類ごとの特徴は、
http://allabout.co.jp/career/clerk/closeup/CU20030523A/index.htmを参考にしてみて下さい。

触覚型=触覚型アメーバ人間ではないです。

スカイハイ

2006年11月12日 人間
スカイハイという漫画出身の釈由美子主演のドラマがあります。

不慮の事故や殺人によって命を落とした者が訪れる『怨みの門』。ここの番人であるイズコ(釈由美子)は、死者の現世の記憶や残された者達の様子を見せて、最後に死者に3つの選択を出す。
「死を受け入れて、天国で再生を待つか。」
「死を受け入れず、現世で彷徨い続けるか。」
「現世の人間を1人呪い殺し、地獄へ逝くか。」
果たして死者は、何を選ぶのか?
(Wikipediaより引用)


さらに、釈曰く、殺人を犯した人は地獄へ落ちるそうです。

これらから何が言えるかと言いますと、スカイハイの世界だと、人を殺すと地獄へ落ちるということです。

それが、現世においての殺しであろうが、死後に呪い殺したのであろうがです。
まぁ、物語としては、ありがちな設定です。問題ないでしょうし、皆さん納得いくでしょう。

しかし、釈はさらにこうも言ったそうです。自殺した人も地獄へ落ちる。

つまり、自殺も人を殺したことになるということです。自分という人を殺した殺人という解釈です。

人を殺したので、地獄へ落ちる。

なるほど。

最近、自殺している人をメディアがよく取り上げていますが、自殺も殺人罪として、何らかの罰則の対象にすれば良いのにと思います。

もちろん、容疑者死亡になってしまいますけど。

殺しは殺しですから。
生き物は、自分の世界に他者が入り込むことを嫌います。生き物は同じ種類の生き物にはナワバリを渡そうとはしません。相手を追い出すまで戦い抜く、それが生き物だそうです。

そして、それは、必ずしも同じ種の生き物とも断定はできません。さらに、群で暮らす生き物には、群という単位で、ナワバリを渡そうとしません。

それは、少し考えればわかること。自分の部屋でゴキブリを発見したら殺しますよね?外に投げますよね?そうでなくても、視界から消すために追い払いますよね?

恋人と2人きりでまったりしているところに、宅配便屋さんが来ると、嫌ですよね?

自分(達)のテリトリーに、他者が近づくことを本能から、嫌っているのです。

自分には自分の世界があるということです。
自分の世界があれば、同じように他人の世界もある。

それは、自由とかそんなチャチなものではなく、もっと大きな、私には表現しきれない何かなのです。

その世界を壊される、奪われる。それを防ぐことは、生き物としてごく自然な当然の権利なのです。

自分の世界を守る。それはごく自然な生き物として行動なのかもしれません。
しかし、守る時、守るためには、多くの犠牲が生まれてしまいます。

その時、相手の世界を壊してしまうかもしれません。
自分の世界も壊してしまうかもしれません。

だからこそ、人の世界を奪ってはいけないのです。
私の世界は、この世にに1つしかありません。
同様に、あなたの世界もこの世に1つしかありません。

その世界は、多かれ少なかれ皆違います。そして、その世界を壊す権利は誰にもありません。
それは、本人にすらないのではないでしょうか?
そして、お互いのその世界を壊さずに生きる。

私の世界は、私の世界。あなたの世界は、あなたの世界。

意味わかりませんね。私も何を書いているのかよくわかりません。

よく、「私とあなたでは、住んでいる(生きている)世界が違うんだろうね?」なんて言います。
これは、ケースバイケースではありますが、基本的に褒め言葉です。

「私とあなたでは次元が違う。」これもよく聞く言葉。
物理的には同じ3次元の同じ世界に住んでいるのに、使う言葉。

この世界は、1つの世界です。しかし、私とあなたは、違う世界、違う次元に住んでいる。

あなたの見える世界と、私の見える世界は違う。
あなたの感じる世界と、私の感じる世界は違う。

これは、ごく自然で当たり前。しかし、理解しがたい事実です。

勇気

2006年11月6日 人間 コメント (4)
疲れたときは、疲れたで良いじゃない。
きついときは、きついで良いじゃない。
悲しいときは、悲しいで良いじゃない。
虚しいときは、虚しいで良いじゃない。
寂しいときは、寂しいで良いじゃない。
痛いときは、痛いで良いじゃない。
辛いとき、辛いで良いじゃない。

