典型的な綺麗な女の子
2006年6月9日 人間綺麗な女性って目の保養になりますよね?
なんて、男の意見でした。
綺麗な女の子って、男にチヤホヤされますよね?男にチヤホヤされるので、別に自分からアクションをする必要が無い。待っていれば、向こうから寄ってくるので。必要が無いから、積極性が欠けてしまいます。でも、誰もやってくれそうになければ、自分でやります。だから、別に能力が低いわけではないのです。
そして、プライドが高いです。でも、たいていの人は否定します。これは、自分の認める人には、負けても気にならないのですが、自分の認めない人に負けるのは気に入らないのです。だから、プライドが高いという自覚は無いのです。
従って、ある程度、ナルシスト度にプライドの高さは比例しますね。
プライドが高いので、努力家でもあります。人に負けないために、頑張っています。
プライドが高いので、身の周りもこだわります。服とか化粧とか。周りの友人も選んでるかもしれません。能力がないと判断した人は、相手にされなくなるでしょう。
男が寄ってくるので、男の扱いが上手いです。そして、男といると色々やってくれるので楽なのです。女の子といるよりも、男と一緒にいるほうが楽に感じるようです。
と、こんな傾向があるみたいです。
ドキッとしたあなた、あなたは綺麗な女の子だと思いますよ。
別に、悪口ではありません。これが悪いこととは思わないので。むしろ、良いところだとも思います。
ところで、今後、こうやって、色々なタイプの人間をまとめてみようかな?とか思います。
なんて、男の意見でした。
綺麗な女の子って、男にチヤホヤされますよね?男にチヤホヤされるので、別に自分からアクションをする必要が無い。待っていれば、向こうから寄ってくるので。必要が無いから、積極性が欠けてしまいます。でも、誰もやってくれそうになければ、自分でやります。だから、別に能力が低いわけではないのです。
そして、プライドが高いです。でも、たいていの人は否定します。これは、自分の認める人には、負けても気にならないのですが、自分の認めない人に負けるのは気に入らないのです。だから、プライドが高いという自覚は無いのです。
従って、ある程度、ナルシスト度にプライドの高さは比例しますね。
プライドが高いので、努力家でもあります。人に負けないために、頑張っています。
プライドが高いので、身の周りもこだわります。服とか化粧とか。周りの友人も選んでるかもしれません。能力がないと判断した人は、相手にされなくなるでしょう。
男が寄ってくるので、男の扱いが上手いです。そして、男といると色々やってくれるので楽なのです。女の子といるよりも、男と一緒にいるほうが楽に感じるようです。
と、こんな傾向があるみたいです。
ドキッとしたあなた、あなたは綺麗な女の子だと思いますよ。
別に、悪口ではありません。これが悪いこととは思わないので。むしろ、良いところだとも思います。
ところで、今後、こうやって、色々なタイプの人間をまとめてみようかな?とか思います。
やっぱり勉強はするべきだ
2006年6月8日 学校亀田三兄弟が、またTVで試合をしていた…
こいつらを見て思うこと。
やっぱり勉強はしておくべきだ。
敬語を喋れない人を見て思うこと。
やっぱり勉強はしておくべきだ。
漫画家になりたいと、中卒でフリーターをしている人がいると聞いた時思ったこと。
しっかり勉強した方が良いんじゃない?
私自身、別に学校の勉強が全てだとは思いませんし、むしろ、学校の勉強ばかりしていると、どこぞの政治家のように、逆にバカになると思います。
でも、しっかり学校に行って、しっかり勉強もするべきだと思います。
常識があれば、記者会見の場で、肉なんか食べませんよ。態度が悪すぎます。バカなんでしょう。
別に、敬語が喋れなくても、生きていけます。
しかし、やはり、「親しき仲にも礼儀あり」です。やはり、初対面の人や、目上の人には、丁寧な言葉使いをするのは当然でしょう。
夢に向かって頑張ることは大切だとは思います。
でも、例えば、中卒で漫画家になったとして、ブラックジャックが描けますか?
高校をテーマにした漫画が描けますか?
私は、描けないと思います。
せめて、一般常識レベルの話は、知っておきましょう。
そして、いろんなことを体験しましょう。
学校は、意外と良いとこです。社会的な地位があって、勉強できて、遊べて、何かしてしまっても学校が何とかしてくれる。遠足、実技の授業、修学旅行、部活、本当に、格安で、色々なことが出来ます。
ちゃんと、勉強しましょうね。
こいつらを見て思うこと。
やっぱり勉強はしておくべきだ。
敬語を喋れない人を見て思うこと。
やっぱり勉強はしておくべきだ。
漫画家になりたいと、中卒でフリーターをしている人がいると聞いた時思ったこと。
しっかり勉強した方が良いんじゃない?
私自身、別に学校の勉強が全てだとは思いませんし、むしろ、学校の勉強ばかりしていると、どこぞの政治家のように、逆にバカになると思います。
でも、しっかり学校に行って、しっかり勉強もするべきだと思います。
常識があれば、記者会見の場で、肉なんか食べませんよ。態度が悪すぎます。バカなんでしょう。
別に、敬語が喋れなくても、生きていけます。
しかし、やはり、「親しき仲にも礼儀あり」です。やはり、初対面の人や、目上の人には、丁寧な言葉使いをするのは当然でしょう。
夢に向かって頑張ることは大切だとは思います。
でも、例えば、中卒で漫画家になったとして、ブラックジャックが描けますか?
高校をテーマにした漫画が描けますか?
私は、描けないと思います。
せめて、一般常識レベルの話は、知っておきましょう。
そして、いろんなことを体験しましょう。
学校は、意外と良いとこです。社会的な地位があって、勉強できて、遊べて、何かしてしまっても学校が何とかしてくれる。遠足、実技の授業、修学旅行、部活、本当に、格安で、色々なことが出来ます。
ちゃんと、勉強しましょうね。
法は、日本国憲法にはじまり、法律、条令と続きます。そして、その下に校則や社則というものが存在するのです。下位の法は、上位の法に反することができません。つまり、絶対の日本国憲法に反する法律は、本来ありえないのです。
上位の法では、かなりザックリと基本的な枠組みを明記し、その不足部分を下位の法で補足するのです。
そして、さらに補えない部分を私たち国民の道徳で補うのです。
最近、買収問題をはじめ、法律違反ではないが、この道徳に反する問題が多く取り上げられています。
しかし、この道徳とは本当に最下位の法なのでしょうか?
それは、それで違います。この道徳という法は、日本国憲法よりも上位の法でもあるのです。
道徳的に許せないことを、法律という形で、誰でも参照できるように、共通の認識として、文章として明記しているのです。しかし、全てを明記することは不可能ですし、逆に、人それぞれ価値観が違うため、細部まで共通の認識として全てを統一することは、不可能です。
そのために、法として明記できない部分は、道徳で各自が補完するのです。そのため、道徳が最下位の法でもあるのです。
しかし、最近、この道徳に反することを行っているという事件が多いです。もちろん、法によって裁ける事件も多いです。が、法は、裁くためにあるのではないのです。あくまでも、法は、日本人の共通の認識として、文章にしただけの道徳なのです。
その証拠に、罰則のない、ただ禁止しているだけの法律も数多くあります。
なぜ、人を殺してはいけないのでしょう?なぜ、人を騙してはいけないのでしょう?なぜ、人を傷つけてはいけないのでしょう?
刑法で禁止され、罰則があるからですか?
どうしようもない、理由で刑法を犯してしまうこともあるでしょう。限界を超えてしまい、刑法を犯すしか道がなかった人もいるでしょう。
しかし、最近のニュースは、そうでない場合が多いように感じます。
上位の法では、かなりザックリと基本的な枠組みを明記し、その不足部分を下位の法で補足するのです。
そして、さらに補えない部分を私たち国民の道徳で補うのです。
最近、買収問題をはじめ、法律違反ではないが、この道徳に反する問題が多く取り上げられています。
しかし、この道徳とは本当に最下位の法なのでしょうか?
それは、それで違います。この道徳という法は、日本国憲法よりも上位の法でもあるのです。
道徳的に許せないことを、法律という形で、誰でも参照できるように、共通の認識として、文章として明記しているのです。しかし、全てを明記することは不可能ですし、逆に、人それぞれ価値観が違うため、細部まで共通の認識として全てを統一することは、不可能です。
そのために、法として明記できない部分は、道徳で各自が補完するのです。そのため、道徳が最下位の法でもあるのです。
しかし、最近、この道徳に反することを行っているという事件が多いです。もちろん、法によって裁ける事件も多いです。が、法は、裁くためにあるのではないのです。あくまでも、法は、日本人の共通の認識として、文章にしただけの道徳なのです。
その証拠に、罰則のない、ただ禁止しているだけの法律も数多くあります。
なぜ、人を殺してはいけないのでしょう?なぜ、人を騙してはいけないのでしょう?なぜ、人を傷つけてはいけないのでしょう?
刑法で禁止され、罰則があるからですか?
どうしようもない、理由で刑法を犯してしまうこともあるでしょう。限界を超えてしまい、刑法を犯すしか道がなかった人もいるでしょう。
しかし、最近のニュースは、そうでない場合が多いように感じます。
かの有名な古代ギリシャの哲学者「ソクラテス」のお言葉です。
倫理や世界史の授業で習った方も多いと思います。
この言葉は彼が死ぬとき、残した言葉だそうです。
私自身、ソクラテスの生き方や考え方に賛同するつもりもありませんが、この死に方とこの言葉だけは、すごいと思います。
彼は、罪に問われ、死罪が決定しました。そこに弟子達がやってきて、逃亡を薦めました。しかし、彼は、その言葉に耳をかさず、自ら毒の入った杯を飲み干したのです。この様子は、Wikipediaにありますので興味のある方はどうぞ(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/David_-_The_Death_of_Socrates.jpg)。
私に言わせてもらえれば、馬鹿ですね。それに、そんなに簡単に逃げられるような状況であるのがまた、馬鹿ですね。
しかし、この言葉には感動しました。
「どんなに間違った法であっても、今はその法が法である以上、従わなければならない」と言うのです。それが、自分の命を奪うものであっても。
私、この言葉が大好きです。実にわかりやすい。そして、説得力があります。
現在の法に対して、様々な議論がされています。君が代に関しても、天皇制に関しても、戦争放棄に関しても…etc。しかし、今は現行の法が、法なのです。例え、それが間違っていても。
過去に何があろうが、未来に何が起ころうとしていても、今は、今の法が法なのです。従って、変わるまでは従う必要があります。それが、法治国家における国のあり方であるはずです。
倫理や世界史の授業で習った方も多いと思います。
この言葉は彼が死ぬとき、残した言葉だそうです。
私自身、ソクラテスの生き方や考え方に賛同するつもりもありませんが、この死に方とこの言葉だけは、すごいと思います。
彼は、罪に問われ、死罪が決定しました。そこに弟子達がやってきて、逃亡を薦めました。しかし、彼は、その言葉に耳をかさず、自ら毒の入った杯を飲み干したのです。この様子は、Wikipediaにありますので興味のある方はどうぞ(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/David_-_The_Death_of_Socrates.jpg)。
私に言わせてもらえれば、馬鹿ですね。それに、そんなに簡単に逃げられるような状況であるのがまた、馬鹿ですね。
しかし、この言葉には感動しました。
「どんなに間違った法であっても、今はその法が法である以上、従わなければならない」と言うのです。それが、自分の命を奪うものであっても。
私、この言葉が大好きです。実にわかりやすい。そして、説得力があります。
現在の法に対して、様々な議論がされています。君が代に関しても、天皇制に関しても、戦争放棄に関しても…etc。しかし、今は現行の法が、法なのです。例え、それが間違っていても。
過去に何があろうが、未来に何が起ころうとしていても、今は、今の法が法なのです。従って、変わるまでは従う必要があります。それが、法治国家における国のあり方であるはずです。
類は友を呼ぶ:気の合った者や似通った者は自然に寄り集まる。類を以(もつ)て集まる。(YAHOO!辞書)
最近、気になる言葉。さすがに、私の座右の銘にはなりませんが、それでも注目のことわざです。
DiaryNoteの最初はランダムジャンプから、その後はリンクをたどって、皆さんのブログを読むのが最近のマイブームです。
読んでいて思うことは、「類は友を呼ぶ」とは正にこのことだなと。
リンク先のほとんどは、その人と、よく似たことをテーマにしています。
ある人はSMAPのこと、ある人は野球のこと。
本当に面白いです。
それに、同じようなテーマで書いている人が、こんなにもたくさんおられるんだということにも驚きです。
私のような、こんなある意味宗教めいたことばかり書いてあるようなブログは、他にもあるのだろうか…
でも、そんな中にも、その人の心が読み取れるのが、面白いですね。
さて、そんな中思うことは、皆さんに、もっと様々な方の意見を聞いて欲しいと思うことです。
読ませていただいていると、どうも、相互リンクをしている方とお互いの傷をなめあっているように感じられることがあります。
それを否定するつもりはありません。同じような傷を持つ方同士が、自分の経験からアドバイスしあうということは、とても素晴らしいことだとは思います。
しかし、5月3日の「友達って」にも書きましたが、同じ傷をなめ合う関係では友達とは呼べないでしょう。相手のことを考え、問題ありそうなことは、問題あるよと言ってあげれる人が、友達だと思います。
こんなことを書くと、「そんなインターネットで、そこまでの友達を求めるのは間違っているでしょう」と思われる方も多いとは思いますが、それが正解だと思います。
インターネットの関係は、あくまでもインターネットの関係です。そこを逃げ場所にしてはいけないのです。
以上、詳しくは後日まとめたいと思います。
最近、気になる言葉。さすがに、私の座右の銘にはなりませんが、それでも注目のことわざです。
DiaryNoteの最初はランダムジャンプから、その後はリンクをたどって、皆さんのブログを読むのが最近のマイブームです。
読んでいて思うことは、「類は友を呼ぶ」とは正にこのことだなと。
リンク先のほとんどは、その人と、よく似たことをテーマにしています。
ある人はSMAPのこと、ある人は野球のこと。
本当に面白いです。
それに、同じようなテーマで書いている人が、こんなにもたくさんおられるんだということにも驚きです。
私のような、こんなある意味宗教めいたことばかり書いてあるようなブログは、他にもあるのだろうか…
でも、そんな中にも、その人の心が読み取れるのが、面白いですね。
さて、そんな中思うことは、皆さんに、もっと様々な方の意見を聞いて欲しいと思うことです。
読ませていただいていると、どうも、相互リンクをしている方とお互いの傷をなめあっているように感じられることがあります。
それを否定するつもりはありません。同じような傷を持つ方同士が、自分の経験からアドバイスしあうということは、とても素晴らしいことだとは思います。
しかし、5月3日の「友達って」にも書きましたが、同じ傷をなめ合う関係では友達とは呼べないでしょう。相手のことを考え、問題ありそうなことは、問題あるよと言ってあげれる人が、友達だと思います。
こんなことを書くと、「そんなインターネットで、そこまでの友達を求めるのは間違っているでしょう」と思われる方も多いとは思いますが、それが正解だと思います。
インターネットの関係は、あくまでもインターネットの関係です。そこを逃げ場所にしてはいけないのです。
以上、詳しくは後日まとめたいと思います。
2チャンネルについて考える
2006年5月31日 インターネット コメント (4)まず、私自身、ここでは新参者ですが、ブログは、もう何年か書かせていただいています。
その中で、今回、このような事を考えたきっかけは、以下のサイトを偶然見つけたからです。
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051101/114110/
ブロガーの皆さんには、ぜひ、一読していただきたいと思います。身の毛がよだつ、恐ろしい話が書いてあります。
と言うことで、上の記事を踏まえた上で、私の個人的意見を述べてみようと思います。
まず、私自身は、2チャンネルは利用していません。
理由は、読んでいると、腹が立つからです。
最近は、多少改善されているのかもしれませんが、荒らしが多すぎます。表現も汚いです。
意図のわからないアスキーアートが多すぎます。それも、上手な絵だと良いのですが、下手なのも少なくありません。
よく、調べ物に検索をかけると、必ずと言って良いほど、2チャンネルがヒットしますが、調べものの役に立ったことはありません。
また、書き込みをしている人に名無しが多すぎます。
こういうイメージがある上に、ニュースでの、モナー事件やWinny事件など、犯罪の臭いがプンプンします。
以上、良くないイメージが強い上に、利用価値なしと言ったイメージを私は持っています。
そして、今回の「祭り」。どうなんでしょう?
