人の価値から始まりまして、一週間以上も同じネタで突っ走ってしまいました。
今回で、とりあえず完結です。

本当は、もう一つ書きたいことがあるんですが、それはまた時間を置いて、別の題名で書きます。

と言うことで、今回は集大成に成り得るのか?

カウンセリングで、自分を好きになる。
これをカウンセリングの1つの目標にしてしまっても良いと思います。

自分が嫌いな人は、自分を知ろうとしていない。そんな気がします。

自分が嫌いな人って、自分が嫌いだから、自分の事を知ろうとしないのです。

だってそうでしょう。「臭いものには蓋をしろ」
嫌いなものを長時間眺めることができる人がどれだけいるでしょう?そうはいません。

しかし、周りの人はあなたのことをよく見ています。
あなたの良いところ、悪いところ。
悪いところって、目についてしまいます。そのせいで、どうしても目立ってしまいます。悪いところばかり、言ってくるかもしれません。
しかし、その悪いところは、長所でもあるのです。

カウンセリングは、まず、自分を知ることから始まると思うんです。
自分を見つめなおし、自分を知る。

本当は、知らないものは好きにも嫌いにもなれないはずです。
しかし、嫌いだと思い込んでしまうと、知らないのに嫌いになってしまう。食わず嫌いになってしまうのです。

だからこそ、自分を知ることが必要になってきます。

そして、カウンセラーの先生は、わかった自分を必ず認めてくれます。

だってそうなんですよね。

長所と短所は裏返し。自分の嫌いな部分は、実は自分の長所なんです。
長所が認められないわけがありません。

その短所を長所だと思えるようになれば、きっと自分の事が嫌いでなくなると思います。

以前、自画自賛(5月22日)について書いたことがありますが、自分を評価することって、とても大切なことだと思うんです。

カウンセリングは、日常生活で自分の嫌いなところが、実は長所なんだと思えない人が、そう思うために受ける。そんな気がします。

まぁ、これをカウンセリングに頼る必要はないのですが、選択肢の一つに入れても良いと思うのです。
そろそろ飽きてきた方もおられるでしょうがもう少しお付き合いください。

昨日、一昨日と書いてきた話は、ようは気の持ちようだと言いたいわけです。

でも、人になんと言われようが、自分の短所を長所とは思えないわけです。
これは、特別な話ではないでしょう。

そこで、カウンセリングが必要なわけです。

カウンセリングを受けるということは、精神的に問題がある、つまり、精神的に不健康であるというイメージがあり、どうも、敷居が高いのが現状だと思います。

しかし、精神的に不健康だったとして、それって、問題なんでしょうか?

風邪と一緒で、誰にでもなりえる、健康不順なんです。

欝って、どういう状態かと言いますと、色々あると思うので、一概には言えませんが、自分が嫌いな状態だと思うんです。

例えば、何をどうやっても上手くいかない。そんな自分が嫌になる。
自分の言動が、人と比べて劣っていると感じ、自分が嫌になる。
仕事を失敗してしまい、自己嫌悪におちいる。etc…

ようは気の持ちようなのですが、自分の気持ちがプラスの方に向かない。マイナスの方に向いてしまう。
そんな状態が欝状態だと思うんです。

そういう状態って、何も珍しいことではないと思うんです。誰でも経験あることだと思うのです。

そういう時、まずは時間が解決してくれます。。
また、ひとつの方法として、人に話すという選択肢があると思うんです。

その時の相手が、素人なのか、それともプロなのか。
それは、どちらでも良いと思うのと同時に、その相手がプロだからと言って、それは自分が劣っていたり、問題があるわけではないと思います。

たまたま相手がプロだった。それだけです。
それに、風邪をひいたとき、何の抵抗もなくプロ(医者)にみてもらいますよね?

同じことだと思います。
ウィルス性の疾患を始め、命に関わるような遺伝的疾患は別として、そうではない命に別状のない病気や、精神性の疾患やその他障害について、どう考えますか?

