私もそんなことを考えなければならない年齢になってしまいました。

お金のため?

人それぞれ感じることは違うと思いますが、ある本に、「仕事とは、充実感を得るために行うのである」みたいなことが書いてありました。
「私も捨てたもんじゃないな」と思うことが大切だそうです。

なるほど。

初任給と仕事のきつさは比例すると言われますが、私が思うに、「金のために、働く」という選択肢もありだとは思います。
世の中、需要と供給がマッチすれば、それで経済は成り立ちます。

体を売りたい人間と、買いたい人間がいれば、それで成り立ちます。
大金払ってもしてもらいたいことは、大金を貰ってやってあげれば良いのです。
それが、お金のために働くということだと思います。

しかし、それで、人生が充実していると言えるのでしょうか?どうなのでしょう?

この問題を考える上で、私はまだまだ青すぎるのかもしれません。

しかし、そんなことも言っていられないので、それなりに私の考えることを書いてみたいと思います。

私が思うに、お金のために働いても良い職業と、お金のために働いてはいけない職業があると思います。
それは、本人の気持ちや、考えといったことより、その職種で決まると思います。

その本によると、風俗などでは、その充実感を得ることが出来ないと書いてありました。
これは一例になると思います。

お金のために働くと言うことは、モチベーションが上がらないというとになると思います。
与えられた課題を達成していけば、給料がもらえるのですから。頑張る必要がありません。
唯一、頑張ることと言えば、給料を増やすためには、どうすれば良いかと言うことだけ。

一方、自分が充実感を得るために仕事をする場合、自分が充実した毎日を送るために、損得感情を抜きに仕事が出来ます。
つまり、給料に関係なく、自分が頑張りたいから頑張るのです。

仕事にやりがいや、その結果として、頑張った甲斐があったと思える仕事は、後者に分類されると思います。

酷い話、後者の場合は、給料を貰えなくても、仕事をする気になれるはずです。
一方、前者はそれは無理。

俗に言う最近はやりのボランティアは、後者に分類されるはずです。(されるはずと表現するのは、最近、ボランティアが一人歩きしていて、その限りではないと感じるからです。)

さて、では実際に仕事を何のためにするかですが、それは人それぞれだと思います。しかし、私は、後者でありたいと感じます。

酷い話、給料が貰えなくても、仕事をしようと思える仕事、職場環境を求めたいと思います。

Ctrl + Z

2006年9月7日 人間
ここ数日、手書きでちょっとしたことをしていました。
シャーペンで書いていたので、間違えれば消しゴムで消しました。
しかし、この作業、非常に細かい作業で、消すにしても、消したいところだけ消すという技が使えません。

そこで思ったことは、「Ctrl + Z」が使いたい…

同じものを書くこともありました。
「Ctrl + C」+「Ctrl + V」が使いたい…

書いたものを移動させたいこともありました。
「Ctrl + X」+「Ctrl + V」はどこだ!!

最後は、末期症状です。

久しぶりに真剣に手書きを行って、パソコンに依存しすぎている自分に気がつきました。

以前、6月29日の「コピー文化」にも書きましたが、コピーが容易であり、また、リセットが簡単なコンピュータにどうも依存しきっていたようです。

昔は、全て手書きだったのですが、今は昔のようです。

手書きには手書きの良さがあり、手書きでしかできないこともあるはずなのに、もう、手書きを行っていない。

また、同時に、計算も行いました。とても簡単な3〜4桁の四則演算です。

普段は2桁後半から電卓を使っています。

計算してみると、間違える間違える…

悲しくなりました。

本当に、コンピューターに頼りきりの生活を送っていたようです。

少し、考えなければならないのかもしれません。
とあるサイトで見た話です。

DiaryNoteでも良く見かける文字。

「爆」

私には良くわからない感覚なのですが、この文字を見ると、原爆を連想するそうです。

酷い人は、爆の強化版として、「核爆」という字を使っている人もいます。

そう言えば、ポケモンのピカチュウが、アニメで「ピカピカ」と鳴きますが、それを聞くと、「ピカドン」=「原爆」を連想するそうです。

なんとも言えない時代の流れです。

私自身は、「爆」は嫌いな字であるし、「核爆」なんてのはもっての他だと感じています。
「爆」なんて使う人の神経が良くわからない部分もあります。

「爆」から連想する言葉は、「爆発」です。
爆発は、何もかもを吹き飛ばしてしまう、そんな単語です。
もちろん、平和利用されているから、今の文化があることも事実ですが、平和利用の場合は、「発破」という別の単語を使うのも事実。