しかし、電車男の中に出てきたアラジンチャンネルは、とても温かい、気持ちの良いサイトでした。この2チャンネルがモデルです。
上記の記事によると、板によって、全く雰囲気が違うそうです。
まず、2チャンネルは、巨大に成長しすぎたという問題点が挙げられます。
こじんまりした掲示板ですと、管理人の目が行き届き、荒らしや不適切な発言を定期的に削除してあります。
読む方も、発言する方も、気持ちよく、掲示板を利用することができます。
しかし、利用する人数が増えると、必然的に変な発言も増えていきます。管理できる範囲に対して、変な発言の数が増えてしまうのです。
そして、名無し問題。名無しというのは、自分の意見に全く責任を持っていないということです。続けて発言をしたとしても、その前の発言とつながらなくなります。つまり、以前の意見とは関係なく、次の発言を行えるのです。
いくら匿名性が高いインターネットであったとしても、自分の意見に責任を持つ必要があると思います。責任を持った発言だからこそ、意見として成り立つのです。
話は変わりますが、こういったブログサイトですと、書いている人間が、1人の人間として、次々と意見を書いていくわけです。もちろん、以前の意見に対しての責任が発生してきます。次に書く意見が以前書いた意見と全くつながらないようでしたら、意見としての価値が全くと言って良いほどないわけです。
また、何か問題発言をしてしまったとしても、ハンドルネームではありますが、その発言に対しての制裁を受けるでしょう。
これは、掲示板に対しても言えるはずです。自分の意見に責任を持つことは、意見としての価値を高めるのです。
上記記事の中にも書いてありますが、2チャンネル自身には、罪はありません。
もし、罪があるのであれば、管理しきれていない管理人にあるのです。しかし、管理人がそこまで把握しなければならないものでもないはずです。
つまりは、利用者のモラルが問われるわけです。
しかし、どのような集団にも、一定の割合でそのモラルが守れない人間は存在するのです。
もちろん、集団の絶対数が増えれば、そのモラルが守れない人間の数も増えます。そして、こういった要素は、割合ではなく数で評価してしまうのです。事故や事件も割合ではなく、件数で表現します。人口が増えているので、事故や事件が増えるのは当たり前の話なのです。
そして、そのモラルを守れない人間を見て、「ちょっとならモラルを守る必要はない」と勘違いする人間がいるのです。
以上、特に、2チャンネルに問題があるのではなく、2チャンネルは、2チャンネル上で、「集団」における問題点が如実に表れている、典型的集団であるのです。
しかし、一般社会では、法律がその行き過ぎを抑制してくれます。しかし、現在のインターネット社会は、まだ、法が整っていないのが現状です。この中で、誰が、この行き過ぎを抑制するのかが課題にはなってくるでしょう。
その中で、今回、このような事を考えたきっかけは、以下のサイトを偶然見つけたからです。
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051101/114110/
ブロガーの皆さんには、ぜひ、一読していただきたいと思います。身の毛がよだつ、恐ろしい話が書いてあります。
と言うことで、上の記事を踏まえた上で、私の個人的意見を述べてみようと思います。
まず、私自身は、2チャンネルは利用していません。
理由は、読んでいると、腹が立つからです。
最近は、多少改善されているのかもしれませんが、荒らしが多すぎます。表現も汚いです。
意図のわからないアスキーアートが多すぎます。それも、上手な絵だと良いのですが、下手なのも少なくありません。
よく、調べ物に検索をかけると、必ずと言って良いほど、2チャンネルがヒットしますが、調べものの役に立ったことはありません。
また、書き込みをしている人に名無しが多すぎます。
こういうイメージがある上に、ニュースでの、モナー事件やWinny事件など、犯罪の臭いがプンプンします。
以上、良くないイメージが強い上に、利用価値なしと言ったイメージを私は持っています。
そして、今回の「祭り」。どうなんでしょう?
しかし、電車男の中に出てきたアラジンチャンネルは、とても温かい、気持ちの良いサイトでした。この2チャンネルがモデルです。
上記の記事によると、板によって、全く雰囲気が違うそうです。
まず、2チャンネルは、巨大に成長しすぎたという問題点が挙げられます。
こじんまりした掲示板ですと、管理人の目が行き届き、荒らしや不適切な発言を定期的に削除してあります。
読む方も、発言する方も、気持ちよく、掲示板を利用することができます。
しかし、利用する人数が増えると、必然的に変な発言も増えていきます。管理できる範囲に対して、変な発言の数が増えてしまうのです。
そして、名無し問題。名無しというのは、自分の意見に全く責任を持っていないということです。続けて発言をしたとしても、その前の発言とつながらなくなります。つまり、以前の意見とは関係なく、次の発言を行えるのです。
いくら匿名性が高いインターネットであったとしても、自分の意見に責任を持つ必要があると思います。責任を持った発言だからこそ、意見として成り立つのです。
話は変わりますが、こういったブログサイトですと、書いている人間が、1人の人間として、次々と意見を書いていくわけです。もちろん、以前の意見に対しての責任が発生してきます。次に書く意見が以前書いた意見と全くつながらないようでしたら、意見としての価値が全くと言って良いほどないわけです。
また、何か問題発言をしてしまったとしても、ハンドルネームではありますが、その発言に対しての制裁を受けるでしょう。
これは、掲示板に対しても言えるはずです。自分の意見に責任を持つことは、意見としての価値を高めるのです。
上記記事の中にも書いてありますが、2チャンネル自身には、罪はありません。
もし、罪があるのであれば、管理しきれていない管理人にあるのです。しかし、管理人がそこまで把握しなければならないものでもないはずです。
つまりは、利用者のモラルが問われるわけです。
しかし、どのような集団にも、一定の割合でそのモラルが守れない人間は存在するのです。
もちろん、集団の絶対数が増えれば、そのモラルが守れない人間の数も増えます。そして、こういった要素は、割合ではなく数で評価してしまうのです。事故や事件も割合ではなく、件数で表現します。人口が増えているので、事故や事件が増えるのは当たり前の話なのです。
そして、そのモラルを守れない人間を見て、「ちょっとならモラルを守る必要はない」と勘違いする人間がいるのです。
以上、特に、2チャンネルに問題があるのではなく、2チャンネルは、2チャンネル上で、「集団」における問題点が如実に表れている、典型的集団であるのです。
しかし、一般社会では、法律がその行き過ぎを抑制してくれます。しかし、現在のインターネット社会は、まだ、法が整っていないのが現状です。この中で、誰が、この行き過ぎを抑制するのかが課題にはなってくるでしょう。
文章だけで恋をする?
2006年5月30日 男、女、友情、恋 コメント (2)昨日の話は、もう少し時間をおいてからしたいと思っています。
と言うことで、しばらくは違う話を。
ふと思ったことです。人は文章を読むだけで恋をできるのでしょうか?
どうなのでしょう?
私は、このDiaryNoteをはじめ、たくさんのブログを読ませていただき、「この人絶対良い女だ!!」と思うことは、しばしばです。
しかし、これは恋とは違いますよね?
とは言っても、私の自論ですと、「男はLoveとLikeの違いが理解できない」と思っているので、もしかしたら、一歩間違えると恋をするのだろうか?
とか、少し考えてしまいました。
しかし、現実問題、顔を合わせたことのなかったメル友と、恋愛に発展しましたという話は、よく耳にする話です。
どうなんでしょう。でも、容姿がわからない相手を好きになる場合、本当に相手の中身を好きになるわけですから、実は、すごく良い話なのかもしれません。
と、今日は、くだらないお話でした。
と言うことで、しばらくは違う話を。
ふと思ったことです。人は文章を読むだけで恋をできるのでしょうか?
どうなのでしょう?
私は、このDiaryNoteをはじめ、たくさんのブログを読ませていただき、「この人絶対良い女だ!!」と思うことは、しばしばです。
しかし、これは恋とは違いますよね?
とは言っても、私の自論ですと、「男はLoveとLikeの違いが理解できない」と思っているので、もしかしたら、一歩間違えると恋をするのだろうか?
とか、少し考えてしまいました。
しかし、現実問題、顔を合わせたことのなかったメル友と、恋愛に発展しましたという話は、よく耳にする話です。
どうなんでしょう。でも、容姿がわからない相手を好きになる場合、本当に相手の中身を好きになるわけですから、実は、すごく良い話なのかもしれません。
と、今日は、くだらないお話でした。
語り継がれる戦争の記憶
2006年5月29日 社会 コメント (2)
ISBN:4063603245 文庫 三枝 義浩 講談社 2002/08 ¥525
あゆみさんから、5月27日の「ナイトとお姫さま」にご指摘がありました。
まず、ご指摘を頂いた上で、簡単にではありますが、自分なりに調べさせて頂いた結果、ここでの引き合いに、特攻隊の話を出すことは、あまり適切ではなかったかもしれません。
私自身、当時のことを深く知っているわけもありませんので、浅はかな考えであると思います。
しかし、いくら教育されたからとは言っても、会ったことのない天皇のために、自らの命を投げ出せた人が何人いたでしょうか?