昔、ある方が講演会で、「障害って、その人の個性なんです」と仰っていました。

ちょっと無理がある見解だとは思うのですが、それも1つの発想の転換です。

ようは気の持ちようなんです。

それに、例えば、足が不自由な人がいたとして、昔はそれでもう動けませんでしたが、今は車椅子があります。自由に動き回ることができます。

もちろん制約はあるかもしれませんが、それは、近くの人に助けてもらえば良いことです。もっと言えば、いわゆる健常者の人が、他の人に頼らずに生きていけるかと言えば、そうではないわけです。それは、今まで何度も書いてきました。

無理矢理言うと、全ての人が、何らかの障害を持っていて、それを皆で補いながら生きているわけです。

だからまず、障害や疾患があることが自分にとって不利なことだと思う必要はないのです。
そして、その障害や疾患は、あなたの個性なんです。

もし、その個性が短所だと思うあなた。

昨日書きましたが、短所と長所は裏表。考え方次第で、長所とも言えるのですよ。

そう、あなたの障害や疾患は長所なのです。
そろそろ七夕ですか?お星様にお願いを。

え?!七夕は終わった?そんな梅雨の真っ最中に星の祭り「七夕」が終わるはずがないでしょう。

旧暦で祝いましょうね。

短冊のお願いには、「短所が直りますように」と書きますか?

短所が短冊に見えてしまったので、こんなことを書いてしまいました。

さて、本題です。今日はちょっと一般的な話を。

よく、あなたの長所と短所はなんですか?と聞かれます。
しかし、長所と短所は、裏表なんです。
どちらかを聞けば、両方判るのです。

例えば、そうですね。
面倒見がいいが良いと言うあなた。ただ、おせっかいなだけではないですか?
責任感が強いと言うあなた。色々、一人で抱えこんでしまっていませんか?
肯定的だと言うあなた。なんでも受け入れてしまう自分のない人間ではないですか?

逆に、
引っ込み思案と思っているあなた。慎重な人ではないですか?
よく「うるさい」と言われるあなた。「明るくて良いね」と言われたことはないですか?
意地っ張りなあなた。実は、素晴らしいこだわりを持っているのではないですか?

と言うように、長所と短所は裏返しなのです。

皆さん、自分の嫌いなところがあると思います。
でも、それって、あなたの武器なんです。

自分の嫌いなところを好きになるのは難しいかもしれません。でも、その嫌いなことが、あなたの個性であると共に、あなたの長所であり、武器であるのです。
もちろん、その部分を認めて下さっている方もいるはずです。

一度、誰かに聞いてみれば良いと思います。

簡単に答えてくれますよ。あなたの良いところを。
実は、それが、あなたの嫌いな部分かもしれません。
自分を認めて欲しい…

結局、この言葉に全てが集約されているのかもしれません。

ヴァルハートさん(http://diarynote.jp/d/51081/20060707.html中頃より少し上)は、「どうすれば自分を他人が必要としてくれるのか、それを必死に考えいろいろやってみたら、目は勝手に生き生きしてくる。」と書いていました。

それもそうですね。自分を好きになるためには、人に好かれなければならないのかもしれません。そのためには、まず、認めてもらう。
そのために、努力をする。これは当たり前のことです。

でもね、ちょっと待ってください。

本当に、あなたは万人に嫌われているのですか?全ての人があなたを必要としていないのですか?

そんなことないですよ。きっと誰かは、あなたのことを大切だと思ってくれています。
ほとんどの両親は、そう思っているでしょう。学校の先生方もそう思ってくれているでしょう。
そして、恋人。配偶者。過去に自分の事を好きだと言ってくれた人。etc…

もし、あなたがDiaryNoteのユーザーで、お気に入り登録をされているならば、それは、認められている証拠です。
少なくとも、私が自分から登録させて頂いた方は、私の中で、とても大きな存在です。
顔も名前も知らない方々ですが、大切な方々です。

努力をすることはとても大切です。もっと上を目指して努力する。これは当然です。
しかし、本当にあなたは、誰にも認められていないのですか?