それを認めることも勇気です。
自分の弱いところを認めるのも勇気です。

あなたは1人じゃありません。
親だっている。家族だっている。先生だっている。友達だっている。ブログ仲間だっている。警察も弁護士も医者もカウンセラーもいる。

1人で抱え込む必要はないんです。
きっと誰かが助けてくれる。
今は見つからなくても、きっといつか見つかる。

空元気なんて虚しいよ。
もっと吐き出そうよ。
全部吐き出して、芯から元気になろうよ。

あなたの本当の笑顔を待っている人は、絶対にいるんだから。

良い人

2006年11月5日 人間
良い人という表現は良くないかもしれません。
素敵な人という表現もおかしい気がします。
人に好かれる人というのも少し違和感があります。

とにかく、私のボキャブラリーでは良い表現が思いつかないような人なのですが、私は、とにかく、そのタイプの人が好きです。そして、皆から好かれています。

その人は、とても傷つきやすいみたいです。

私は、とても図太くできていますので、そんなに傷つくことは少ないので、よくわからない部分があるのですが、ただ、1つ言えることは、その人は、人のせいで傷ついているのではなく、人のために傷ついていると思うのです。

自分中心主義の人が多い、もちろん私もそうで、そんな中、おそらく、貴重な存在なのだと思います。
そんな方ですから、近くにいると、傷みを共有してくれますから、近くにいると居心地が良いです。
必然的に人が集まってきます。すると、また傷が増える。

ある意味で、自業自得なのかもしれませんが、それで片付けて良い問題ではないですよね?
そういう人は、いくら口で人を追い払うようなことを言っても、絶対に人を追い払うことはできません。

それがその人の良いところであり、悪いところです。
別に、直さなければいけないところではありません。

ですから、そんな素晴らしい人を、私達は傷つけてはいけないと思います。
そういう人を、自分の逃げ場所にしないで、自分で何とかしましょう。
逃げるのではなく、解決しましょう。

そうやって、その人を傷つければ傷つけるほど、私達の居心地のいい場所がなくなっていくわけでもありますから。
結局、自分の首を自分で絞めることにもなります。

私自身も色々やらかしていて、非常に難しいのですけれども。
もう少し、身近な話から攻めてみます。

例えば、皆さん、自分と考え方の違う人間がいると思います。
普通、そんな人とは付き合いたくないと思うと思います。
私もそう思います。

しかし、本当にそれで良いのでしょうか?
逃げていて良いのでしょうか?

私が、常にここでうったえているのは、「人は皆違うもの。それを理解することが大切ではないでしょうか?」です。
つい先日、「素敵なリンク先(2)」でも書きましたが、「えっ?!」て思うような意見でも、それを受け入れることが大切だと思います。どうしても、受け入れられないのであれば、「私はこう思うんだけど、どう?」と、そっと諭してあげるべきではないでしょうか?

その考えを拒否したり、逃げたり、一人で勝手に切れまくったりしても、しょうがないと思います。
その考えを吟味して、しっかり考えて、それからです。
頭から決め付けてもしょうがないです。前に進みません。

しっかり向き合うことが大切です。
コミュニケーションをとるという事は、非常に大切です。
しかし、ごくまれに、私の知っているコミュニケーションの方法では、コミュニケーションがとれない人がいます。
こればかりは、どうすることもできません。向き合うこともできません。