以前、週間少年マガジンで、当時の特攻隊の生き残りの方を取材して、描かれた漫画が掲載されていました。(単行本化され3冊にまとめられています。また、このシリーズは現在も健在で毎年夏になると掲載されています。最近はイラク戦争、アフガニスタンなど、最近の事例が取り上げられています。)
そこで、当事者達の心情として描かれていたのは、やはり、天皇のためではなく、家族や恋人に対する思いからということでした。
また、特攻自体は、志願制であり、本人の意思であったと表現されていました。(しかし、当時、特攻を本当に断れる環境にあったかどうかは、定かではありません。)
また、天皇のため、国のためであったとしても、それは、自分以外の他者のための行動であり、そこには、自分に対しての損得感情がないため、議論上における問題はないかとは思います。
私の中での特攻というものは、そういう風に解釈していたため、このような表現をさせて頂きました。
せっかくなので、この騎士道の話をさらに、掘り下げてみたいと思います。
このマガジンのシリーズで、アメリカ軍の視点から書かれた沖縄の地上戦の話もありました。
この特攻という行為が、アメリカ軍には理解できない、未知の攻撃であるという表現がされていました。また、同時に、次々と玉砕していく日本兵に対しての、疑問と恐怖も描かれていました。
日本人とは、特にそういう自分を犠牲にしても、他人のため、自分の大切な人のために命を投げ出すことができる民族なのです。
たとえ、それが当時の教育における副産物であったとしても、それは、とても素晴らしいことだと私は思います。(命を投げ出すことが素晴らしいのではなく、そう思えることが素晴らしいと私は思っています。)
昔、某総理の問題発言の中に、「神の国発言」というものがありますが、彼はその中で、当時の教育の中にも良いことはあったと公言しているそうです。私は、当時の教育について、詳しい事実を知りませんが、こういう自己犠牲の部分に対しての発言ではないかと思います。
ただ、この精神が、当時の情勢をいっそう泥沼化していったことは、間違いない事実だとは思います。
そして、この表現に対して、不快に感じられる方も、いらっしゃるかもしれませんので、その点、お詫びいたします。
しかし、例えば、こんな話があります。
つい先日も、ニュースでやっていましたが、数年前に、琉球大学にアメリカ軍のヘリコプターが墜落しました。
この事故による犠牲者がいなかったのは、本当に良かった事だと思います。しかし、大学の校舎の上にヘリコプターが墜落、炎上しても犠牲者が出ずに済むなんて、奇跡でしょう。この事故の犠牲者0は、奇跡なのです。
この時、中に乗っていたアメリカ兵は、脱出して無事でした。
そして、この事件の数年前に、日本の自衛隊のヘリコプターが墜落する事故がありました。
この事故は、田舎で起こった事故ではありますが、田んぼに墜落したため、一般人の犠牲者は0でした。
しかし、乗っていた自衛官は、残念ながら亡くなられました。
さて、この一見、同じような事故ですが、大きな違いがあります。
それは、操縦士の生死です。
以上の内容で、あなたは、次のどの意見を支持しますか?あなたが、操縦士(事故を起こした当事者としてではなく、その他の一般操縦士)だと思って考えてください。
1.米軍の事故は、誰も犠牲にならなかったので、米軍の操縦士は正しい。
2.米軍の操縦士の脱出するという判断は、たとえ犠牲者が出ていたとしても、自分の生命を守るためにはしかたのない判断だった。
3.操縦士の生命維持のためにも、自衛隊は様々観点から、今後、訓練、装備等を見直すべきだ。
全ての意見を支持する方もいらっしゃると思いますし、どれも支持しない方もいらっしゃるでしょう。
話が中途半端になってしまいましたが、私の見解は、後日改めて書くということで、今回はここで終了させていただきます。
良ければ、皆さんの意見をコメントに残していただけませんか?お願いします。
あゆみさんから、5月27日の「ナイトとお姫さま」にご指摘がありました。
まず、ご指摘を頂いた上で、簡単にではありますが、自分なりに調べさせて頂いた結果、ここでの引き合いに、特攻隊の話を出すことは、あまり適切ではなかったかもしれません。
私自身、当時のことを深く知っているわけもありませんので、浅はかな考えであると思います。
しかし、いくら教育されたからとは言っても、会ったことのない天皇のために、自らの命を投げ出せた人が何人いたでしょうか?
以前、週間少年マガジンで、当時の特攻隊の生き残りの方を取材して、描かれた漫画が掲載されていました。(単行本化され3冊にまとめられています。また、このシリーズは現在も健在で毎年夏になると掲載されています。最近はイラク戦争、アフガニスタンなど、最近の事例が取り上げられています。)
そこで、当事者達の心情として描かれていたのは、やはり、天皇のためではなく、家族や恋人に対する思いからということでした。
また、特攻自体は、志願制であり、本人の意思であったと表現されていました。(しかし、当時、特攻を本当に断れる環境にあったかどうかは、定かではありません。)
また、天皇のため、国のためであったとしても、それは、自分以外の他者のための行動であり、そこには、自分に対しての損得感情がないため、議論上における問題はないかとは思います。
私の中での特攻というものは、そういう風に解釈していたため、このような表現をさせて頂きました。
せっかくなので、この騎士道の話をさらに、掘り下げてみたいと思います。
このマガジンのシリーズで、アメリカ軍の視点から書かれた沖縄の地上戦の話もありました。
この特攻という行為が、アメリカ軍には理解できない、未知の攻撃であるという表現がされていました。また、同時に、次々と玉砕していく日本兵に対しての、疑問と恐怖も描かれていました。
日本人とは、特にそういう自分を犠牲にしても、他人のため、自分の大切な人のために命を投げ出すことができる民族なのです。
たとえ、それが当時の教育における副産物であったとしても、それは、とても素晴らしいことだと私は思います。(命を投げ出すことが素晴らしいのではなく、そう思えることが素晴らしいと私は思っています。)
昔、某総理の問題発言の中に、「神の国発言」というものがありますが、彼はその中で、当時の教育の中にも良いことはあったと公言しているそうです。私は、当時の教育について、詳しい事実を知りませんが、こういう自己犠牲の部分に対しての発言ではないかと思います。
ただ、この精神が、当時の情勢をいっそう泥沼化していったことは、間違いない事実だとは思います。
そして、この表現に対して、不快に感じられる方も、いらっしゃるかもしれませんので、その点、お詫びいたします。
しかし、例えば、こんな話があります。
つい先日も、ニュースでやっていましたが、数年前に、琉球大学にアメリカ軍のヘリコプターが墜落しました。
この事故による犠牲者がいなかったのは、本当に良かった事だと思います。しかし、大学の校舎の上にヘリコプターが墜落、炎上しても犠牲者が出ずに済むなんて、奇跡でしょう。この事故の犠牲者0は、奇跡なのです。
この時、中に乗っていたアメリカ兵は、脱出して無事でした。
そして、この事件の数年前に、日本の自衛隊のヘリコプターが墜落する事故がありました。
この事故は、田舎で起こった事故ではありますが、田んぼに墜落したため、一般人の犠牲者は0でした。
しかし、乗っていた自衛官は、残念ながら亡くなられました。
さて、この一見、同じような事故ですが、大きな違いがあります。
それは、操縦士の生死です。
以上の内容で、あなたは、次のどの意見を支持しますか?あなたが、操縦士(事故を起こした当事者としてではなく、その他の一般操縦士)だと思って考えてください。
1.米軍の事故は、誰も犠牲にならなかったので、米軍の操縦士は正しい。
2.米軍の操縦士の脱出するという判断は、たとえ犠牲者が出ていたとしても、自分の生命を守るためにはしかたのない判断だった。
3.操縦士の生命維持のためにも、自衛隊は様々観点から、今後、訓練、装備等を見直すべきだ。
全ての意見を支持する方もいらっしゃると思いますし、どれも支持しない方もいらっしゃるでしょう。
話が中途半端になってしまいましたが、私の見解は、後日改めて書くということで、今回はここで終了させていただきます。
良ければ、皆さんの意見をコメントに残していただけませんか?お願いします。
題名は続いていませんが、昨日の続きです。
あなたの恐怖なんですか?恐怖とは、どんな時に生まれる感情でしょうか?
それは、自分の力が及ばない存在なのではないでしょか?つまり、自分の力では解決できない、回避できない出来事。
例えば、自然災害。人間の力では、回避できない事象です。
さて、こんな話があります。
草?剛主演「恋におちたら〜僕の成功の秘密〜」で、社長の堤真一とは全く違った営業手法で草?剛がドンドン営業成績を上げていくため、不気味になっていきます。そして、最終的には、潰しにかかります。
これこそ、恐怖そのものなのです。今までの自分の生き方を否定されているように感じるのです。そして、それを否定しても否定しても、上手くやってのける。いずれ、自分を追い越し、自分の地位を脅かすかもしれない。それが本人(草?剛)の意思かどうかは関係なく。
それも、自分(堤真一)には、どうすることもできない。つまり、自分の力では止めることができない。自分の力の及ばない何かが、自分に迫ってきている。
恐怖です。
実は、ドラマを中心に、こういった内容が描かれている物語は少なくありません。
そして、独裁政治と革命者の関係もそのような関係ではないでしょうか?
意外とこんな話は、身近にあるのです。
先日の騎士道の話にもつながりますが、男性であるA君は、昔好きだった女性Bさんのことを、とても大切に思っています。
A君は、昔、Bさんに告白をしてふられてしまいました。しかし、5月13日の「男と女の友情は成立するのか?」に書いたとおり、A君は、Bさんのことが今でも好きです。しかし、Bさんに対して、恋愛感情の返信は期待していません。Bさんのことは、友達として、一人の人間として、とても大切に思っています。
さて、ここで、Bさんが、ちょっと困ったことを始めました。そうですね、例えば、万引きを日常的に始めたとしましょう。もちろん、A君は、Bさんに止めさせようとします。大切な人が窃盗で警察に捕まってしまっては大変です。
しかし、そこでBさんは、「私のことがまだ好きだから干渉してくるのね。放っといてよ。」と思うわけです。そして、「そんなに私に恩を売ったって、私は、あなたのこと好きにならないわよ」と思うのです。そして、Bさんは、A君本人にもそう言い放つのです。
しかし、A君は、もう、Bさんからの恋愛感情の返信は求めていません。単純に心配なのです。大切な人ですから。
A君は、Bさんが言っている事が理解できません。何を言っているのかわかりません。もう、あきらめている人に、「私、あなたのこと好きにならないわよ」と言われても、全く的外れな言葉なのです。
もちろん、A君は、Bさんが言っていることが理解できないため、「僕はそんなこと求めてないよ」と言い、その後も、万引きを止めさせようと画策するわけです。
そうすると、Bさんは、益々、怒ります。「なんなのよ、この人。そんなに私のことが好きなの?」と。
Bさんは、さらに酷い口調で、A君に言い放ちます。しかし、A君は、Bさんが言っていることが理解できません。なぜ怒っているかも理解できません。
そして、こういう言うのです。「別に、好きになって欲しいわけではないよ」と。しかし、BさんはA君のその言葉が信じられません。こうなると修羅場です。
Bさんは、A君に、自分の言葉が届かない、つまり、自分の力が及ばないA君に恐怖を覚えます。倒しても倒しても復活するゾンビのような存在なのです。
そして、それをいくらA君に訴えても、A君は、なぜそんなことを言うのか理解できないのです。そして、とにかく自分が嫌われたとしてもかまわないから、万引きを止めさせようとするのです。それが、A君の騎士道なのです。
困ったことになりました。Bさんは、A君が恐怖です。存在が怖いのです。そして、Bさんは、その恐怖の対象を目の前から排除しようとするのです。しかし、A君は、そのBさんの気持ちが理解できないのです。そして、A君はBさんを大切に思うのです。万引きも止めさせようとするのです。それが、逆効果であることにも気がつかずに。
この2人は、この後どうなるのでしょう?お互いに不幸です。
でも、A君が悪いとも思えませんし、Bさんが悪いとも思えません。どうでしょう?
あなたの恐怖なんですか?恐怖とは、どんな時に生まれる感情でしょうか?
それは、自分の力が及ばない存在なのではないでしょか?つまり、自分の力では解決できない、回避できない出来事。
例えば、自然災害。人間の力では、回避できない事象です。
さて、こんな話があります。
草?剛主演「恋におちたら〜僕の成功の秘密〜」で、社長の堤真一とは全く違った営業手法で草?剛がドンドン営業成績を上げていくため、不気味になっていきます。そして、最終的には、潰しにかかります。
これこそ、恐怖そのものなのです。今までの自分の生き方を否定されているように感じるのです。そして、それを否定しても否定しても、上手くやってのける。いずれ、自分を追い越し、自分の地位を脅かすかもしれない。それが本人(草?剛)の意思かどうかは関係なく。
それも、自分(堤真一)には、どうすることもできない。つまり、自分の力では止めることができない。自分の力の及ばない何かが、自分に迫ってきている。
恐怖です。
実は、ドラマを中心に、こういった内容が描かれている物語は少なくありません。
そして、独裁政治と革命者の関係もそのような関係ではないでしょうか?
意外とこんな話は、身近にあるのです。
先日の騎士道の話にもつながりますが、男性であるA君は、昔好きだった女性Bさんのことを、とても大切に思っています。
A君は、昔、Bさんに告白をしてふられてしまいました。しかし、5月13日の「男と女の友情は成立するのか?」に書いたとおり、A君は、Bさんのことが今でも好きです。しかし、Bさんに対して、恋愛感情の返信は期待していません。Bさんのことは、友達として、一人の人間として、とても大切に思っています。
さて、ここで、Bさんが、ちょっと困ったことを始めました。そうですね、例えば、万引きを日常的に始めたとしましょう。もちろん、A君は、Bさんに止めさせようとします。大切な人が窃盗で警察に捕まってしまっては大変です。
しかし、そこでBさんは、「私のことがまだ好きだから干渉してくるのね。放っといてよ。」と思うわけです。そして、「そんなに私に恩を売ったって、私は、あなたのこと好きにならないわよ」と思うのです。そして、Bさんは、A君本人にもそう言い放つのです。
しかし、A君は、もう、Bさんからの恋愛感情の返信は求めていません。単純に心配なのです。大切な人ですから。
A君は、Bさんが言っている事が理解できません。何を言っているのかわかりません。もう、あきらめている人に、「私、あなたのこと好きにならないわよ」と言われても、全く的外れな言葉なのです。
もちろん、A君は、Bさんが言っていることが理解できないため、「僕はそんなこと求めてないよ」と言い、その後も、万引きを止めさせようと画策するわけです。
そうすると、Bさんは、益々、怒ります。「なんなのよ、この人。そんなに私のことが好きなの?」と。
Bさんは、さらに酷い口調で、A君に言い放ちます。しかし、A君は、Bさんが言っていることが理解できません。なぜ怒っているかも理解できません。
そして、こういう言うのです。「別に、好きになって欲しいわけではないよ」と。しかし、BさんはA君のその言葉が信じられません。こうなると修羅場です。
Bさんは、A君に、自分の言葉が届かない、つまり、自分の力が及ばないA君に恐怖を覚えます。倒しても倒しても復活するゾンビのような存在なのです。
そして、それをいくらA君に訴えても、A君は、なぜそんなことを言うのか理解できないのです。そして、とにかく自分が嫌われたとしてもかまわないから、万引きを止めさせようとするのです。それが、A君の騎士道なのです。
困ったことになりました。Bさんは、A君が恐怖です。存在が怖いのです。そして、Bさんは、その恐怖の対象を目の前から排除しようとするのです。しかし、A君は、そのBさんの気持ちが理解できないのです。そして、A君はBさんを大切に思うのです。万引きも止めさせようとするのです。それが、逆効果であることにも気がつかずに。
この2人は、この後どうなるのでしょう?お互いに不幸です。
でも、A君が悪いとも思えませんし、Bさんが悪いとも思えません。どうでしょう?