私個人としては、愛用したい文字ではありません。

その辺どう考えておられるのか?
もし良ければ、お聞かせ願えれば、幸いです。

と言う、ちょうど1ヶ月遅れのネタでした。
若干、昨日の続きです。

とてつもなく、面白い(こっけい)な日記を見つけてしまい、毎日楽しみにしています。

その日記へのリンクなんてのは、もちろん貼れないですが、見つけてしまった時は、「ああ、これか」と思って、そっとしておいてください。

その日記を読むと、色々考えさせられます。
本当に、世の中、「人のふり見て我がふり直せ」につきます。

それで、今日考えさせられたのは、自分の「ものさし」でしか、ものをはかっていないこと。

人それぞれ、考え方があって、その人には、その人のものさしがあるわけです。

それを、自分と人のものさしが同じであると勘違いして、全て、自分のものさしではかろうとする。
悲しいことです。

しかし、それは、私にも言えること。
以前、そんなことを指摘されました。

もちろん、自分のものさしを持つことが一番大事です。
しかし、自分のものさしと隣のあの子のものさしは違う。

それを理解しておくことは、最低条件であると思います。

でも、それが理解できていても、それを実行することは、非常に難しい。

私も、理解はできても、すぐに忘れるし、例え気をつけていても、難しい。

理由は簡単です。
相手のものさしは、相手にしか使いこなせない。
だからこそ、ほうれんそう(報告・連絡・相談)が大事なのです。

でも、そのことを理解して、常に、自分を疑ってみる。
それはできると思います。

私も気をつけます。

しかし、まだまだ駄目人間ですので、お気づきの点がございましたら、一言書いていただければ幸いです。
人のふり見て我がふり直せ
他人の性格や行動を見て、自分を反省し欠点を改めよ。(Yahoo!辞書より引用)


ものすごく、反面教師な方を見つけてしまいまして、ちょっと考えさせられました

季節感を無視して(ここはオーストラリアだと思い込んでください)、小学校の校長先生がしてくれた話を紹介します。

あるところに、2人のサンタクロースがいました。1人は慌てん坊さん、1人はしっかり者でした。

あるクリスマスの夜、子どもたちにプレゼントを配り終えた2人が戻ってきました。

慌てん坊さんのサンタクロースは、煙突の煤が顔についてしまい、真っ黒です。
しっかり者のサンタクロースは、さすが、特に汚れている様子はありません。

どちらのサンタさんの方が早く顔を洗ったでしょう?

というのが、校長先生のお話でした。

答えはしっかり者のサンタクロースです。
しっかり者のサンタさんは、慌てん坊さんのサンタクロースを見て、自分も汚れているかもしれないと思い、顔を洗ったそうです。
しかし、慌てん坊のサンタさんは、しっかり者のサンタさんが、汚れていなかったので、自分が汚れているかもしれないことを疑いもしなかったのです。

「人のふり見て我がふり直せ」
これは、常識です。人のふりを見て、自分の行動を見直すというのはとても大事なことです。
しかし、それ以上に、人のふりを見なくても、自分のふりを常に再確認することも大切です。
常に自分が正しいわけではありません。
人のことを批判することも良いですが、その人のふりを見て、自分のふりをもう一度再確認することが必要だと思います。

批判したことを自分もしていれば、恥ずかしいです。そして、説得力も欠けてしまいます。
その人と同じことをしていないか再確認をする。

間違っていれば、訂正。誤解を受けたなら、次からは、誤解を受けないように気をつける。

相手にされたことと、同じことをするというのは、あまり賢い選択では無いということに、やっと気がつきました。

人生常に勉強です。

ですので、皆さん、私のふがいない文章を見て、しっかり自分を見つめ直してみてくださいね。
私も、皆さんのブログで、自分を見つめ直しますので。
でも、こう書くと、皆さんの文章もふがいないように読めてしまいますが、そういう意味ではありませんので。あしからず。

それにしても、本当に疲れます。ハァ…
東屋さんが消えちゃいました…

これは、8月21日の「高校生クイズ」への東屋さんのコメントの返信として書かせてもらったものです。

どこかで見てくれていると良いのですが…

一生懸命って何なんでしょう?と聞かれれば何なんでしょう?と答えてしまいそうです。
しかし、私が「高校生クイズ」で表現したかった一生懸命というのは、しなくても良いのに、したくなることがありますか?という話です。