今のままのあなたでも、十分に認められていると思います。

もう一度、周りを見渡してみてください。

きっとそんな人がいてくれるはずです。

自分の事が嫌いな人は、よく、「こんな自分をなんで好きなんだろう?私だったら、絶対に好きにならないのに」と言います。

だからこそ、もう一度、自分の嫌なところを無視して、周りを見てください。きっと嫌いでなくなります。

目をキラキラ輝かせる素敵なものを見つけるために頑張るのか?それとも、今手持ちにあるもので目をキラキラ輝せるために頑張るのか?
どっちでも良いと思います。
今、手持ちにあるものが劣っているわけではないのですから。

そんなことを思いました。
実は、少し前まで、自分の事が大嫌いでした。
自分の存在に意味はあるか?自分の事を好きと思ってくれる人はいるのか?とすごく自分に自信がなかったと共に、そんな自分が嫌でした。

しかし、ある時すごくもてた時期がありました。
女の子数人に囲まれて、「こころさん大好き」と言われました。

そういう経験がなかったので、すごく嬉しかったです。

今思えば、その頃から、自分の事が嫌いではなくなっていました。

その後も、私のことを認めてくれる女性に出会いました。結局、その人とは駄目になってしまいましたが、今でも私にとって、掛替えのない存在です。

今でも、自分の事を大好きだとは思えませんが、それでも、以前よりも自分に自信が持てるようになりました。

人に認められるというのは、実は、すごく大切なのかもしれません。

公共広告機構のCMで、「あなたが大切だと言われるだけで頑張れる」と言っています。

人に認められるからこそ、自分を認められる。自分が認められるからこそ、自信が持てる。自信があるからこそ、自分を好きになれる。

自分が好きだからこそ、人も好きになれる。人が好きだからこそ、人を大切にする。

そんな気がします。
本当は昨日の続きを書こうと思っていたのですが、ちょっとニュースを見ましたので、急遽変更します。
今回は、完全に、超個人的な意見です。

こんなニュースを見ました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060711-00000165-kyodo-int

このまま対策が行われなければ、今世紀、10億人の人間が「タバコ」のせいで死ぬそうです。

なんとも…

私が思うに、「タバコを吸う人は、人間として劣っている」と。

その昔、その危険性が語られていない頃に、中毒になってしまった方々は、その限りではないと思いますが、35歳(この数字は微妙かつ適当です)くらいまでの喫煙者は、当てはまるのではないかと思います。

まず、きっかけ。
これだけ、タバコが体に悪い、かつ止められなくなると騒がれているにも関わらず、タバコに手を出す。

次に、止められない人。
中毒になってしまっているので、しょうがないのかもしれませんが、それでも、止めた人はたくさんいます。それなのに、止めれない、または止めない。

その他。
ストレス等のはけ口をタバコに頼ることにより、非喫煙者よりもストレス耐性が著しく低いと考えられる。
箱に、「あなたの健康を害する恐れがあります」と書いているにも関わらず、平気で吸う。自分の体に関する危機管理が出来ていないということです。

自分の体に異常が生じることにより、他人にどれだけの迷惑がかかるか理解できていない。

副流煙を他人に吸わせることが、どれほどの迷惑か理解できていない。

etc・・・

最後の方は、マナーの問題でもある気がしますが、それでも、以上を考えると、人間として優っていると言うよりかは、劣っているといっても過言ではないのではないかと思います。
皆さん、突然ですが、自分の事が好きですか?

私は、「どちらかというと好きかな?」というくらいです。

実は、自分の事が好きなのか嫌いなのか、これって重要なことだと思うんです。

自分が好きな人は、すごく自分に自信を持っています。
だからこそ、自分の行動に迷いがない。
迷いがないので、どんどん先に進みます。
そして、毎日が楽しそうです。

それに、人と話をしても、自分に自信があるので、言葉の雰囲気に説得力があります。

こういう人の近くにいると、すごく行動しやすいです。

逆に、嫌いな人は、自分に自信がありません。
だからこそ、言動に迷いがでる。
迷いがあるので先に進めない。
だから、自暴自棄になる。

こういう人の近くにいると、すごくやりにくいものです。

あくまでも、傾向ですけどね。

どっちが良いのでしょう?
ワールドカップ終わりましたね…
ジダンよ、頭突きはまずいだろう…

さて、本日のお話。
「人の値」という名前のサイトがあったような気がします。
自分の価値をお金で表そうというお遊びサイトです。

でも、人の存在の価値って何なんでしょう?

6月10日の「私の存在」に書いた通り、存在は他との関わりだと思います。

人間も、他と関わりあうことに価値があるのです。

そこで、その価値がいかほどのものなのか?

ヴァルハートさんは、社会貢献だと言います。(http://diarynote.jp/d/51081/20060707.html中頃より少し上)

要は人の役にたつこと。実はそうなのかもしれません。

それは、もちろん仕事についてもですが、他のこと全てで言えることだと思います。

自分は何のために存在するのか?