少々、私の尊敬する心理学の先生とお話する機会がありました。
そのなかで、伺った話です。
最近、ナイトとお姫様が減ってきているそうです。
先生がおっしゃるには、自分の利害に関係なく、尽くすことができる男が減ってきているそうです。
普通、ナイトには家族があり、その人の妻子がいます。しかし、それでも、お姫様に尽くすわけです。
宮崎アニメに出てくるナイト。
ナウシカなんて、正に、その通りです(ナウシカは女の子ですけど)。彼女は、なんの得があって、オウムの群に飛び込んでいったのでしょう?
もののけ姫とアシタカは、何の得があって、シシ神様に首を返しに行ったのでしょう?
3人とも命がけで。あの3人なら十分に逃げ切ることができたでしょう。
おそらく、得なんてないのです。損得を考えて行動しているのではないのです。
昔は、そんな、自分の損得からではなく、行動しているナイト的な考え方の持ち主が多かったそうです。
特攻隊なんかも、そのての考え方の1つではないのでしょうか?
では、こういったナイト的な考え方の人は、何を考えているのでしょう?
それは、基本的には本人にしかわからないと思いますが、想像するに、周りの人間、自分の大切な人の幸せではないでしょうか?
自分の幸せよりも、周りの人の幸せを第一に考えているのです。
先生がおっしゃるには、元来、男とはそういうものだったそうです。
でも、実際、そうなのかもしれません。そうでなければ、戦(いくさ)に命がけで戦いに行けないと思います。
「浮気は男の甲斐性」とか言いますけど、不倫の結果、奥さんを不幸にするようでは、こんなことは言われないと思います。不倫をしても、奥さんを幸せにする。不倫相手も不幸にしない。だからこそ、こんな言葉が生まれ、それなりに認められるのだと思います。
そして、女の子も高飛車な女は増えても、お姫様が減っているそうです。
お姫様は、死ぬときに、「結局、私のことを理解してくれたのは、あなた(ナイトのこよ)だけね」と言いながら死ぬそうです。そして、ナイトは、その言葉が最高の幸せだそうです。
でも、男にとって、そういう部分はあると思います。
男に関して、不倫の話をしますと、最近は、不倫をして結局奥さんを捨てる。そんなことが近年の離婚率の増加をみれば、見えてくると思います。結局、自分のことしか考えていないのです。
それに、女性も、男に幸せにしてもらうのではなく、幸せは自分で掴むという女性が増えていることも否定できないと思います。
もちろん、そういう女性を否定するわけではありません。
しかし、こういった事が、男の騎士道の否定につながることは否定できないと思います。
男は、「自己犠牲の下に、他人を幸せにする」という部分に、元来、価値を置いていたのです。
しかし、そういった男性が減ってきているそうです。その中で、そういった、自己犠牲を美徳とする人は、なかなか受け入れられなくなってきています。そういった自己犠牲を美徳とする気持ちを理解できないため、端から見ると、その人が不気味なのです。
それでも、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」がヒットする影には、そういった自己犠牲の美徳が、否定されきっていないということの表れで、もっと、そういう人が増えれば、世の中もっと良くなるでしょうし、そういう人を皆さんが、身近なところで、理解していただければ、そういう素晴らしい騎士道の持ち主も生きやすく、そして、そういった人たちが活躍しやすくなることでしょう。
続きます。
そのなかで、伺った話です。
最近、ナイトとお姫様が減ってきているそうです。
先生がおっしゃるには、自分の利害に関係なく、尽くすことができる男が減ってきているそうです。
普通、ナイトには家族があり、その人の妻子がいます。しかし、それでも、お姫様に尽くすわけです。
宮崎アニメに出てくるナイト。
ナウシカなんて、正に、その通りです(ナウシカは女の子ですけど)。彼女は、なんの得があって、オウムの群に飛び込んでいったのでしょう?
もののけ姫とアシタカは、何の得があって、シシ神様に首を返しに行ったのでしょう?
3人とも命がけで。あの3人なら十分に逃げ切ることができたでしょう。
おそらく、得なんてないのです。損得を考えて行動しているのではないのです。
昔は、そんな、自分の損得からではなく、行動しているナイト的な考え方の持ち主が多かったそうです。
特攻隊なんかも、そのての考え方の1つではないのでしょうか?
では、こういったナイト的な考え方の人は、何を考えているのでしょう?
それは、基本的には本人にしかわからないと思いますが、想像するに、周りの人間、自分の大切な人の幸せではないでしょうか?
自分の幸せよりも、周りの人の幸せを第一に考えているのです。
先生がおっしゃるには、元来、男とはそういうものだったそうです。
でも、実際、そうなのかもしれません。そうでなければ、戦(いくさ)に命がけで戦いに行けないと思います。
「浮気は男の甲斐性」とか言いますけど、不倫の結果、奥さんを不幸にするようでは、こんなことは言われないと思います。不倫をしても、奥さんを幸せにする。不倫相手も不幸にしない。だからこそ、こんな言葉が生まれ、それなりに認められるのだと思います。
そして、女の子も高飛車な女は増えても、お姫様が減っているそうです。
お姫様は、死ぬときに、「結局、私のことを理解してくれたのは、あなた(ナイトのこよ)だけね」と言いながら死ぬそうです。そして、ナイトは、その言葉が最高の幸せだそうです。
でも、男にとって、そういう部分はあると思います。
男に関して、不倫の話をしますと、最近は、不倫をして結局奥さんを捨てる。そんなことが近年の離婚率の増加をみれば、見えてくると思います。結局、自分のことしか考えていないのです。
それに、女性も、男に幸せにしてもらうのではなく、幸せは自分で掴むという女性が増えていることも否定できないと思います。
もちろん、そういう女性を否定するわけではありません。
しかし、こういった事が、男の騎士道の否定につながることは否定できないと思います。
男は、「自己犠牲の下に、他人を幸せにする」という部分に、元来、価値を置いていたのです。
しかし、そういった男性が減ってきているそうです。その中で、そういった、自己犠牲を美徳とする人は、なかなか受け入れられなくなってきています。そういった自己犠牲を美徳とする気持ちを理解できないため、端から見ると、その人が不気味なのです。
それでも、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」がヒットする影には、そういった自己犠牲の美徳が、否定されきっていないということの表れで、もっと、そういう人が増えれば、世の中もっと良くなるでしょうし、そういう人を皆さんが、身近なところで、理解していただければ、そういう素晴らしい騎士道の持ち主も生きやすく、そして、そういった人たちが活躍しやすくなることでしょう。
続きます。
ブログ運営方針1.00
2006年5月26日 御一読ください コメント (1)本日で、ここでお世話になり始めて1ヶ月となりました。徐々に使い方もわかってきましたので、この辺りで、ここの運営方針を一度文字にしておこうと思います。もちろん、今後改正していくことにはなると思いますが、その時はまた、その時対応していきたいと思います。
このブログの目指すもの。
このブログでは、「人とはちょっと違った視点」をモットーに、私の個人的な偏見を発信していきたいと思います。いろんな方に読んでいただき、「へ〜こんな考え方もあるのかぁ」と思っていただくことを目的にしています。私が男ですので、特に、女性の方に読んでいただければ幸いです。
そして、コメント機能で、いろんな方からご意見をいただき、私自身と、読んでいただいた方の両方の視野が今までよりも広がれば良いなと思っています。
本当は、もっと人間の内部、つまり「こころ」の部分に触れていきたいと思ってはいますが、なかなか難しいので、今のような形式でいかせていただこうと思います。
以上、大きく出ましたが、こういうものを目指して、書かせていただいています。
運営方針1.リンクに関して。
リンクしていただける価値があると判断していただけた場合、リンクしていただければ幸いです。
このDiaryNoteユーザーの方にリンクしていただいた場合は、お礼の意味も込めて、基本的に相互リンクにさせていただこうと考えていますが、必ずしも、こちらから定期的に訪問させていただく事をお約束するものではありません。
また、こちらからのリンクに関しては、私のお気に入りを見つけた際に、リンクさせていただこうと思います。相互リンクを求めるものではありません。
運営方針2.コメントに関して。
コメントは大歓迎です。書き込みをお願いします。肯定的なコメントも嬉しいのですが、視野を広げるという意味でも、否定的なコメントの方がありがたいと思っています。特に、否定的なコメントをお願いします。
また、コメントに対しては、コメント又は本文を利用して、できる限り返信をしようと思います。
運営方針3.秘密日記の利用に関して。
皆様の日記を読ませていただき、ここの特徴は「秘密日記」であることは、よくわかっています。しかし、「誰にでも読んでもらえるブログ」を目指していますので、1部の人しか読めない「秘密日記」は、私のポリシーに反します。したがって、秘密日記を利用するつもりはありません。
私とのコミュニケーションは、コメント機能と電子メールに限らせていただきます。
運営方針4.テーマに関して。
今後、日記のテーマは、
1.「男、女、友情、恋」 男と女、友情、恋愛についての私心を書いています
2.「社会」 社会で問題になっていることを中心に、個人の問題でないことを書いています
3.「学校」 学校での問題について書いています
4.「インターネット」 インターネットについての私心を書いています
5.「御一読ください」 運営方針や読んでおいていただきたいことを書いています
6.「その他」 これらに分類できないものです
の計5+1に分類します。
運営方針5.バトンに関して。
どこのブログでも、バトンが流行っているようですが、申し訳ありませんが回していただいたとしても、答えるつもりはありません。以前、お世話になっていたところでは、答えていましたが、どうも、ここに来るきっかけとなったは、バトンが原因だと感じますので。
以上を、当面の運営方針にさせていただこうと思っています。
このブログの目指すもの。
このブログでは、「人とはちょっと違った視点」をモットーに、私の個人的な偏見を発信していきたいと思います。いろんな方に読んでいただき、「へ〜こんな考え方もあるのかぁ」と思っていただくことを目的にしています。私が男ですので、特に、女性の方に読んでいただければ幸いです。
そして、コメント機能で、いろんな方からご意見をいただき、私自身と、読んでいただいた方の両方の視野が今までよりも広がれば良いなと思っています。
本当は、もっと人間の内部、つまり「こころ」の部分に触れていきたいと思ってはいますが、なかなか難しいので、今のような形式でいかせていただこうと思います。
以上、大きく出ましたが、こういうものを目指して、書かせていただいています。
運営方針1.リンクに関して。
リンクしていただける価値があると判断していただけた場合、リンクしていただければ幸いです。
このDiaryNoteユーザーの方にリンクしていただいた場合は、お礼の意味も込めて、基本的に相互リンクにさせていただこうと考えていますが、必ずしも、こちらから定期的に訪問させていただく事をお約束するものではありません。
また、こちらからのリンクに関しては、私のお気に入りを見つけた際に、リンクさせていただこうと思います。相互リンクを求めるものではありません。
運営方針2.コメントに関して。
コメントは大歓迎です。書き込みをお願いします。肯定的なコメントも嬉しいのですが、視野を広げるという意味でも、否定的なコメントの方がありがたいと思っています。特に、否定的なコメントをお願いします。
また、コメントに対しては、コメント又は本文を利用して、できる限り返信をしようと思います。
運営方針3.秘密日記の利用に関して。
皆様の日記を読ませていただき、ここの特徴は「秘密日記」であることは、よくわかっています。しかし、「誰にでも読んでもらえるブログ」を目指していますので、1部の人しか読めない「秘密日記」は、私のポリシーに反します。したがって、秘密日記を利用するつもりはありません。
私とのコミュニケーションは、コメント機能と電子メールに限らせていただきます。
運営方針4.テーマに関して。
今後、日記のテーマは、
1.「男、女、友情、恋」 男と女、友情、恋愛についての私心を書いています
2.「社会」 社会で問題になっていることを中心に、個人の問題でないことを書いています
3.「学校」 学校での問題について書いています
4.「インターネット」 インターネットについての私心を書いています
5.「御一読ください」 運営方針や読んでおいていただきたいことを書いています
6.「その他」 これらに分類できないものです
の計5+1に分類します。
運営方針5.バトンに関して。
どこのブログでも、バトンが流行っているようですが、申し訳ありませんが回していただいたとしても、答えるつもりはありません。以前、お世話になっていたところでは、答えていましたが、どうも、ここに来るきっかけとなったは、バトンが原因だと感じますので。
以上を、当面の運営方針にさせていただこうと思っています。
自分のブログと人のブログを読み比べて思うこと。(内容は考察しません)
まず、文章量多くない?ここ。
それと、空白行も多くない?改行自体も多いかな?