と言いますか、「しなさい」と言われたり「しなければ」と思ってするのではなく、単純に「したい」と思ってしていることがありますか?という話です。

例えば、部活は、しなければならないものではなく、しなくても良い事ですよね?
つまり、自分でしたくてしているはずの事です。

しかし、今の高校生には、そこに、義務感を感じて活動をしているように見えるのです。
どんな義務を抱えているのかは知りません。

本気で「してみたい」と思ってしていれば、多少の障害は乗り越えられると思うのです。

だって、好奇心が先にたちますから。

しかし、義務感でやっていると、その障害を乗り越えられません。迂回路を探したり、引き返したりします。

好奇心は、恐怖心を取り除いてしまうとても危険な感情です。
しかし、若いうちは、恐怖心など必要ないと思います。ドンドン、前に進んでいくべきです。
進んでみて、考えれば良いのです。もし、間違った方向に進みそうになれば、きっと誰かが止めてくれます。大丈夫です。

だから、もったいないと思うのです。

同じようにやっていても、同じように頑張っても、義務感を持って行うのと、好奇心をもってやるのでは、モチベーションが全く違います。
モチベーションが違うと言うことは、自動的に濃度にも違いがでてきます。

私の話はそんな話です。
ちょっと最近思うのは、相手にどう思われるかが、重要に思えます。

自分にそんなつもりがなくても、そう思われてしまえば、それまで。

どんなに否定しても、どんなに説明しても、理解してもらえなければ、お終いです。

時々、そんなことしたつもりはありません。と断言している人がいますが、なんて自分勝手な言動だろう思います。
本人にその気がなくても、そう相手に感じさせてしまったことを認めなくてはいけないのではないかと思います。

その上で、どう釈明するかは、その人の問題だと思いますが。

だからこそ、誤解のない言動を心がけなくてはいけません。特に文章を書く時は、会話よりも重要になってくるでしょう。
そして、常に、自分の言動が誤解を与えている可能性があることを理解しておくべきだと思います。
もちろん、あえて、誤解を与えるような書き方をするという表現技法もあると思います。
ですから、受け取る方にも、本当に、その受け取り方で良いのかという疑問を常に持っておくべきだと思います。

それができないから、喧嘩になってしまうのだと思います。
今日は、ちょっと個人的な話です。

最近、常々思うこと。それは、もっと、アナログな人生を送りたいなと。

私のような、理工系の男は、秋葉原にあこがれ、機械類、コンピューターにあこがれ、デジタルにあこがれた人間です。

理論を中心に、デジタルチックに話を進めます。このブログも傾向がよく出ていると思います。

それはそれで、別に悪いことではないと思っていますし、いつも書いているように、理論武装は必要です。相手を打ち負かすためには、デジタルチックな理論で戦うしかありません。特に、今の制度ではそうです。
感情論で話を進めることはできません。

でも、もっと、感情的に生きていきたいなとも思います。

もっと、自分の考えに感情的にありたいなと思います。好きなものを好きと説明するのに、理論は必要ないはずです。今の私は、完全に理論的に考えて説明します。

もっと、感覚的に、感情的に、好きなもの好き、理由なんて必要ない!!と胸を張って言えるくらいになりたいです。

コンピュータをツールとは思えない、そんな人間になりたいなと思います。

でも、同時に思うのは、周りの人間に、もう少し理論的に生きてくれよと思うのも事実です。

難しいです。

注) 私のイメージする秋葉原は、電気街です。コンピューターや、デジタル家電(初期型)を売っていて、さらに、ゲームに手を出している。と言っても、ゲームは、まだ普通のゲームで、萌えではない。そんな街です。
いつから萌えとアニメの風俗街まがいの街になってしまったんだろう…
たかだか1万HITでお祝いのお言葉ありがとうございます。
皆様にはまだまだ、及びませんので、精進させていただきます。

さて、昨日の「矛盾だらけ」にコメントありがとうございます。

まさか、こんなに素晴らしいコメントを頂けるとは思っていませんでしたので、少々戸惑っています。

確かに、仰られるとおりだなと感服しております。私自身の未熟さが恥ずかしいです。

しかし、一方で、ちょっと違うなとも思っている自分もいます。

これが先日私の表現した矛盾です。

私は、ここのブログを1つのストーリーとしてまとめ上げるつもりはありません。
もちろん、シリーズとして書いている時や、以前書いたものを引用する場合は、1つにつながっていなければいけませんが、そうでない場合は、その限りではありません。

私は、特にブログの世界での意見の矛盾は成長だと思います。
はじめは、そう思っていても、時が経つにつれて考えが変わっていく。「それを昔はこう思っていましたが、今はこう思います。」と断りを書く人は少ないと思います。

これが成長だと思います。

また、物事は、見る方向を変えれば、見え方も変わってきます。
そのうちの1つを立てれば、他の見え方は矛盾してきます。その矛盾を認めることが、私は一番大切なことだと考えています。

ここのテーマは、私と皆さんとが、「へぇ〜、こんな考え方もあるんだぁ〜」と思うことです。
そのためには、色々な意見に柔軟でなければいけません。
また、提案する私自身が、様々な角度から物事を見る必要があります。