コミュニケーションのとれない存在は、非常に怖いです。
これは、5月28日の「恐怖の存在」の話で、少し書きましたが、自分の理解しがたい存在なのです。

それはそうなんです。コミュニケーションがとれないのですから、相手を理解することは不可能です。
恐怖の存在です。

さすがに、私も恐怖の存在からは逃げ出します。
「あぁ、この人とはコミュニケーションがとれないな」と思ったら、もう、相手するのは止めます。
時間の無駄ですから。

しかし、男には、そういう傾向があるようですね。
人を人として見るので、コミュニケーションがとれるかを重要視するようです。

赤ちゃんは、普通のコミュニケーションがとれません。
ですから、お父さんは近寄りがたいらしいです。
コミュニケーションがとれ始める3歳くらいまで、あまり可愛がれないそうです。

あくまでも、聞いた話なのですが、このDiaryNoteでも、裏づけかな?と思われる日記は存在します。

「恐怖の存在」http://diarynote.jp/d/77110/20060528.html
その、私がすごく思うのは、逃げてしまって良いのか?ということです。
逃げるが勝ちという言葉もありますので、逃げること自体が悪いことだとは思いません。

しかし、何か失敗をしてしまった時、逃げることにより解決しようとする傾向があると思います。
それは、どうかと、私個人は思うのです。

例えば、不祥事を起こした会社の社長。
「責任を取って辞任します。」
ちょっと違う気がします。

なぜ、不祥事が起きたのかを一番知っているのは、その人だと思います。
しっかりとその会社を立て直すのが責任だと私は思います。

その点、NHKの海老原会長は評価できる人材でした。
ただ、自分に対する罰が甘かったのでしょう。結局、引きずり下ろされました。

辞めるのではない罰を課しておけばよいと思います。

例えば、給料を貰わないとか。
でも、これをして失敗した国会議員もいました。

いずれにせよ、辞めるということは、逃げることだと思います。
本当にそれで良いのでしょうか?と私個人は思うのです。

名は体を表す?

2006年10月17日 人間
Fruitsさんのところで紹介されていた姓名判断のサイト。

http://www.seimeihandan.jp/default.htm

不思議なことに、メチャクチャ当たります。
いろんな人でやってみたのですが、どれも当たっています。

この姓名判断というのは、古くから横行しているもので、割と信憑性も高い気がします。

古い言葉で、「名は体を表す」という言葉もあります。

そこで、この姓名判断がなぜ当たるのかを、勝手に個人的解釈で考察してみたいと思います。

まずはお馴染みYAHOO!辞書からの引用です。

姓名判断
姓名の画数などによって、その人の運勢などを判断すること。

名は体を表す
名はそのものの実体を表している。名と実は相応ずる。


名前は、そのものの実体を表しているそうです。
そうなると、逆に、名前により、そのものの実体が変化するともとれます。
その名前により、性格、運勢を判断するのですから、当たるのは当然のような気がします。

しかし、ここで疑問が生ずるのは、本当に、「名は体を表す」のかということです。

そこで、思いついた言葉は、「名前負けしてるよね」という言葉です。
名前負け
名前がりっぱすぎて、実物が見劣りすること。 YAHOO!辞書より引用


名前負けしてるよね?とあえて、そのような事を言うと言うことは、普通は、名前負けしていない、つまり、名は体を表していることになります。

続けて疑問なのは、なぜ、「名は体を表す」のかということです。

これが不思議です。

で、考えました。

日本語は漢字を使います。
漢字は象形文字であり、表意文字です。
これが何を意味するかと言いますと、漢字1文字1文字に、意味があり、理由があり、歴史があると言うことです。
これらは、長い歴史の中において、人々の心の中、遺伝子の中に刷り込まれてきたと考えられます。

つまり、漢字の1文字1文字に、その漢字のイメージが形成され、そして、共通認識として、刷り込まれていると考えられます。

その文字を使い、私たちは名づけられます。(ひらがなを使う人もいますが、元は漢字だったと言うことで納得してください)

その名前にはもちろん、文字から与えられるイメージが、存在します。
そして、そのイメージは、ある種の共通的なものを持ち合わせています。

私たちは、そのイメージを持った名前を常に名乗り、呼ばれ、生活しています。

例えば、「賢い」というイメージを持った名前をつけてもらったとして、毎日、「賢い」と呼ばれ、そして、自分でも私は「賢い」ですと自己紹介をします。
こんなことを毎日言われ続けると、洗脳され、自分は「賢く」なければならないと思い込み、頑張って勉強なり、なんなりすることでしょう。