と言うことで、今回は、どのくらいの分量を、どのくらいスペースを空けて書けば良いかを考えてみましょう。
まず、文章量。どう考えても、長いです。しかも、4回シリーズとか長すぎでしょう…
パッと見てパッと読める分量は?
あまりにも短いと、おそらく言いたいことが伝わらないでしょうし、読んでいて物足りなさがあります。
DiaryNote(パソコン版)の場合は問題ありませんが、DiaryNote(携帯版)やその他の一部ブログサイトでは、1件の書き込みが、1ページになっています。
題名を見て、興味を持って、開いてみたら、1行でした。では、ちょっとイラッとします。
そして、40行を超えてくると、途中で読むのに疲れてしまいます。
個人差もあるでしょうが、私が読みやすいのは、15〜20行くらいでしょうか?長いときは30行程度。
次に改行ペース。どうも、私は1文書くごとに改行してしまいます。癖でしょう。
人によっては、本当に改行を使われていらっしゃらない方もいますが、やはり、ある程度の段落替えは必要でしょう。でも、ここの改行数は多いです。
最後に、空白行について。
普通の文章では、段落が変わる事によって文章に区切りがつくため、空白行の挿入数は少なくても良いのですが、ここのように段落分け以外に改行を利用してしまうと、空白行を利用して段落分けをする必要ができてしまいます。悪循環です。
空白行の挿入は、1箇所に対して、1〜2行でしょう。それ以上の空白行を挿入してしまうと、無駄にスペースを使ってしまいます。
しかし、ここで考えたいのは、ここは、あくまでパソコンの画面上に映し出されることによって、読まれるということです。
普通の紙に印刷された文章ではないのです。
パソコンの画面上、特にインターネット上では、ある程度の直感性が必要だと考えます。パッと見て、どんなことが書かれているのかがわからなくてはいけません。それも、スクロールをする必要なく。
インターネット上では、フラッと通り過ぎていく閲覧者が多いはずです。特に、このDiaryNoteのような大きなブログサイトでしたらなおさらです。リンクをたどって、たまたま通り過ぎていくのです。
そのような人が、ゴチャゴチャしたページをしっかりと読んでくれるでしょうか?
と言うことは、コンパクトに言いたいことをまとめ、その上で、もっと読みたい人の欲求にも答えられる内容でなければなりません。そして、何が書いてあるのかを一目でわかるようにしなければなりません。
今後は、このような方針で書いていければと思います。難しいでしょうが。
具体的な方法については、後日改めて考えてみましょう。
最後に、やっと、お気に入り登録の仕方がわかりました。
実はメチャクチャ簡単…
お礼の意味も込めて、現在リンクしてくださっている方は、順番にリンクさせていただこうと思っています。
まず、文章量多くない?ここ。
それと、空白行も多くない?改行自体も多いかな?
と言うことで、今回は、どのくらいの分量を、どのくらいスペースを空けて書けば良いかを考えてみましょう。
まず、文章量。どう考えても、長いです。しかも、4回シリーズとか長すぎでしょう…
パッと見てパッと読める分量は?
あまりにも短いと、おそらく言いたいことが伝わらないでしょうし、読んでいて物足りなさがあります。
DiaryNote(パソコン版)の場合は問題ありませんが、DiaryNote(携帯版)やその他の一部ブログサイトでは、1件の書き込みが、1ページになっています。
題名を見て、興味を持って、開いてみたら、1行でした。では、ちょっとイラッとします。
そして、40行を超えてくると、途中で読むのに疲れてしまいます。
個人差もあるでしょうが、私が読みやすいのは、15〜20行くらいでしょうか?長いときは30行程度。
次に改行ペース。どうも、私は1文書くごとに改行してしまいます。癖でしょう。
人によっては、本当に改行を使われていらっしゃらない方もいますが、やはり、ある程度の段落替えは必要でしょう。でも、ここの改行数は多いです。
最後に、空白行について。
普通の文章では、段落が変わる事によって文章に区切りがつくため、空白行の挿入数は少なくても良いのですが、ここのように段落分け以外に改行を利用してしまうと、空白行を利用して段落分けをする必要ができてしまいます。悪循環です。
空白行の挿入は、1箇所に対して、1〜2行でしょう。それ以上の空白行を挿入してしまうと、無駄にスペースを使ってしまいます。
しかし、ここで考えたいのは、ここは、あくまでパソコンの画面上に映し出されることによって、読まれるということです。
普通の紙に印刷された文章ではないのです。
パソコンの画面上、特にインターネット上では、ある程度の直感性が必要だと考えます。パッと見て、どんなことが書かれているのかがわからなくてはいけません。それも、スクロールをする必要なく。
インターネット上では、フラッと通り過ぎていく閲覧者が多いはずです。特に、このDiaryNoteのような大きなブログサイトでしたらなおさらです。リンクをたどって、たまたま通り過ぎていくのです。
そのような人が、ゴチャゴチャしたページをしっかりと読んでくれるでしょうか?
と言うことは、コンパクトに言いたいことをまとめ、その上で、もっと読みたい人の欲求にも答えられる内容でなければなりません。そして、何が書いてあるのかを一目でわかるようにしなければなりません。
今後は、このような方針で書いていければと思います。難しいでしょうが。
具体的な方法については、後日改めて考えてみましょう。
最後に、やっと、お気に入り登録の仕方がわかりました。
実はメチャクチャ簡単…
お礼の意味も込めて、現在リンクしてくださっている方は、順番にリンクさせていただこうと思っています。
君が代について考える(後編)
2006年5月24日 社会 コメント (2)続いて、「君が代」が国歌であることについてです。
国歌を歌うのが嫌なのか、「君が代」を歌うのが嫌なのかで、話はかなり違ってきます。
「君が代」の歌詞の意味ですが、簡単に言うと『「君が代」が未来永劫、長く長く繁栄しますように』という意味です。
そして、問題視されているのは、この「君が代」が何を指すかです。
Wikipediaによりますと、本来、この「君が代」はあなた(君)をさす言葉だったそうで、結婚式などで、「その夫婦が、末永く幸せに過ごせますように。」と願いを込めて歌っていたそうです。
しかし、明治時代、「君が代」を国家に指定する際、「君が代」の意味に、天皇を当てるという解釈が生まれたようです。
天皇賛美の考えに通じるために、否定するというのです。
私自身、日本の天皇制には疑問を感じます。今の日本に、天皇は必要ないと思います。天皇に、あれだけの税金を使うのも間違っていると思います。
しかし、日本国憲法には、「天皇を日本の象徴とする」と書かれています。そう書かれている以上、誰が何と言おうと、天皇は日本の象徴なのです。日本の象徴、つまり、日本という形ないものの、存在を明確にするための代替品。言い換えれば、日本そのものという解釈ができるわけです。象徴とはそういうものです。
つまり、「君が代」を「天皇」と解釈した場合、現行の制度では、「君が代」=「日本」なのです。
「日本が末永く、繁栄しますように」という意味になります。なんて素晴らしい国歌でしょう。否定する意味がどこにあるのかがわかりません。
単純に、天皇制否定派が苦し紛れに言った、くだらない戯言のように聞こえてきます。天皇制を否定する方々は、もっときちんとした理論武装をして欲しいものです。
そして、もう1つの否定意見。「君が代」が軍歌であったため、ふさわしくないと言う意見。
確かに、その通りです。こればっかりは、否定できません。しかし、「君が代」を歌うことが、その頃の軍国主義に戻る直接的な原因になるとは思えませんし、「君が代」は、軍歌として登場した歌でもないので、特に大きな問題はないと思います。
ダイナマイトだって、原子力だって、戦争に使われましたが、今は、なくてはならない存在として、立派に平和利用されています。「君が代」も、そういう存在になることができるはずです。
さて、以上を考えると、私は国歌「君が代」を歌わない理由はないのではないのかとは思います。
しかし、私以上にしっかりした意見を持った、「君が代」否定派の方もおられると思います。
その中で、大切なのは、まず、国歌を歌うことに、どのような意味があるのか、そして、「君が代」をどう思うのか。こういった部分を、しっかり考えた上で、歌うのか、歌わないのかを決めるべきなのです。
今の日本では、そういった部分を何も考えずに、「強制するのは良くない」だの、「国歌を歌うことが愛国心に直接つながらない」だのと、結果のみを議論しています。
確かに、その通りです。「強制することは良くない」ですし、「国歌を歌うことが愛国心に直接つながる」とも思えません。
しかし、その歌わなくても良い理由を教育せずに、小学生に、「国歌は、歌いたくなければ、歌わなくても良いよ」と指導するのは、単純に国歌を、もっと言えば、国を愚弄していることになります。小学生には、単純に、「国歌は歌っても、歌わなくても良い、どうでも良い存在なのだ」と聞こえるでしょう。
そんな表面上の教育しかしていないので、教育基本法に「愛国心」なんて、法律用語としては、くだらない言葉が登場するのです。しょうがないですよね。先生が、書かないとわからないのですから。
自分の考えも持たない教師が、世論を盾に、しょうもない指導をするから、教育基本法が、ありえない方向に流れていくのです。
私は、国に国民が守られていることは、事実だと思います。その国に、感謝する気持ちがあっても良いのではないかと思います。
最後に、城崎レイさん、ヴァルハートさんリンクありがとうございます。
国歌を歌うのが嫌なのか、「君が代」を歌うのが嫌なのかで、話はかなり違ってきます。
「君が代」の歌詞の意味ですが、簡単に言うと『「君が代」が未来永劫、長く長く繁栄しますように』という意味です。
そして、問題視されているのは、この「君が代」が何を指すかです。
Wikipediaによりますと、本来、この「君が代」はあなた(君)をさす言葉だったそうで、結婚式などで、「その夫婦が、末永く幸せに過ごせますように。」と願いを込めて歌っていたそうです。
しかし、明治時代、「君が代」を国家に指定する際、「君が代」の意味に、天皇を当てるという解釈が生まれたようです。
天皇賛美の考えに通じるために、否定するというのです。
私自身、日本の天皇制には疑問を感じます。今の日本に、天皇は必要ないと思います。天皇に、あれだけの税金を使うのも間違っていると思います。
しかし、日本国憲法には、「天皇を日本の象徴とする」と書かれています。そう書かれている以上、誰が何と言おうと、天皇は日本の象徴なのです。日本の象徴、つまり、日本という形ないものの、存在を明確にするための代替品。言い換えれば、日本そのものという解釈ができるわけです。象徴とはそういうものです。
つまり、「君が代」を「天皇」と解釈した場合、現行の制度では、「君が代」=「日本」なのです。
「日本が末永く、繁栄しますように」という意味になります。なんて素晴らしい国歌でしょう。否定する意味がどこにあるのかがわかりません。
単純に、天皇制否定派が苦し紛れに言った、くだらない戯言のように聞こえてきます。天皇制を否定する方々は、もっときちんとした理論武装をして欲しいものです。
そして、もう1つの否定意見。「君が代」が軍歌であったため、ふさわしくないと言う意見。
確かに、その通りです。こればっかりは、否定できません。しかし、「君が代」を歌うことが、その頃の軍国主義に戻る直接的な原因になるとは思えませんし、「君が代」は、軍歌として登場した歌でもないので、特に大きな問題はないと思います。
ダイナマイトだって、原子力だって、戦争に使われましたが、今は、なくてはならない存在として、立派に平和利用されています。「君が代」も、そういう存在になることができるはずです。
さて、以上を考えると、私は国歌「君が代」を歌わない理由はないのではないのかとは思います。
しかし、私以上にしっかりした意見を持った、「君が代」否定派の方もおられると思います。
その中で、大切なのは、まず、国歌を歌うことに、どのような意味があるのか、そして、「君が代」をどう思うのか。こういった部分を、しっかり考えた上で、歌うのか、歌わないのかを決めるべきなのです。
今の日本では、そういった部分を何も考えずに、「強制するのは良くない」だの、「国歌を歌うことが愛国心に直接つながらない」だのと、結果のみを議論しています。
確かに、その通りです。「強制することは良くない」ですし、「国歌を歌うことが愛国心に直接つながる」とも思えません。
しかし、その歌わなくても良い理由を教育せずに、小学生に、「国歌は、歌いたくなければ、歌わなくても良いよ」と指導するのは、単純に国歌を、もっと言えば、国を愚弄していることになります。小学生には、単純に、「国歌は歌っても、歌わなくても良い、どうでも良い存在なのだ」と聞こえるでしょう。
そんな表面上の教育しかしていないので、教育基本法に「愛国心」なんて、法律用語としては、くだらない言葉が登場するのです。しょうがないですよね。先生が、書かないとわからないのですから。
自分の考えも持たない教師が、世論を盾に、しょうもない指導をするから、教育基本法が、ありえない方向に流れていくのです。
私は、国に国民が守られていることは、事実だと思います。その国に、感謝する気持ちがあっても良いのではないかと思います。
最後に、城崎レイさん、ヴァルハートさんリンクありがとうございます。
君が代について考える(前編)
2006年5月23日 社会 コメント (1)私の世代は、日の丸、君が代が学校で問題になり始めた頃でした。
しかし、その頃から、理解できないのが、なぜ、君が代を歌うことが問題になるのか?と言う事です。
現実問題、現在の小中学校では、半分くらいの子ども達が、歌わないそうです。
おそらく、歌う人間も、歌わない人間も、自分がなぜ歌わないのか?なぜ歌うのか?を明確に説明できる人はいないと思います。
これは、大人も子どもも合わせてそうだと思います。
特に、たかが小学生が、自分がなぜ君が代を歌わないのか、理由を言えるわけがありません。
では、逆に、なぜ、国歌を歌う風習があるのでしょう?