ですから、この矛盾点もまた、様々な角度から眺めることによって、知ることが大切だと考えています。
従って、矛盾することは、ごく自然且つ、欠かせないものだと考えています。

しかし、確かに、仰られるとおり、1人の人の言うことがいつも違っていれば、あまり良い気はしません。
この意見には賛成です。

これもまた矛盾です。この矛盾をどう評価するかという話にもなります。

確かに、答えを作っておいて、その答えに向かって進んでいけば、矛盾は生じないのかもしれません。
しかし、私は、皆さんの意見も立派な考え方として、受け入れることをモットーとしています。
だって、皆さんの意見と自分の意見を融合することにより、新しい考え方をすることができれば、それって、すごく素敵なことではないですか。

ですから、この矛盾は致し方ないことだと考えています。
矛盾を受け入れ、しっかり考えることが大切だと考えています。

その結果は、結局矛盾しているのかもしれません。

しかし、答えを出してはいけない問題もあると思います。答えがなく、永久に考え続けなくてはいけない話。そんな話もあると思います。例えば…8/15の問題とか

人の考えを受け入れ、その上で、どうするのか?
良い意見は良い意見として受け入れ、且つ、自分の意見も持ておく。それもまた1つだと思います。

その結果は、多くが矛盾だと思います。
この矛盾を矛盾として受け入れる。それも大切な考え方だと思います。

王様は、あくまでも最終決定を下す人間であって、自分の思うように動かすだけの人間では駄目だと考えています。
今日、おそらくカウンター桁数が1つ増えると思います。
特に何も準備していませんが、9999と10000を取られた方、もし良ければ、コメントで足跡残していただければ幸いです。

本題。

私の話って、矛盾してると思いませんか?

ある時は否定したことを、ある時は肯定している。そうではないですかね?

しかし、「人の「こころ」って…(中間報告)」シリーズに書いたとおり、色んな考え方があり、それを知ることが重要なのです。
そして、何も、それを人から学ばなければいけないわけではなく、自分で2種類以上の考え方を持ったって良いんです。

さらに、6月11日の「本当の私」に書いたように、自分にも色々な自分がいるのです。A君のことを好きな自分と嫌いな自分。矛盾しているようですが、それが人間だと思います。
そして、人が見る自分というのは、その矛盾点全てをまとめた集合体として見ているのです。

もし、自分が自分を偽り、嘘の自分を演じていたとしても、それが自分であり、それが本当の自分なのです。

つまり、「隠している私」が本当の自分なわけです。

人間には良いところ、悪いところ、色々あります。しかし、その全てをひっくるめて、その人なのです。そして、その人を皆は見ている。

自分が誰かを演じていたとして、それは本当に自分の虚像なんでしょうか?
そして、矛盾だらけの自分を否定する必要はあるのでしょうか?
色々とブログなどを読んでいて、ドキッとすることはありませんか?

私なんて、ほとんど毎日です。

このドキッとする気持ちは、図星だったからです。

そこに書かれている内容が、自分に合致したからです。
その内容は、多かれ少なかれ、自分のその部分を否定していることが多いと思います。

そういう時、どうします?
無視しておきますか?それともしっかり受け止めて、反省しますか?無かったことにしてしまいますか?書いている人が間違っているということにしますか?

私が思うに、とりあえずは、どれでも良いと思います。
それよりも、そういった内容であっても、途中で読むのを止めずに、最後まで読み、その上で、しっかりとその人の考えを受け止め、考えてみるべきだと思います。
その結果、無視することにしても、書いた人が間違っていると思っても、それは、それで良いと思います。

しっかり考え、自分の考えを持つことが大切だと思います。
さて、「モノ」という表現の中に、「コンテンツ」も含まれるとすると、どうなるのか?
どうもなりません。モノを大切にしましょうと言いたいのです。

そう、形のない、文章やプログラム、音楽、映画を大切にしましょう。

例えば、ブロガーの皆さん。あなたの書いているブログは、もう立派なコンテンツです。
そのコンテンツを自分の作り上げたコンテンツとして、大切にしましょう。

もちろん、できの悪いコンテンツを消したくなることはあるでしょう。しかし、それもあなたの記録なのです。失敗したことも記録です。失敗があるからこそ、成功もあるのです。
その記録を封印することはあっても、大切な記録として、残しておきましょう。

安易に消し去って良いものであるはずがありません。

自分で生み出したモノを簡単に消し去ってしまうことが良いはずがありません。
自分で生み出したものこそ、本来、愛着がわくはずです。

人につくってもらったモノよりも、自分でつくったモノの方が愛着があるはずです。

自分でつくったモノに愛着をもてない人が、人につくってもらったモノに愛着をもてるはずがないと思うのです。

つまりは、モノを大切にできない。簡単に使い古して捨てるのです。

さて、結局何が書きたいのか言いますと、コンテンツを大事にすることを忘れていませんか?と言いたいのです。

コンテンツがまだ新しい文化であるため、そのコンテンツがなんなのか理解できていない人が多いのではないかと思います。
私の見解も、あくまでも1つの見解ではあります。しかし、コンテンツは、モノであると思います。モノである以上、やはり、大切にすべきではないでしょうか?