生物学的にいうと、人類という遺伝子を後世に残していくことです。しかし、人類と言うか、ある程度繁殖に成功した生物は、そのことに重きをおきません。

そうなると、自分が人に対して、役に立っているのか?

人に認められているのか?

そこが、存在価値になるのかもしれません。

そのために、どう行動するのか?

難しいのかもしれません。
人それぞれ考え方、価値を置くものが違うこと、それを理解すること。
私は、そこが一番大切だと思います。

意外と、このことを理解できていない人が多いのです。
私自身も、このことに気が付いたのは、つい最近です。

私が普段ここに書いていることは、なるべく、人が考えないようなことを書こうと思って書いています。
しかし、そんな考え方があっても良いと思うんです。

もちろん、ここに書いているようなことを常に考えているわけではありませんし、ここに書いてあるようなことを全て行動に移しているわけでもありません。

あくまでも、こんな発想で物事を考えても良いんじゃない?と言いたいのです。

それに対して、皆さんが、コメントを書いてくださる。
それも、1つの考え方なのです。

私の書いていることも、コメントをくださった方の書いていることも、また、皆さんのブログに書いていることも、1つの考え方なのです。

ある人は、「私は、常に自分の意見を否定できるだけの逆の考え方を持っている」と仰っていましたが、正にそういうことですよね。

自分で全てを行うか、人との違いで考えるかの違いになります。

もちろん、全てが正解です。間違いなどありません。
本人が思うこと、信じることを、信じるままに、思うように行動したので良いのです。

しかし、そういう色んな考え方に耳を傾け、「世の中にはこんな考え方があるのかぁ」ということを知ることによって、新しい価値が見出せるでしょうし、次に同じような考え方を持った人と出会ったときに、その人をすんなり受け入れることができるようになるでしょう。

自分には、全く、理解できない価値観の人も、その人がなぜ価値をそこに置くのか判れば、もしかしたら、自分も同じものに価値を見出せるかもしれません。

皆さんも、TVや映画、本を薦められて、自分も見て、あるいは読んでみたら、意外と面白く、好きになったという経験があると思います。
全く同じ話です。

ただし、その中で、ルールを守ることと、人を気遣うことは、大切なことだと思います。しかし、これも私の考え方でしかないのですけれどもネ。

ブログという文化1つをとってもそうなのです。

私のように、「秘密日記は使いません」と公言するのも1つの考え方。
ブログをエッセイとして人に伝えることに力を入れるのも1つの考え方。
自分に向かって書くのも1つの考え方。
仲間感覚でじゃれあうのも1つの考え方。
孤高に自分の思考を文字にして世間に訴えるのも1つの考え方。
敢えてヒミツで本音をこそっと書くというのも1つの考え方。
***と表現するのも1つの考え方。

正解などないのです。
ここが規則も決まりも無い自由な場所であるからこそ、「DiaryNoteって面白い」(5月9日)、「ブログの薦め」(7月6日)と思うのです。
一昨日のFruitsさんのコメントで、昨日、今日、明日と書こうと思っていた内容を全て書かれてしまい、Fruitsさんにおいしいとこ全て持っていかれた気分ですが、気にせずに、書きたいことを書いていこうと思います。

私の戯言が、常に正しいとは、全く思っていません。

もちろん、皆さんのご意見が常に正しいとも思っていません。

「価値を置くもの」シリーズで何度も書いてきたように、人がどこに価値を置くかは、本当に人それぞれです。

その中で、どういうことに価値を置くかで、人の考え方や、行動は変わってきます。これも「価値を置くもの」シリーズで書いてきました。

正しいこととは、その人が正しいと思ったことが正しいことなのです。

もちろん、それが違憲であったり違法であったりすることもあるでしょうが、それでも、自分が正しいと思ったことが、正しいことだと思います。

しかし、人それぞれ考え方が違うということは、10人の人間がいれば、10通りの考え方があるわけです。
そして、その10通りの考え方は、全て正しいのです。

もちろん、明らかに間違っていると思うような考え方もあるでしょうが、それはしょうがありません。考え方が違うのですから。

そして、そういう時のための憲法、法律、ルールなのです。考え方がずれた時のためのルールです。

しかし、私が一番大切だと思うことは、そこを理解することだと思います。

次回に続く。

価値を置くのもシリーズ
「価値を置くもの」(5月15日)
「価値を置くもの(2)」(5月16日)
「価値を置くもの(3)」(6月25日)
「価値を置くもの(4)」(6月30日)
人の「こころ」って何だろうと考えたとき、人の「想い」や「考え」ではないのだろうかと思いました。