その本当の意味は私にもわかりません。
しかし、私なりの解釈はあります。
まず、国歌とは、その国の歌です。つまり、その国を象徴するものです。
例えば、市町村や都道府県の木や花ってありますよね?これだってその市町村や都道府県を象徴するものです。
もっと言えば、例えば、観光地を象徴するものってありますよね。例えば、東京タワーはその1つと言えるでしょう。
つまり、国や、市町村、観光地など、形がないものを表現するために、その表現方法として、象徴的なものを準備し、それを代替品とするのです。
その代替品を大切にすることによって、形のない、具体的に大切にできないものを間接的に大切にするということになります。
と言うことは、皆で国家を歌うと言うことは、その国を大切に思うということであると共に、自分がその国の一員であるということの表れなのです。
4月27日の「人はなぜ生きていけるのか?」に書きましたが、私たち人間が生きていけるのは、国に守られているからです。
その守ってもらっている存在に対し、感謝し、大切に思う気持ちは、なくてはならない感情ではないでしょうか?
私は、国家を皆で歌うということには、このような意味があると思います。
ですから、私は、皆で国家を歌う機会があれば、歌います。それが、守ってもらっている存在に対しての礼儀だと思うからです。
しかし、その頃から、理解できないのが、なぜ、君が代を歌うことが問題になるのか?と言う事です。
現実問題、現在の小中学校では、半分くらいの子ども達が、歌わないそうです。
おそらく、歌う人間も、歌わない人間も、自分がなぜ歌わないのか?なぜ歌うのか?を明確に説明できる人はいないと思います。
これは、大人も子どもも合わせてそうだと思います。
特に、たかが小学生が、自分がなぜ君が代を歌わないのか、理由を言えるわけがありません。
では、逆に、なぜ、国歌を歌う風習があるのでしょう?
その本当の意味は私にもわかりません。
しかし、私なりの解釈はあります。
まず、国歌とは、その国の歌です。つまり、その国を象徴するものです。
例えば、市町村や都道府県の木や花ってありますよね?これだってその市町村や都道府県を象徴するものです。
もっと言えば、例えば、観光地を象徴するものってありますよね。例えば、東京タワーはその1つと言えるでしょう。
つまり、国や、市町村、観光地など、形がないものを表現するために、その表現方法として、象徴的なものを準備し、それを代替品とするのです。
その代替品を大切にすることによって、形のない、具体的に大切にできないものを間接的に大切にするということになります。
と言うことは、皆で国家を歌うと言うことは、その国を大切に思うということであると共に、自分がその国の一員であるということの表れなのです。
4月27日の「人はなぜ生きていけるのか?」に書きましたが、私たち人間が生きていけるのは、国に守られているからです。
その守ってもらっている存在に対し、感謝し、大切に思う気持ちは、なくてはならない感情ではないでしょうか?
私は、国家を皆で歌うということには、このような意味があると思います。
ですから、私は、皆で国家を歌う機会があれば、歌います。それが、守ってもらっている存在に対しての礼儀だと思うからです。
【自画自賛】
1 自分の描いた画に、自分で賛を書くこと。自画賛。
2 自分のした行為を自分で褒めること。自賛。手前味噌。
【手前味×噌】
《自家製の味噌を独特の味があると自慢する意から》自分で自分のことをほめること。自慢。「―を並べる」
【自慢】
自分で、自分に関係の深い物事を褒めて、他人に誇ること。「―ののど」「成績を―する」
【賛・×讚】
1 ほめたたえること。また、その言葉。「バッハ―」
2 漢文の文体の一。人物や事物をほめる際の文章。多く、四字一句で韻を踏む。
3 画面の中に書きそえた、その絵に関する詩句。画賛。
4 仏・菩薩(ぼさつ)の徳をたたえる言葉。
5 論評。批評。
【誇る】
1 すぐれていると思って得意になる。また、その気持ちを言葉や態度で人に示す。自慢する。「技(わざ)を―・る」
2 誇示すべき状態にある。また、そのことを名誉に思う。「輝かしい実績を―・る」「長い歴史と文化を―・る都市」
以上、Yahoo!辞書より引用。
自画自賛と自慢の違いは何でしょう?という課題をいただいてしまいました。
Yahoo!辞書を信じるならば、「自画自賛=手前味噌=自慢」という式が成り立ってしまいます。と言うことは、数学的に考えると、「自画自賛=自慢」になってしまいます。が、これでは、課題をクリアできないので、違った視点から考えてみたいと思います。
まず、「賛」には、「論評、批評」という意味があることに注目です。つまり、自画自賛には、自分を評価すると言う意味が加えられるのではないでしょうか?
自画自賛は、自分で自分のことを褒めるわけですが、その過程に、自分に対しての評価が行われているのです。
次に、「自慢」ですが、自慢とは、自分のことを誇っています。つまり天狗になっているのです。そして、自分で自分のことを評価していません。
例えば、成績は、自画自賛するのではなく、自慢するものです。これは、成績は、すでに他者によって評価されているものだからです。改めて自分が評価する必要もなければ、するものでもありません。
つまり、自画自賛とは、自分で自分を認めてあげることを言い、自慢とは、自分を第三者に誇ることを言います。自画自賛に第三者は必要ありません。
というのが、私の結論になりました。
サークル活動について考える(4)
2006年5月21日 学校 コメント (1)すいません、まだ続きます。
さて、先日まで今のサークル活動の現状についてコメントしてきましたが、これを打破する方法はあるのでしょうか?
私は、まだ間に合うと思います。しかし、その道は、険しいものです。
まず、大学です。まず、大学がサークルを認め、評価することです。
大学にとっても、サークル活動が盛んであることは、メリットになるはずです。
学生の意見に耳を傾け、尊重する。いけないことはいけないですし、認められないことは認められないでしょうが、その時、きちんとした説明を行い、お互いに納得する。
そして、サークルを行っている人は、行っていない人よりも、頑張っている人が多いです。その頑張りを認め、評価する。
講義の最中に、褒めてあげるのも1つでしょうし、卒業式で表彰するのも、その1つでしょう。サークル活動で講義に参加できないこともあるでしょう。しかし、そういった人も温かい目で見守ってください。決して、特別扱いをしろと言っているわけではありません。しかし、その事情を考慮してあげることは必要です。
今の若者は、肯定されると喜ぶのです。間違っても、サークル活動を否定するような言動をしてはいけないのです。否定にすぐに屈してしまうのです。
次に、OB、OGの方。温かい目で見守ってください。決して、自分達の頃を押し付けてはいけません。今は今なのです。
その中で、人間として、日本人としての、温かい、思いやりのある指導をしてください。手紙の書き方、挨拶の仕方、その他、社会に出て必要なことは、学生のうちに学んでおいたほうが社会に出てからが楽なのではないかと思います。そういったことを、しっかり、指導してください。しかし、やさしく、思いやりをもって指導してください。
決して、頭ごなしに否定をしてはいけないのです。そして、本来の活動が疎かにならないように、指導してください。時と場合によっては、目をつぶることも思いやりです。
そして、今、やる気がないのにサークルに所属している人。悪いことは言いません。辞めてください。迷惑です。あなた方が、はびこっているせいで、サークルが腐るのです。
別に、誰もあなたを必要としていません。必要としているのは、やる気がある、しっかりと活動をする人です。
あなたが辞めることによって、潰れるサークルなんて、サークル自体が、誰にも必要とされていません。
もし、そのサークルが潰れることによって、困る人がいるのなら、その困る人を中心にして、潰れたサークルの代替品がすぐに出来上がります。それが自然の摂理です。問題ありません。あなたが、中途半端にサークルを続けるほうが、逆に迷惑です。辞めてください。遠慮なく、つぶしてください。何も、あなたが人のために、やる気もないのに頑張る必要はありませんから。
次に、やる気をもって、サークル活動をされている方。このまま、やる気の無い人に負けることなく、今まで通り頑張ってください。
1人で、周りの人間に変化をもたらすことは、今の時代、不可能に近いです。今のサークルを辞めて、他のサークルを探したり、自分で、新しいサークルを作ることも視野に入れてみてください。きっと、何かが見えてくると思います。
そして、新入生の皆さん。しっかりとサークルを吟味してください。
本来、サークル活動をすることは、メリットだらけのはずです。しかし、このメリットが失われていることは、否定できません。しかし、その中で、しっかりした活動をしているサークルもまだ存在します。興味もある人もない人も、一度、しっかり吟味してみてください。きっと、何かが見えてくると思います。
さて、先日まで今のサークル活動の現状についてコメントしてきましたが、これを打破する方法はあるのでしょうか?
私は、まだ間に合うと思います。しかし、その道は、険しいものです。
まず、大学です。まず、大学がサークルを認め、評価することです。
大学にとっても、サークル活動が盛んであることは、メリットになるはずです。
学生の意見に耳を傾け、尊重する。いけないことはいけないですし、認められないことは認められないでしょうが、その時、きちんとした説明を行い、お互いに納得する。
そして、サークルを行っている人は、行っていない人よりも、頑張っている人が多いです。その頑張りを認め、評価する。
講義の最中に、褒めてあげるのも1つでしょうし、卒業式で表彰するのも、その1つでしょう。サークル活動で講義に参加できないこともあるでしょう。しかし、そういった人も温かい目で見守ってください。決して、特別扱いをしろと言っているわけではありません。しかし、その事情を考慮してあげることは必要です。
今の若者は、肯定されると喜ぶのです。間違っても、サークル活動を否定するような言動をしてはいけないのです。否定にすぐに屈してしまうのです。
次に、OB、OGの方。温かい目で見守ってください。決して、自分達の頃を押し付けてはいけません。今は今なのです。
その中で、人間として、日本人としての、温かい、思いやりのある指導をしてください。手紙の書き方、挨拶の仕方、その他、社会に出て必要なことは、学生のうちに学んでおいたほうが社会に出てからが楽なのではないかと思います。そういったことを、しっかり、指導してください。しかし、やさしく、思いやりをもって指導してください。
決して、頭ごなしに否定をしてはいけないのです。そして、本来の活動が疎かにならないように、指導してください。時と場合によっては、目をつぶることも思いやりです。
そして、今、やる気がないのにサークルに所属している人。悪いことは言いません。辞めてください。迷惑です。あなた方が、はびこっているせいで、サークルが腐るのです。
別に、誰もあなたを必要としていません。必要としているのは、やる気がある、しっかりと活動をする人です。
あなたが辞めることによって、潰れるサークルなんて、サークル自体が、誰にも必要とされていません。
もし、そのサークルが潰れることによって、困る人がいるのなら、その困る人を中心にして、潰れたサークルの代替品がすぐに出来上がります。それが自然の摂理です。問題ありません。あなたが、中途半端にサークルを続けるほうが、逆に迷惑です。辞めてください。遠慮なく、つぶしてください。何も、あなたが人のために、やる気もないのに頑張る必要はありませんから。
次に、やる気をもって、サークル活動をされている方。このまま、やる気の無い人に負けることなく、今まで通り頑張ってください。
1人で、周りの人間に変化をもたらすことは、今の時代、不可能に近いです。今のサークルを辞めて、他のサークルを探したり、自分で、新しいサークルを作ることも視野に入れてみてください。きっと、何かが見えてくると思います。
そして、新入生の皆さん。しっかりとサークルを吟味してください。
本来、サークル活動をすることは、メリットだらけのはずです。しかし、このメリットが失われていることは、否定できません。しかし、その中で、しっかりした活動をしているサークルもまだ存在します。興味もある人もない人も、一度、しっかり吟味してみてください。きっと、何かが見えてくると思います。
サークル活動について考える(3)
2006年5月20日 学校 コメント (2)さて、やる気がない人ですが、実は、外因的な要因もあります。
まず、以前、サラリーマンNEOで、「今時の若者には、すべて肯定で対処するのが効果的なんですね。」と言っていたという話題を書いたと思います。
実は、今の学生も「今時の若者」なのです。
今時の若者は、自分を否定されることを嫌がります。そして、肯定されれば嬉しく思います。
しかし、私は、別に、これは今時の若者に限ったものではないとは思います。
誰だって、自分を肯定されれば嬉しいでしょうし、否定されれば、ムッとするでしょうし、ショックも受けると思います。
最近の若者は、それが如実に現れているだけです。その1つの原因は、我慢を知らないからだとは思います。しかし、これは現実です。
そして、これは、先日書いた青少年健全育成の問題にもつながります。
さて、その中で、サークルで活動をしていると、意外と理由を告げられず、全否定をされることが多いのです。それも、内部からの否定ではなく、外部からの否定が多いのです。
内部からの否定ですと、簡単に理由を尋ねることもできますし、そうでなくても、一緒に活動をしている人の意見ですので、受け入れることができるとと思います。
しかし、外部からの否定ですと、理由も尋ねにくいですし、意見を受け入れることにも抵抗があります。
ところで、この外部からの否定はどこから来るのか?