コンピューターが発達した昨今、
まず、簡単に複製できてしまいます。自分でつくるという行為を忘れていないですか?

次に、跡形もなく消し去ることも容易です。自分のつくったモノを簡単に消し去っていませんか?

リセットできてしまう。失敗したら、簡単にリセットしてやり直しませんか?


自分の今までしてきた行為に責任を持つことと、その結果、失敗したのなら、その失敗を受け止めることが大切だと思います。本来、皆さん、そう教わってきたはずです。
そういう過程を踏むからこそ、出来上がったモノを大切にできるのだと思います。

コンピューターの発達により、そういった過程がないがしろにされている気がします。

先日、「リセットしたかった・・・」と言って、人を殺した少年がいました。

そのニュースを見て、たくさんの方がTVやブログなどで、コメントされていますが、「現実は。ゲームとは違うんだよ。」とか、「ゲームと現実の違いが理解できていない」とか言っていますが、それは、あくまでも結果論です。

だいたい、子ども(彼は高校生でしたが)が、現実とゲームの違いを理解できるはずがないのです。
小さい頃、TVのヒーローにあこがれて、いつかウルトラマンになるんだと思いませんでしたか?これこそ、子どもが現実との区別がついていない証拠です。(TVは自分が操作することができないため、自分の行動に直接的な影響を及ぼさないのです)
でも、今でも、心のどこかにウルトラマンがいれば良いのにと思いませんか?

ゲームが直接悪いわけではなく、コンテンツを大切にしない、もっと言えば、モノを大切にしない、そんな風潮が、そうさせているのです。

親や先生が、子どもを教育するとき、「失敗は、失敗として受け止めなさい。リセットしてやり直すことができるのだとしても、やり直すのではなく、その失敗を受け止めて、それを糧としてもう一度挑戦しなさい」と教えれば良いのです。

ゲームのセーブデータも、あなたが長時間かけて積み重ねてきた、あなたの記録であり、ある種のコンテンツなのです。

その記録を大切にすることが、本来大切なのではないでしょうか?

それができないから、命を大切にできないのです。

ゲームの遊び方にだって、タブーがあって良いのです。

それを教えるのは、親や先生といった大人達なのです。
私が「モノ」と表現するのには、もう1つ理由があります。
「物」と表現すると、どうも、物体そのもののように感じてしまうからです。

例えば、作家さんのことを「もの書き」と表現します。つまり、文章自体を「モノ」という音で表現するということです。しかし、「物」と書かれて、文章自体を思い浮かべることは少ないと思います。
やはり、「本」という実体あるものを想像すると思います。

しかし、「本」の価値は、その紙を束ねたその物体にあるのではなく、その紙に書かれた内容に価値があるのです。

以上を考えると、「モノ」という音の中に、もちろん物体としての物という意味もありますが、それ以外に、その内容そのものを指すこともできるのです。

さて、ここで考えたいのは、今、日本政府の方針は、コンテンツ事業に力を入れようとしていることです。

コンテンツとは、一般に、本であれば文章や絵のこと、コンピューターの世界では、ハードではなくソフト、その他映画やTV番組などを指す和製英語です。
つまり、実体のある「物」ではなく、その中身を指します。

今、日本は、産業を今までのイメージする「物」から、その内容(つまりコンテンツ)にシフトしていると言うことです。

その中で、「物」と表現していると、物体そのものをイメージしてしまいます。
しかし、これからの時代、その物体そのものよりも、その内容について考えていかなければなりません。

そこで、あえて、「物」ではなく「モノ」や「もの」という表現をすることにしています。

そうすることにより、「物」と「者(人)」と「コンテンツ」を同時に表そうとしているのです。
昨日の日記から読んでください。

昨日、モノを大切にしなくなくなったという話を書きました。

私は、昨日、「モノ」と書きました。「物」とは書きませでした。これは、きちんと意図するところがあったからです。

別に「もの」でも良いのですが、「もの」だと、他の字の中に埋もれてしまって読みにくくなるために、「モノ」を使いました。本当は「もの」の方が、やわらかく見えるので良かったのですけれども。

皆さん、「物」と解釈して読んでいたと思います。

私自身、「物」と解釈させるように意図的に文章を作ったつもりです。

しかし、「もの」と打って、変換してみてください。

WindowsXPの場合、「喪の」や、「藻の」なども出てきますが、「者」という漢字が出てきませんか?