そう、名前は、そのイメージを、本人に刷り込むのです。
そして、刷り込まれた人間は、そうならなければならないと、無意識のうちに意識し、実行するのです。

つまり、結果的に名は体を表してしまうのです。

こういった刷り込みは、幼いうちにしておかなければなりません。
ですから、旧姓で占うのでしょう。

こんなことを考えると、面白いですね。益々、親がつける名前に責任ができてしまいます。

ところで、表意文字ではなく、表音文字を使う国でも、「姓名判断」や、「名は体を表す」という言葉は、存在するのでしょうか?
少なくとも、YAHOO!辞書の英和辞典では、ヒットしません。

PS.後半戦の刷り込みという意味では、わりとよく耳にします。
ですから、心理学的に考えても、全くお門違いな話ではないと考えます。
サーバーがダウンしてしまう前に書いておきましょう。

ちょっと、面白い記事を見つけました。

http://diarynote.jp/d/46594/20061014.html

それは、あると思います。
批判するためには、それをよく知っていなければなりません。
そして、本だけではなく、ブログや日常生活にも言えることだと思います。

どこがどのように駄目であるのか。そして、どう改善すればよいのか?あるいは、改善の余地はないのか?
評価できる部分はないのか?

そんなことは、本当にそのことを知っていなければ、判断できるものではありません。
ですから、好きなもののみ、批判できると思います。

では、嫌いなものはどうすればよいか?

それは、自分が嫌いな理由を書けば良いと思います。

私は、こういう部分が、好きになれない。こうこうこうだから、嫌いだと。

これは、批判ではないと思います。

好きか嫌いかは、評価とは言いがたいと思います。
もちろん、評価の一種ではあると思いますが、少し違うのではないでしょうか?
評価には、やはり客観性が必要だと思います。

で、嫌いなものを、下手に客観性を持たせ、論じたところで、それは、たかがしれています。
嫌いだ嫌いだという話になってしまうでしょう。

「嫌いなものは嫌い。それは、なぜか?そして、あなたはどう思いますか?」で良いと思います。
わざわざ、客観的に見ようとしなくても良いと思います。絶対に、色眼鏡になってしまいますから。
かの有名なハンムラビ法典の一節と言われています。
この精神は旧約聖書に引き継がれ、現在でも、イスラムでは、この精神が基本となっているそうです。

しかし、同じ旧約聖書に従うキリスト教では、「右のほほを打たれたら、左のほほを向けよ」などと言う、何とも無茶なお話もあります。

あまりにも無茶すぎて、誰も守れていません。

日本には、「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉があります(元々は中国からの輸入のようですが)。これならば、守れそうな気もします。憎むべき対象もありますので。

さて、この精神は、意外と日本人の中で守られている傾向があると思います。
例えば、太平洋戦争で、日本はアメリカにメチャクチャされていますが、そのことに対して、報復してやろうという精神は、あまり耳にしません。

また、何かされたとしても、あまり、同じ事をして、仕返ししてやろうという話自体もあまり聞きません。

しかし、恨んでないかと言えば、そういうわけではありません。
恨んでいることは、恨んでいるのです。

それは、日本人が、人の痛みを理解できるからだと思います。

もし、誰かに殴られたとして、それは、とても痛いです。
しかし、そこで自分もやり返すと、相手も同じ痛さを味わわなければなりません。

憎しみは憎しみしか生み出しません。誰かが、止めなければ、永遠に回り続けます。

自分がこんなに辛い思いをしているのに、わざわざ、同じ思いを相手にもさせることに、どんなメリットがあるのでしょうか?
そんな辛い思いをするのは、自分だけで十分である。という無意識の感情があるのではないかと思います。

ことば

2006年10月10日 人間
言葉、ことば、コトバ。

それって褒め言葉?