大学からくることもあります。しかし、それ以上に、そのサークルのOB、OGからの否定が多いのです。
もう卒業してしまった、文字通り古い人間が、好き放題に今のサークル活動に文句を言ってきます。
もちろん、気持ちはわかります。
私自身、高校に遊びに行ったときは、色々言いたくなりますし、実際に言ってしまいます。
しかし、そのとき、必ず気をつけることは、絶対に彼らに強制しないことです。あくまで、私個人の考えであって、参考くらいにはして欲しいけど、決めるのは君達だからということを、前面に押し出すようにしています。
以前書いたように、現実問題、文句を言うOB、OGの方が活動をしていた当時のような活動はできません。
それは、もちろん、人数の問題もありますが、それ以上に、時代が変わってしまっているのです。
具体的に言えば、法律も変わっていますし、世間の目も変わっています。
その中で、はっきり言って、私は、その当時の活動を維持する意味もなければ、維持する必要もないと思います。
そして、こういった背景の中で、実際、やり方を変えようとする人もいるでしょう。しかし、そういった人は、内部の人間だけではなく、外のOBやOBからも妨害されます。
逆に、先日書いたように、体裁を保つために、活動をしている人も、そのままの体制を保てるわけがないので、やはり、OB、OGから叩かれます。
そして、面白いことに、このOB、OGの文句にきちんとした説明責任を果たせている人は、ほとんどいません。
私個人の考えとしては、いつまで経っても、大学のサークルに干渉してくるような人は、はっきり言って、成長できていない証拠です。
そんな人が、自分の頃とは時代が変わってしまっていることや、説明を上手くできる能力があるはずがありません。なんたって、なぜそうなのかを知らず、単純に、自分がやっていたから、やるべきだとしか思っていないからです。そのすべきことにどんな理由があるかなんてことは、考えたことがないのです。
逆に言うと、成長できていないから、大学のサークルなんてものに、いつまで経っても干渉するのです。はっきり言って、ガキなんです。
そうは言っても、本当に、そのサークルのことを思って、言ってくださっている方もおられるとは思います。
しかし、そういった方は、おそらく、きちんと成長できている方だと思うので、きちんと説明できる能力もあるでしょうし、説明できていると思います。
本当に、自分の所属していたサークルが好きな方は、その事情もよくわかっていると思います。その中で、頑張ればできることは求めてくると思います。それに、もし、無茶を言われても、それが、できないことを、今の学生が、きちんと説明できれば、わかってくださるはずです。
もちろん、学生のほうにも、説明責任があるのです。
しかし、成長しきれていない、駄目OBが、無茶なことを言っていることも事実です。
こういった、駄目OBに対しては、良識をわきまえたOBが、きちんと対応していただきたいものです。
そして、そういったしょうもないOBに対しても、自分の意見や考えを貫ける、確固たる意思が、今の学生にも必要なのです。
続く
最後に、暇つぶしの達人さん。リンクありがとうございます。
まず、以前、サラリーマンNEOで、「今時の若者には、すべて肯定で対処するのが効果的なんですね。」と言っていたという話題を書いたと思います。
実は、今の学生も「今時の若者」なのです。
今時の若者は、自分を否定されることを嫌がります。そして、肯定されれば嬉しく思います。
しかし、私は、別に、これは今時の若者に限ったものではないとは思います。
誰だって、自分を肯定されれば嬉しいでしょうし、否定されれば、ムッとするでしょうし、ショックも受けると思います。
最近の若者は、それが如実に現れているだけです。その1つの原因は、我慢を知らないからだとは思います。しかし、これは現実です。
そして、これは、先日書いた青少年健全育成の問題にもつながります。
さて、その中で、サークルで活動をしていると、意外と理由を告げられず、全否定をされることが多いのです。それも、内部からの否定ではなく、外部からの否定が多いのです。
内部からの否定ですと、簡単に理由を尋ねることもできますし、そうでなくても、一緒に活動をしている人の意見ですので、受け入れることができるとと思います。
しかし、外部からの否定ですと、理由も尋ねにくいですし、意見を受け入れることにも抵抗があります。
ところで、この外部からの否定はどこから来るのか?
大学からくることもあります。しかし、それ以上に、そのサークルのOB、OGからの否定が多いのです。
もう卒業してしまった、文字通り古い人間が、好き放題に今のサークル活動に文句を言ってきます。
もちろん、気持ちはわかります。
私自身、高校に遊びに行ったときは、色々言いたくなりますし、実際に言ってしまいます。
しかし、そのとき、必ず気をつけることは、絶対に彼らに強制しないことです。あくまで、私個人の考えであって、参考くらいにはして欲しいけど、決めるのは君達だからということを、前面に押し出すようにしています。
以前書いたように、現実問題、文句を言うOB、OGの方が活動をしていた当時のような活動はできません。
それは、もちろん、人数の問題もありますが、それ以上に、時代が変わってしまっているのです。
具体的に言えば、法律も変わっていますし、世間の目も変わっています。
その中で、はっきり言って、私は、その当時の活動を維持する意味もなければ、維持する必要もないと思います。
そして、こういった背景の中で、実際、やり方を変えようとする人もいるでしょう。しかし、そういった人は、内部の人間だけではなく、外のOBやOBからも妨害されます。
逆に、先日書いたように、体裁を保つために、活動をしている人も、そのままの体制を保てるわけがないので、やはり、OB、OGから叩かれます。
そして、面白いことに、このOB、OGの文句にきちんとした説明責任を果たせている人は、ほとんどいません。
私個人の考えとしては、いつまで経っても、大学のサークルに干渉してくるような人は、はっきり言って、成長できていない証拠です。
そんな人が、自分の頃とは時代が変わってしまっていることや、説明を上手くできる能力があるはずがありません。なんたって、なぜそうなのかを知らず、単純に、自分がやっていたから、やるべきだとしか思っていないからです。そのすべきことにどんな理由があるかなんてことは、考えたことがないのです。
逆に言うと、成長できていないから、大学のサークルなんてものに、いつまで経っても干渉するのです。はっきり言って、ガキなんです。
そうは言っても、本当に、そのサークルのことを思って、言ってくださっている方もおられるとは思います。
しかし、そういった方は、おそらく、きちんと成長できている方だと思うので、きちんと説明できる能力もあるでしょうし、説明できていると思います。
本当に、自分の所属していたサークルが好きな方は、その事情もよくわかっていると思います。その中で、頑張ればできることは求めてくると思います。それに、もし、無茶を言われても、それが、できないことを、今の学生が、きちんと説明できれば、わかってくださるはずです。
もちろん、学生のほうにも、説明責任があるのです。
しかし、成長しきれていない、駄目OBが、無茶なことを言っていることも事実です。
こういった、駄目OBに対しては、良識をわきまえたOBが、きちんと対応していただきたいものです。
そして、そういったしょうもないOBに対しても、自分の意見や考えを貫ける、確固たる意思が、今の学生にも必要なのです。
続く
最後に、暇つぶしの達人さん。リンクありがとうございます。
サークル活動について考える(2)
2006年5月19日 学校さて、引き続きサークル活動の危機(先輩方の不甲斐なさ)について考えていきたいと思います。
私の感覚では、まず、本当に頑張ってサークル活動を行っている人は、ほとんどいないように感じます。
それは、地域や大学によって多少は差があるでしょうが、私の目に付くところではほとんどいません。
そして、面白いのは、そういったやる気のない人が、本当に一生懸命やりたいと思っている人たちを駆逐しているということです。
理由は簡単です。世の中ほとんどのことが多数決で決まります。一生懸命やろうとしている人よりも、やる気のない人の方が、多いからです。
悲しい現実です。しかし、現実です。
もし、一生懸命やりたい人の方が多い場合は、サークルの流れは、一生懸命やりたい人間の方に傾きます。
しかし、やる気のない人間が多いと、必要最低限のことしかやらない方に傾くでしょう。
そうすると、一生懸命やりたい人は、絶対に満足できるものにはなりません。物足りないものになるでしょう。全く楽しくないと思います。
そうなると、おそらく、その人は「もっと頑張ろうよ」と皆をけしかけるでしょう。
しかし、そんな人の言うことに耳を傾ける人はいないでしょう。
なんたって、皆やる気ないんですから。
おそらく、駆逐されます。残念なことに。
私は、そうやって駆逐された人を何人も見てきました。本当は、私がそこで協力してあげられれば良かったのですが、その頃はまだ若かったので、駆逐されてしまうとは夢にも思いませんでした。今では、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
さて、話を戻します。
そうして、駆逐された人がどうなっていくか?
ある人間は、サークルを去っていきました。そして、ある人間は、その中で腐っていきました。
自分の信念を持って、頑張り続けられる人間は、そうはいません。
そして、そんなやる気のない、活気のないサークルを見て、新入生はどう思うでしょう?
一緒にサークル活動をしたいと思うでしょうか?
もし、上手く騙し、入部させたところで、上述したような結果になり、去っていくでしょう。
それが現実です。
もう、どうすることもできない段階にきているサークルも少なくないはずです。
では、なぜ、やる気のない人間がサークルにはびこるのか?
まず、単純に、やる気のない人間の数が多すぎて、それが自然体になってしまっているのです。
自然体とは厄介です。その状態が自然な状態なので、簡単には変わりません。
しかし、なぜ、ここまでやる気のない人間がサークル内に増えてしまったのか?
この理由は、過去にさかのぼります。
それは、ちょうど、私達が入部した頃の話。
サークル人口が減り始め、サークル活動を維持するために、誰でも良いから入部させました。もちろんやる気のない人も。
そして、そのやる気のない人が、サークルを辞めてしまわないように、その人たちに合わせたサークル活動を展開したのです。
そうすることで、体裁を保ったのです。
その当時は、それで問題がなかったわけです。しかし、時が経つにつれ、その問題は、如実に表れ始めました。
それは、そのやる気のない人が、先輩になってしまったのです。
当然、真剣に活動をしていないので、サークルの運営方法がわからない。わからないからといって、自分なりに我武者羅になって運営しようともしない。
まぁ、当然の結果ですね。やる気がないんですから。
そして、サークル自体が腐っていく。その腐ったサークルが、また、体裁を保つために人を集める。最悪の中の最悪の悪循環です。
そして、体裁を気にするサークル運営を行っているため、様々な問題が生じます。
まず、つぶすわけには行かない。
次に、自分がつぶすわけにはいかない。
そして、対外的には、きちんとやっているフリをしなければならない。
私から言わせて貰えば、最低ですね。こんなサークル。相手にする気にもなりません。
別に、つぶしたって良いのです。中にいる人は、やる気がない。新入生も興味を持たない。存続する価値がありますか?
それに、本人は体裁を守るために必死になっているのでしょうが、外から見れば、一発でわかります。そんな活動。
新入生も馬鹿ではありません。そんなサークルに興味を持つはずがありません。
こういった傾向は、おそらく伝統のあるサークルの方が如実に現れていると思います。
歴史のないサークルは、体裁を保つ必要がないので、できる範囲の勧誘をし、できる活動をしているはずだからです。
さて、これを解決する手立てはあるのでしょうか?
続く
私の感覚では、まず、本当に頑張ってサークル活動を行っている人は、ほとんどいないように感じます。
それは、地域や大学によって多少は差があるでしょうが、私の目に付くところではほとんどいません。
そして、面白いのは、そういったやる気のない人が、本当に一生懸命やりたいと思っている人たちを駆逐しているということです。
理由は簡単です。世の中ほとんどのことが多数決で決まります。一生懸命やろうとしている人よりも、やる気のない人の方が、多いからです。
悲しい現実です。しかし、現実です。
もし、一生懸命やりたい人の方が多い場合は、サークルの流れは、一生懸命やりたい人間の方に傾きます。
しかし、やる気のない人間が多いと、必要最低限のことしかやらない方に傾くでしょう。
そうすると、一生懸命やりたい人は、絶対に満足できるものにはなりません。物足りないものになるでしょう。全く楽しくないと思います。
そうなると、おそらく、その人は「もっと頑張ろうよ」と皆をけしかけるでしょう。
しかし、そんな人の言うことに耳を傾ける人はいないでしょう。
なんたって、皆やる気ないんですから。
おそらく、駆逐されます。残念なことに。
私は、そうやって駆逐された人を何人も見てきました。本当は、私がそこで協力してあげられれば良かったのですが、その頃はまだ若かったので、駆逐されてしまうとは夢にも思いませんでした。今では、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
さて、話を戻します。
そうして、駆逐された人がどうなっていくか?
ある人間は、サークルを去っていきました。そして、ある人間は、その中で腐っていきました。
自分の信念を持って、頑張り続けられる人間は、そうはいません。
そして、そんなやる気のない、活気のないサークルを見て、新入生はどう思うでしょう?
一緒にサークル活動をしたいと思うでしょうか?
もし、上手く騙し、入部させたところで、上述したような結果になり、去っていくでしょう。
それが現実です。
もう、どうすることもできない段階にきているサークルも少なくないはずです。
では、なぜ、やる気のない人間がサークルにはびこるのか?
まず、単純に、やる気のない人間の数が多すぎて、それが自然体になってしまっているのです。
自然体とは厄介です。その状態が自然な状態なので、簡単には変わりません。
しかし、なぜ、ここまでやる気のない人間がサークル内に増えてしまったのか?
この理由は、過去にさかのぼります。
それは、ちょうど、私達が入部した頃の話。
サークル人口が減り始め、サークル活動を維持するために、誰でも良いから入部させました。もちろんやる気のない人も。
そして、そのやる気のない人が、サークルを辞めてしまわないように、その人たちに合わせたサークル活動を展開したのです。
そうすることで、体裁を保ったのです。
その当時は、それで問題がなかったわけです。しかし、時が経つにつれ、その問題は、如実に表れ始めました。
それは、そのやる気のない人が、先輩になってしまったのです。
当然、真剣に活動をしていないので、サークルの運営方法がわからない。わからないからといって、自分なりに我武者羅になって運営しようともしない。
まぁ、当然の結果ですね。やる気がないんですから。
そして、サークル自体が腐っていく。その腐ったサークルが、また、体裁を保つために人を集める。最悪の中の最悪の悪循環です。
そして、体裁を気にするサークル運営を行っているため、様々な問題が生じます。
まず、つぶすわけには行かない。
次に、自分がつぶすわけにはいかない。
そして、対外的には、きちんとやっているフリをしなければならない。
私から言わせて貰えば、最低ですね。こんなサークル。相手にする気にもなりません。
別に、つぶしたって良いのです。中にいる人は、やる気がない。新入生も興味を持たない。存続する価値がありますか?