そう、私が使った「モノ」は、「物」という意味はもちろんのこと、「者」つまり、「人」を指す言葉としても使いました。

こう書くと、シャーペンと人間が同じなのか?と思われるかもしれませんが、別に大差はないと考えています。

元来、日本では物にも魂が宿ると言われています。百鬼夜行はその典型的例です。
わかる人にはわかる「へなもん」もそうです。

アニメでは、物がしゃべって動きます。物がしゃべれば良いのにという日本人の願望が生み出した産物でしょう。

そして、私達は、物に話しかけます。
それは、物を物としてだけは見ていない証拠です。

最近、命を大切にしないとか、自分を大切にしないとか、よく耳にしますが、それ以前に、物を大切にしていないのです。
そして、残念ながら、最近、「物を大切にしましょう」という言葉をあまり聞かなくなりました。以前に比べ、「物を大切にしましょう」という教育がされていないのです。

命は確かに大切です。世界に1つしかない、代えようのない存在です。
しかし、本来、物だって、世界に1つしかない存在です。

確かに、大量生産により、本当に良く似た物があふれています。
しかし、そこにあるその物は、世界に1つしかないのです。隣に並んでいる同じ商品とは、どこかが若干違うはずです。

歌のフレーズで、「あの頃すっごくはやっていたから買いに走ったこのスニーカーも、今では世界中探しても見つからない最高のボロボロ靴さ」というのがあります。

例え、大量生産された物でも、自分しか持っていない、大切な存在なのです。

物を大切にできない人間が、者を大切にできるはずがない。
物を大切にしない人間が、者だけを大切にできるはずがない。

最近の事件の裏側には、こういった、根本的問題が隠れているのです。

私は、そう思います。
食事中の方がおられましたら、食事が終了してお読みください。若干汚い表現が含まれます。

少し前、「もったいない」という言葉が話題になりました。
さらに、先日新幹線に「MOTTAINAI」というポスターが貼ってありました。

諸外国には無いそうですね。そういう言葉。

私も、ジーニアスで簡単に調べてみましたが、私がイメージする「もったいない」に合致する英単語はありませんでした。

以前、ジャスミンさんに頂いたコメントにこんな話がありました。

難しい話はわからないけどね、以前、新聞の記事でこんなこと言ってました。

『日本人は自分のコンピューターに名前をつけて、挨拶までしている。
そして壊れたコンピューターを捨てられずにいる。
壊れたコンピューターをどうして捨てられない?
もう使えないもなら、ただのゴミだろう。
どうして日本人はただの道具に愛着を持つのだろう?
日本人はロボットにまで名前をつけて、一緒に生活をし、
ともに笑い泣いたりし、友達のようにロボットと一緒にいる。
なんだか理解に苦しむよ。』

というのがアメリカ人の評論家のような人が言ってました。


なにも、これはコンピュータに対することだけではなく、全てのモノに対して言えることだと思います。

日本人は、「モノを大切にする」、それも、壊れて、使えなくても大切にしてしまう、そんな傾向があるようです。

昔から、「もったいない」の他にも、「百鬼夜行」という言葉があります。これは、まだ使えるのに、捨てられた道具達が妖怪となって町を行脚するというもの。(簡単に調べた結果、実はこの見解は違うかもしれないので、あまり信用しないでください。)

実際、私は、親や先生から、「もったいない、もったいない」と言われ続けて育ちました。
祖母が亡くなって、家を片付けたとき、ありえないようなものが次々と出てきました。
それを見るたびに、「こんなもの捨てれば良いのに…」と思いました。
しかし、両親は、そんなことを言っている私に、「昔は物が無かったから、何でもとっておく癖があるんだよ。」と。

でも、これこそが、正に「もったいない」なのです。

何事にも限度と言うものがありますが、それでもモノを大切にすることは大切です。

昔はよく、「もったいないおばけがでるぞー」と言われたものです。

本来、日本人は、究極のリサイクル生活を送っていました。

鯨をとってみてもそうです。捨てるところは無かったそうです。
また、下に関してもそうです。肥溜めに溜めておき、畑に撒いて肥やしにする。
究極の循環型リサイクル社会が実現していたのです。