言葉遊びは今まで色々やってきました。
下にリンクを。

でも、「ことば」ってすごいです。
人を喜ばせることも、怒らせることも、傷つけることもできる。
そして、殺すことも。
人類の最終兵器かもしれません。
核弾頭よりも強力な兵器なのかもしれません。

私は、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉が好きです。
私は、そこに心があるかどうかは、あまり気にしません。
本人が、本当は、ありがたく思っていなくとも、申し訳ないと思っていなくとも、その言葉を発してくれたことに、意味があると思います。
それだけ、相手に気を使っていてくれるということですから。
そこに、文句を言う必要性を感じません。
納得できないのに、言葉を発してくれたことを評価したいと思います。

ですから、私は、多めに「ありがとう」や「ごめんなさい」を発します。
人は、この行為をあまり好まないのかもしれません。軽く感じてしまうので。でも、言われて嫌な思いはしないと思います。
だから、私は発します。
だって、言われたいですから。
「ありがとう」と。

ちょっと、ヴァルハートさんと司穏さんに触発されて書いてみました。

言葉遊び一覧 (多分一部だと…)
10月8日「私はそんなに○○でない」http://diarynote.jp/d/77110/20061008.html
10月3日 「見る 見える 見せる」http://diarynote.jp/d/77110/20061003.html
10月2日 「ボランティア」http://diarynote.jp/d/77110/20061002.html
9月6日 「ピカチュウと爆」http://diarynote.jp/d/77110/20060906.html
8月12日 「通りすがり? 」http://diarynote.jp/d/77110/20060812.html
8月11日 「それって褒め言葉?」http://diarynote.jp/d/77110/20060811.html
8月10日 「おもしろい意見」http://diarynote.jp/d/77110/20060810.html
5月22日 「自画自賛と自慢」http://diarynote.jp/d/77110/20060522.html
最近、自殺に関するお話が多い気がします。
何でだろう?と考えていたのですが、あのニュースの影響ですよね?

私が、自殺について本気で何か書くと、きっと大ひんしゅくをかうのでしょうから、触れないことにします。

その関連になるかどうかわかりませんが、今日は、こんな話を書いてみようと思います。

よく、「私はそんなに○○でない」とか、「私はあなたのように○○ではない」とか言う人がいます。
よくあるのは、「私はあなたほど強くない」とか、私がよく使うのは、「私はそんな立派な人間ではない」とか。

自分の事を棚に上げてお話しすると、こういう言葉って、ただの逃げなのです。

「私はあなたほど強くない」と言われても、言われた人間としては、「で?何?」以上の感想は出てこないでしょう。
あぁ、そう、「私より強くない。」じゃぁ、強くなれば?
それで、私に何を求めるの?

言い訳?理解して欲しい?

無理!!

だって、私はあなたみたいに弱くないから。弱い人間の心などわかりません。

なんて、思考回路の人はほとんどいないと思いますが、こういう思考の流れは不自然ではないと思います。

しかし、実際問題、何をどうして欲しいのか?
「私は、あなたほど強くない?じゃぁ、強くなれるように頑張れば?」としか言えません。

失敗した時に、「自分には能力がなかった」と言い訳されてもねぇ?

どう思いますか?

ただの逃げでしょう。

勧善懲悪

2006年9月25日 人間
よく目にする勧善懲悪のストーリー。
何を悪とし、何を善とするのか?

先日、そんなことに疑問を感じました。

例えば、人のモノを奪うことは、悪と言われています。

しかし、よく考えてみましょう。その奪われたものは、本当にあなたのモノだったのでしょうか?

例えば、木の実を八百屋で買ってきたとしましょう。
確かに、買ったものですので、自分のモノです。でも、その店に並んでいた木の実は、誰かが、山から採ってきたものです。
その山で採ったものは、本当にその採った人のモノでしょうか?

例えば、山のリスが自分の食料として集めていた木の実を盗ってきたのかもしれません。

リスにとっては、採ってきた人は、悪です。
リスがその木の実を取り返しにきたら、リスは悪でしょうか?