それに、本人は体裁を守るために必死になっているのでしょうが、外から見れば、一発でわかります。そんな活動。
新入生も馬鹿ではありません。そんなサークルに興味を持つはずがありません。
こういった傾向は、おそらく伝統のあるサークルの方が如実に現れていると思います。
歴史のないサークルは、体裁を保つ必要がないので、できる範囲の勧誘をし、できる活動をしているはずだからです。
さて、これを解決する手立てはあるのでしょうか?
続く
サークル活動について考える
2006年5月18日 学校学生なので、たまには学生らしい話を。
私自身もサークルに所属しているのでよくわかるのですが、近年の学生のサークル離れは、深刻になっています。
年々、サークル人口は減少し、もはや昔ながらのサークル活動は困難になっています。
特に、伝統のあるサークルでは、それは、かなり深刻な問題です。
まず、なぜ、サークル離れが深刻であるかを考えたいと思います。
最近の学生は、まず、群れるのを嫌います。
以前は、寮や下宿などが主流だったのが、今は、アパートを借りて1人暮らしが主流です。それも、風呂トイレ共同なんてものも、ほぼ絶滅しました。
5〜8年くらい前は、それでも、風呂トイレ共同の部屋は、まだ、そこまで珍しい話ではありませんでした。
そして、我慢することを嫌います。
自分さえ良ければ良い、自分中心なのです。
そして、不景気のためか、バイトし、サークルに参加する暇がないという学生が多いのも現状です。
などなど、様々な要因が上げられます。
しかし、これらは、一般論であり、そして、サークル人口減少の入り口でしかありません。
私が、サークルを始めたのは、こういったサークル人口が減少し始めた頃です。その中で思うこと。それは、中にいるからこそ思うことであり、そして、ちょっと違った切り口で話を進めてみたいと思います。
まず、サークルなんてものは、大学において、必要なものではありません。
もちろん、学生生活を有意義にするためには、必要でしょう。
しかし、大学は学校であり、勉強するところです。講義に出席し、単位を取得し、卒業し学位を取得する場です。
その中で、もちろん人間関係も磨けるでしょう。
講義の中で不十分な部分はバイトで学ぶこともできるでしょう。バイトなら、労働の対価として、お金を得ることもできます。
サークルは、対価ももらえませんし、単位も取得できません。
完全な学生生活におけるオプションでしかありません。
今の時代、サークルでなければ学べないことは全くないでしょう。
その中で、サークルで活動するメリットは?
この問いに答えられる人はそう多くないと思います。
「そんなことない、私は答えられる」と言う人もいると思いますが、それは、本当に、サークルでなければ無理なことなんでしょうか?
もう一度考えてみてください。多分、私は、その言葉を否定できると思います。
さて、話を戻します。
では、サークルのメリットは?
はっきり言って、現在、一般的なサークルにメリットは無いと思います。
本来のサークル活動は、まず、人間関係を学べる場です。
先輩方から、しっかりした厳しい道徳を学び、そして、それを後輩に伝える。
そして、もう1つは、趣味に関してスキルアップを図ること。
例えば、写真部ならカメラについて、現像について、アングル、カット、その他専門的なことを学べるでしょう。
これらは、金銭が絡まないサークルという場だからこそ、金銭の絡むバイトとは違った形で、学ぶことができるでしょう。本来は、それがメリットだったはずです。
しかし、これら2点は、残念なことに、先輩方の貧弱化に伴い、後輩達に伝えることが困難になっているのが現状です。
先輩に威厳がなくなってきています。
理由は簡単です。
なず、天性のカリスマ性を持った人が減少している。
そして、サークル活動に、真剣に取り組んでいる人がほとんどいません。
前者は、それなりにしょうがない部分があるとしても、後者は、いただけません。
特に、スキルアップに関しては、真剣に取り組めば、スキルなんてものは、ある程度なら後からついてきます。
近年のサークル人口の減少は、こう言った、先輩方の不甲斐なさが拍車をかけているのは間違いありません。
続く
私自身もサークルに所属しているのでよくわかるのですが、近年の学生のサークル離れは、深刻になっています。
年々、サークル人口は減少し、もはや昔ながらのサークル活動は困難になっています。
特に、伝統のあるサークルでは、それは、かなり深刻な問題です。
まず、なぜ、サークル離れが深刻であるかを考えたいと思います。
最近の学生は、まず、群れるのを嫌います。
以前は、寮や下宿などが主流だったのが、今は、アパートを借りて1人暮らしが主流です。それも、風呂トイレ共同なんてものも、ほぼ絶滅しました。
5〜8年くらい前は、それでも、風呂トイレ共同の部屋は、まだ、そこまで珍しい話ではありませんでした。
そして、我慢することを嫌います。
自分さえ良ければ良い、自分中心なのです。
そして、不景気のためか、バイトし、サークルに参加する暇がないという学生が多いのも現状です。
などなど、様々な要因が上げられます。
しかし、これらは、一般論であり、そして、サークル人口減少の入り口でしかありません。
私が、サークルを始めたのは、こういったサークル人口が減少し始めた頃です。その中で思うこと。それは、中にいるからこそ思うことであり、そして、ちょっと違った切り口で話を進めてみたいと思います。
まず、サークルなんてものは、大学において、必要なものではありません。
もちろん、学生生活を有意義にするためには、必要でしょう。
しかし、大学は学校であり、勉強するところです。講義に出席し、単位を取得し、卒業し学位を取得する場です。
その中で、もちろん人間関係も磨けるでしょう。
講義の中で不十分な部分はバイトで学ぶこともできるでしょう。バイトなら、労働の対価として、お金を得ることもできます。
サークルは、対価ももらえませんし、単位も取得できません。
完全な学生生活におけるオプションでしかありません。
今の時代、サークルでなければ学べないことは全くないでしょう。
その中で、サークルで活動するメリットは?
この問いに答えられる人はそう多くないと思います。
「そんなことない、私は答えられる」と言う人もいると思いますが、それは、本当に、サークルでなければ無理なことなんでしょうか?
もう一度考えてみてください。多分、私は、その言葉を否定できると思います。
さて、話を戻します。
では、サークルのメリットは?
はっきり言って、現在、一般的なサークルにメリットは無いと思います。
本来のサークル活動は、まず、人間関係を学べる場です。
先輩方から、しっかりした厳しい道徳を学び、そして、それを後輩に伝える。
そして、もう1つは、趣味に関してスキルアップを図ること。
例えば、写真部ならカメラについて、現像について、アングル、カット、その他専門的なことを学べるでしょう。
これらは、金銭が絡まないサークルという場だからこそ、金銭の絡むバイトとは違った形で、学ぶことができるでしょう。本来は、それがメリットだったはずです。
しかし、これら2点は、残念なことに、先輩方の貧弱化に伴い、後輩達に伝えることが困難になっているのが現状です。
先輩に威厳がなくなってきています。
理由は簡単です。
なず、天性のカリスマ性を持った人が減少している。
そして、サークル活動に、真剣に取り組んでいる人がほとんどいません。
前者は、それなりにしょうがない部分があるとしても、後者は、いただけません。
特に、スキルアップに関しては、真剣に取り組めば、スキルなんてものは、ある程度なら後からついてきます。
近年のサークル人口の減少は、こう言った、先輩方の不甲斐なさが拍車をかけているのは間違いありません。
続く
価値を置くもの(2)
2006年5月16日 人間 コメント (3)昔、私の尊敬する方がおっしゃられていたこと。
今の時代、何に価値を置くかは、本当に、人それぞれです。
例えば、コンビニのATM。
私は、コンビニのATMは使ったことがありません。
若干、手数料が高いからです。おそらく、私はこの手数料が高いと言う部分が解消されない限り、利用しないでしょう。
しかし、世の中には、目の前に銀行のATMがあったとしても、「そこに行くのが面倒だ」と言って、コンビニのATMでお金を下ろすそうです。
確かに、そういう傾向はあります。
私自身が、実際に昔から思うこと。それは、コンビニでの買い物です。
コンビニのほとんどの商品は定価で売られています。
もちろん、ポテトチップスをはじめ、お菓子類、ジュース類などは、スーパーの方が安いです。もちろん、私は、そういった商品は、なるべくスーパーで買うようにしています。
しかし、多くの友人は、何のためらいもなく、コンビニでそういった商品を買います。
目の前にスーパーがあっても。
私は、コンビニの価値は、深夜営業とお弁当をはじめとするオリジナル商品にあると思います。
決して、昼間にお菓子やジュースを買うところではありません。
コンビニは、なぜかスーパーよりも敷居が低いのです。そして、敷居が低いための手軽さがあります。その手軽さに、そういう友人達は価値を置いているのです。
しかし、もっと面白かったのは、私が、スーパーの特売日に、お菓子を買いだめしていたら、友人は、「そんなにお菓子をどうするの?」と聞いてきました。
確かに、少し買いすぎたところはありましたが、私が、「安いから買っとく。コンビニで買うと高いから」と答えると、何か不思議そうな、腑に落ちない顔をしていました。
私の価値観としては、当然のことなのですが、その友人には理解できなかったようです。
また、別の友達は、こんな行動をとりました。その友人とは偶然スーパーで出会いました。帰りの方向が同じだったので、話ながら帰路についていると、途中でコンビニ寄ると言いだしたのです。私の価値観では、理解できない行動なのです。コンビニで売られている商品のほとんどは、スーパーで売られています。もちろん、スーパーの方が安いのです。その中で、わざわざ、帰りにコンビニに寄ると言う行動は、私には理解できないのです。もちろん私は、「何か買い忘れたの?」聞きましたが、彼は、「いや、特に。お菓子でも買おうかと思って」と。
私には、理解できない未知の行動です。
結局のところ、彼らは、「お菓子を買う=コンビニ」という方程式が出来上がっているのです。これは、単純に、手軽なコンビニで値段を気にせず、欲しいときに買うという習慣がもたらしたものでしょう。
安いときに買いだめしたり、安いところに買いに行こうという発想がないのです。
確かに、お菓子というものは、嗜好品であり、そういう性格を持ったものだとは思います。
しかし、腐るものではなく、半年程度はもつものですから、買いだめをしておいてもなんら問題のない商品なのです。
コンビニとは、いろんな観点から、人の価値観を浮き彫りにするお店なのかもしれません。
今の時代、何に価値を置くかは、本当に、人それぞれです。
例えば、コンビニのATM。
私は、コンビニのATMは使ったことがありません。
若干、手数料が高いからです。おそらく、私はこの手数料が高いと言う部分が解消されない限り、利用しないでしょう。
しかし、世の中には、目の前に銀行のATMがあったとしても、「そこに行くのが面倒だ」と言って、コンビニのATMでお金を下ろすそうです。
確かに、そういう傾向はあります。
私自身が、実際に昔から思うこと。それは、コンビニでの買い物です。
コンビニのほとんどの商品は定価で売られています。
もちろん、ポテトチップスをはじめ、お菓子類、ジュース類などは、スーパーの方が安いです。もちろん、私は、そういった商品は、なるべくスーパーで買うようにしています。
しかし、多くの友人は、何のためらいもなく、コンビニでそういった商品を買います。
目の前にスーパーがあっても。
私は、コンビニの価値は、深夜営業とお弁当をはじめとするオリジナル商品にあると思います。
決して、昼間にお菓子やジュースを買うところではありません。
コンビニは、なぜかスーパーよりも敷居が低いのです。そして、敷居が低いための手軽さがあります。その手軽さに、そういう友人達は価値を置いているのです。
しかし、もっと面白かったのは、私が、スーパーの特売日に、お菓子を買いだめしていたら、友人は、「そんなにお菓子をどうするの?」と聞いてきました。
確かに、少し買いすぎたところはありましたが、私が、「安いから買っとく。コンビニで買うと高いから」と答えると、何か不思議そうな、腑に落ちない顔をしていました。
私の価値観としては、当然のことなのですが、その友人には理解できなかったようです。
また、別の友達は、こんな行動をとりました。その友人とは偶然スーパーで出会いました。帰りの方向が同じだったので、話ながら帰路についていると、途中でコンビニ寄ると言いだしたのです。私の価値観では、理解できない行動なのです。コンビニで売られている商品のほとんどは、スーパーで売られています。もちろん、スーパーの方が安いのです。その中で、わざわざ、帰りにコンビニに寄ると言う行動は、私には理解できないのです。もちろん私は、「何か買い忘れたの?」聞きましたが、彼は、「いや、特に。お菓子でも買おうかと思って」と。
私には、理解できない未知の行動です。
結局のところ、彼らは、「お菓子を買う=コンビニ」という方程式が出来上がっているのです。これは、単純に、手軽なコンビニで値段を気にせず、欲しいときに買うという習慣がもたらしたものでしょう。
安いときに買いだめしたり、安いところに買いに行こうという発想がないのです。
確かに、お菓子というものは、嗜好品であり、そういう性格を持ったものだとは思います。
しかし、腐るものではなく、半年程度はもつものですから、買いだめをしておいてもなんら問題のない商品なのです。
コンビニとは、いろんな観点から、人の価値観を浮き彫りにするお店なのかもしれません。