また、日本製のもの、特に自動車はその典型的例だと思いますが、とても持ちが良いです。
和服や和紙、日本家屋と、とにかく、その物持ちの良さには、驚かされます。

これは、今まで、日本人が、その一時的な機能よりも、より長持ちするものを作るために、技術開発をし続けた結果だと思います。

1つのモノを長く使う、国民性がそうであったために、そうあれたのだと思います。

しかし、どうも最近はそうでなくなってきている。そんな気がします。
その影には、高度経済成長期の大量生産、大量消費があることは言うまでもありません。

実際、「もったいない」という言葉を聞いたのも、すごく久しぶりだった気がします。

なにもかも、まだ壊れてもいないのに、買い換えてしまう。
そして、簡単にモノが壊れてしまう。

確かに、便利になりました。でも、簡単にモノを捨ててしまう。そんな生活をしています。

悲しいことだなと思いました。

以上、期待を裏切る最低のこころのブログでした。
と、昨日、TVを見ていて思いました。
以前、説明責任について書いたこともありました。

しかし、どうしても言いたくないこともあると思います。

一昨日の私のように。

また、伝わらないことに価値を置くこともあると思います。

全てを伝えることが、本当に吉なんでしょうか?

それもそれで違うと思います。

逆に、伝わり過ぎて、困ることもあったり。

あえて、誤解を与えることにより、意味が出てくる言葉もあると思います。

難しいところだと思います。

しかし、その評価は、読み手が決めることではなく、表現する側が決めることだと思います。

上手くいったのか、いかなかったのか。

ところで、何人かの方に、「こころさんどうしちゃったの?らしくないよ」みたいなコメントを頂きました。
そうなんでしょうか?
私は私で、特にどうもしていません。

確かに、ここ数日、表現技法を変えてみたことは事実です。
その結果、想像以上に言いたいことが伝わってしまい、動揺していたことは事実です。

また、その伝えたいことに対して、予想以上の温かいコメント及び、(自主規制)なコメントを頂いてしまい、上手に対応できなかったことも事実です。
ここまで反響があるとは思っていませんでしたので。

しかし、私の考え方や、本当に伝えたい内容に大きな変化があったつもりはありません。

ですので、安心してください。

と言うことで、伝えるという行為の難しさと、伝えるという行為そのもの、その表現技法について、考えさせられました。
また、自分の与える影響についても、驚きました。気がつかないうちに、自分の意識している数よりも多くの方がいらしてくれるようになってしまっていたようです。

下流君

2006年7月25日 人間
波田陽区の下流君ははまり役だと感じるこころです。

フリーターとか、ニートとか、怪しげな言葉が世間を騒がせていますが、この人たちの
中には、以下のような考えを持っている人も少なくないかと思います。
そして、学生、生徒の中にも、少なくないと思います。

「頑張って、勉強して、大学を出て、良い会社に入ったところで、大したことがない。別に良いこともないし、フリーターやニートで十分だ。」

もちろん、実際問題として、そういうこともあるでしょうし、逆に、良い会社で挫折した結果、フリーターやニートになってしまった方々も少なくないでしょう。

苦労して、山の頂上まで綺麗な景色を見るために登っても、そこからの景色は、意外とたいしたことなかった。こんなことなら苦労して登る意味がなかったな。裾野の景色で十分だった。

しかし、私がそこで思うのは、山の頂上からの景色を知っているからこそ、裾野の景色と比べることが出来るのです。

人によって価値観が違うと言う話は「価値を置くもの」シリーズなどで以前書きました。

頂上からの景色を綺麗だと思うのか、そうでもないと思うのかということは、人によって感じ方が違うはずです。

頂上の景色を知っているからこそ、比べることができ、その結果、裾野の景色を素敵に思う。

人から聞いた話を鵜呑みにして、頂上まで行ってみないと言うのは、ただの逃げです。

すごく、最もな理由のように思っているかもしれませんが、頂上に行ったことがある人が初めて言うことを許される言葉であって、それ以外の人が言っても良い言葉だとは思えません。

頂上の住み心地が悪かったからこそ、裾野の暮らしが良いと思えるのです。

そして、頂上まで行ったからこそ、その途中で一番気に入った場所を探せるのです。

だからこそ、とりあえず上まで登り、登りきる。そのために頑張る。

そんなことを思いました。
北朝鮮がミサイルを発射したとき、友人と話したお話。

金正日は何がしたいんだろうね?
だいたい、何も考えていないんじゃい?
なんか顔もうさんくさいし。

とか話していました。

小泉首相も、ブッシュ大統領も、やること言うことメチャクチャですが、それでも、しっかりした顔をしています。

一国の代表として、酷い顔はしていません。

しかし、金正日は・・・

あれは酷いですよ。周りの高官たちの方が、よっぽどまともな顔をしてます。

知的でないというか、色々考えていたら、あんな顔はしないと思うんです。

どうなんでしょう?