結局、何が悪で何が善かと考えると、絶対に答えは出ないと思うのです。

自分に対して都合が悪いものが悪で、都合が良いものが善なのです。
そして、社会にとって都合の悪いものが悪で、都合が良いものが善なのです。

ですから、よくある勧善懲悪のストーリーでも、住民にとって、都合が悪い魔王や山賊、海賊が悪となり、都合の良い勇者などの主人公が善となるのです。

で、結局、何が言いたいのかと言いますと、何が悪で何が善なのかは判らないということです。
ですから、何事においても、見方を変えれば善と悪は入れ替わります。

何事も、簡単に悪と決め付けず、もう一度よく考える必要があります。

もし、「悪を根絶やしに」と考えている人がいれば、それは、間違いです。

あなたにとって、都合が悪いだけで、他人にとっては都合が良いかも知れません。それを根絶やしにすると、それは、その都合が良いと思っていた人から都合が悪い存在、つまり悪になってしまうのです。

そして、自分が、根絶やしにされてしまう。

あなたにあなたの正義があるのと同じで、あなたが悪だと思っている人たちにも、その人なりの正義があるのです。

昨今のニュースを見ていると、そう感じます。
時間軸が理解できていない人は、まだマシなのかもしれません。

空間を空間として見ることができない人もいる気がします。

どういうことかと言いますと、周りが見えてない人が多い気がします。

つまり、自分の事しか見えていない。

時間軸がどうこう言う前に、その瞬間の自分以外が見えていない。
この行動によって、迷惑をしている人がいることに気がつかない。周りの人に気を使わない。

将来起こりうる事に対しての対処が出来ないと言っていたのが前回の話なのですが、今正に起こっていることに対処が出来ていないのです。

例えば、電車で
騒ぐ。
新聞を大きく広げる。
携帯電話で話す。

これらは、マナー違反です。そのマナー違反で迷惑している人がすぐそこにいるのに、見えていない。
と言うか、注意されると逆切れする人もいるから厄介です。

どうなんでしょう?

メモ帳で書き溜めていたストック。
昨日書きかけで、保存せずに寝てしまったらしく、目が覚めると・・・
Windowsが自動的にアップデートし、全自動で再起動されてしまったらしい。
ハイ、全部消えました。

・・・

私が思うに、この世界を4次元として認識している人が、減ってきているような気がします。

どういうことかと言いますと、時間軸が認識できていない人が多い気がします。

今見えている3次元の立体は認識できているのですが、その立体が、動くことを理解できていない気がします。

と言いますのも、今しか見えていないんです。

一寸先は闇とか言いますが、それでも、ちょっと酷い気がします。

例えば、先日、 城崎レイさんに頂いたコメント
最近、電車内でお菓子を食い散らかしたり、ドアの前に座り込んだりする人が多いですがこのような行動も、「お菓子を食い散らかせば清掃のコストがかさみ、それはいずれ運賃の値上げに反映される」とか「ドアの前に座り込めば乗降時に余計な時間がかかり、ダイヤの遅延を招く」など、

これらは、理論もさることながら、時間軸の認識が出来ていない典型的な例だと思います。

フリーターをしてその日暮しをする→年をとった後どうするの?
ニートで何もせずにいる→親が亡くなった後、どうするの?

セックスをする→子どもが出来る可能性がある。
セックスをする→性病がうつるかもしれない。

もっと酷い例は、スピードをだしすぎる。→曲がりきれない→事故を起こす。
今日徹夜で遊ぶ→明日眠くなる。→授業中寝る。

人を殺す→逮捕される→お先真っ暗

こういう、今ではなく、未来に結果が出てくる問題を、あまり気にしてないように見えるのです。

きちんと理解してやっているのであれば、問題ないのですが、理解せずにやっている人が多い気がします。

と言うか、理解できていれば、そういうことしないだろうと思うことが多いです。

ある程度の先見性は必要だと思いますし、思うようにことが進まなくとも、それなりに自分なりの未来を常に意識する必要があると思います。

時間軸をきちんと理解して生きるべきでしょうし、理解できるように努力するべきだと思います。

さて、私はちゃんとできているのか?
そこが一番大事なはずなのですけれども。

1 2 3 4

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索