ところで、私は人を見た目で判断します。

と言っても、顔が可愛いとか、スタイルが良いとかそんなことで判断はしません。

顔と言うか表情を見れば、なんとなく、その人の人となりが見えてきます。

もちろん、外れることも少なくないですけど。

でも、なんとなく判るんです。

ただの演技かもしれませんが、賢そうな顔、何かをたくらんでそうな顔、何も考えてない顔、馬鹿な人の顔、知的な人の顔、輝いている顔、無気力な顔etc・・・
だいたいわかります。

さらに、体全体からでているオーラみたいなものも感じます。

もちろん、ファッションとか化粧でもその人となりを判断することは出来ます。

これらを複合的に判断すると、その人が、どういう人なのか、あるいは、どういう人として生活しているのかがわかります。

と言うことで、人の見た目というのは、非常に気にしています。
もちろん、ファッションとか、髪型とか化粧とかだけではなく、その目つきや、口の形を見ているんですけど。

ですから、それらを複合的に見ているわけですね。
以前、男はLIKEとLOVEの違いがわからないと書きました。

LIKEの意味は「好き。」
LOVEの意味は「大好き。愛している。」

私の解釈としては、「好き」という感情は、LIKEとLOVEに分かれると思います。

そして、LIKEとLOVEの違いは、よくわからない。

次に、LOVEは、「(大)好き」と「愛している」に分かれると思います。

図にするとこんな感じ

   | LIKE |  LOVE  |
   |  好き  |愛してる |

つまり、LIKEからLOVEになり、「愛している」というのが自論です。

しかし、ここで問題なのが、私は、「愛している」と言う感情がよくわからないということです。

私が思うに、この「愛している」という感情と「好き」と言う感情の違いをはっきりと判っている人は、少ないと思います。

だからこそ思うのは、「LOVE」と言う言葉を使うことは許せても、「愛している」という言葉を軽々しく使うのは、おかしいと思います。

ところで、こんなことを考えたきっかけは、ヴァルハートさんの
http://diarynote.jp/d/51081/20060714.htmlです。

で、次の日に紹介していただいたのは、D.K.Vernoさんの
http://diarynote.jp/d/12424/20060714.htmlです。

確かに、好きという感情は一方的な感じはしますが、相手があれば「愛」なのか?

そして、さらに次の日紹介していただいたのがユースケさんの
http://diarynote.jp/d/72522/20060714.htmlです。

これは、割とすっきりしていて良いですね。

特に中頃の「言葉は自分の感情を表現するもの。…ただ自分の感情に一番シックリ来る言葉を捜して、それを口に出して言えばいいだけ。」と言うのは、かの有名な言語学者、金田一先生も仰られていること。

でも、何かに違和感と言うか、残念さを感じます。

やっぱり「愛」って言うのは、何か特別で、未知なる神秘的な感情であって欲しいような、そんな気がするんです。
特に、「好き」と言う言葉の最上級の言葉だと解釈ならなおさらに。

だからこそ、軽々しく口にしたくない。そんな気がします。

最近の若者は…

2006年7月19日 人間
なんてことを最近の若者である私が書くのもおかしな話ですが、たった1〜2年の差でも、そんなことを感じます。

この言葉、本当によく聞く言葉ですが、ある人の話ですと、かの松尾芭蕉も書き綴っているとか?

それだけ、ある意味で、日本人にとっての重要なテーマなのではないかと思います。

例えば、こんな話があります。

高校受験から始まり、大学受験、サークル、部活、ゼミ、就職活動と、人生において重要な選択を迫られることは、少なくないと思います。

こういったとき、まず、そこのことを理解しようと、説明会への参加や、訪問などをすると思います。

そして、説明会ならば最後に、そうでなければ全般に、質問できる機会があると思います。

しかし、私たちの世代でもそうですが、なかなか質問は出ません。

本来、自分のことですので、しっかり質問をして、理解を深めるべきです。しかし、できないのも現状です。

それは、ある意味しょうがないのかもしれません。それは、説明してくださる方も理解してるみたいで、ある程度しょうがないと思われているようです。

さて、そんな中、以前、「質問ないですか?○○とか聞いておかなくても良いですか?」と言われました。私の感覚と言いますか、礼儀と言いますかでは、やはり、そのことについてお伺いするのが当然だと思っています。

しかし、先日、後輩達に同じことを言ったら、「特に質問は大丈夫です。」と。

こう、なんと言うのでしょう?自分の事なのに、関心が無いというか、どうでもいいと思っているのでしょうか?もしかすると、一生を左右するかもしれないことなのに…

確かに、色々な考え方があって、人それぞれだと思います。
私達だって、先輩方の話を聞いていると、「最近の若者達は…」と思われていることもよくわかっています。

しかし、ある程度、先方に気を使ったり、自分のことに関心を持ったりする必要はあるのではないかと思ったりします。

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