人は皆違っています。1人1人、皆様々な事を考え行動します。
好きなことも違えば、嫌いなことも違います。

自分では思いもしなかったことを、あの人は、すぐに思いつきます。
まさか自分の言動が、あの人をここまで傷つけているとは思いもしなかったりします。

このようなこと全てが、「こころ」だと思います。

しかし、この「こころ」が人間一人一人によって違うということを、本当の意味で理解している人は意外と少ないようです。私もそうでした。

友人達は「あの人のここが嫌い」とか、「この人のここが許せない」とか、様々な愚痴を言います。
もちろん、人間一人一人が違うので、他人の言動が許せないときもあります。

しかし、なぜその人がそう言うのか、なぜそういうことをするのかを考えて、その人の言動を理解してみると、今まで許せなかったことも、許せるようになるかもしれません。
他人の「こころ」の中を理解しようと周りを見ることができるようになれば、世界が変わってくると思います。

その人の言動に、ただ我慢するのではなく、なぜそうなのかを考える。
もし、それがわかれば、我慢する必要がなくなるかもしれません。

そして、新しい価値観が生まれるかもしれません。
我慢することなく、その人と付き合えるかもしれません。

それって、とても素敵なことではないのでしょうか?
最近、大いに気になっていた、左側にあるアンケート「血液型って性格と関係あると思う?」。個人的見解を述べてみたいと思います。

心理学会は否定していますが、私的見解はその大小はわかりませんが、関係あると思っています。

まずは、性格とは?
1 行動のしかたに現れる、その人に固有の感情・意志の傾向。「ほがらかな―」「夫婦の―が合わない」
2 特定の事物にきわだってみられる傾向。「二つの問題は―が異なる」「趣味的―の濃い団体」(YAHOO!辞書より引用)


外からみた性格と言うのは、個々に現れる行動や考え方の傾向と解釈したので良いのでしょうか?

まず、性格に遺伝的要素がないのか?ということです。

もちろん、性格の殆どが、後天性のものである事は、周知の通りです。私も、それを否定するつもりはありません。

しかし、遺伝的要素は本当にないのでしょうか?

以前から要所要所で書いていると思いますが、男と女では、脳のつくりが違います。もちろん、それにより、考え方や行動に差がでてきます。男と女では、生物学的に違うという見解もしてきました。

そこで、考えてみたいと思うのは、これは、先天性の性格の違いと表現できないかということです。

男と女の遺伝子の差は、たった一つです。そのたった一つの塩基配列が違うだけで、ここまで性格に差ができるのです。

そして、ここでもう1つ考えたいのが、後天的影響のない、赤ちゃんの性格は、全て同じなのかと言うことです。赤ちゃんにだって好みがあるでしょう。行動パターンだって、一人一人違うはずです。

と言うことは、性格は、先天的要素もあると言えるのではないでしょうか?

そして、先天的要素があるのならば、それは、遺伝子の問題になってきます。

遺伝子の違いから性格の違いが現れるのであらば、もし、共通の遺伝子を持った2人がそこにいれば、性格にも共通点が出てくるのではないかと思います。

これを踏まえて考えてみます。

血液型は、A抗体があるのかないのか?B抗体があるのかないのか?で決まります。詳しいことはわかりませんが、これがそのまま、遺伝子に反映しているようです。

つまり、血液型が同じ人間は、同じ遺伝子を持っていると言うことになりませんか?
さらに言うと、その同じ遺伝子が、先天的性格を作り上げる上で、共通点を見い出すことがあってもおかしくないと思います。

もちろん、性格を決める上で、その血液型を決める遺伝子よりも優勢な遺伝子が他にあれば、血液型による特徴が出てこないこともあるでしょう。
また、あくまでも、先天的性格を形成するので、本人の努力、周囲の影響により、歳をとるにつれて目立たなくなるでしょう。

しかし、こう考えると、血液型と先天的性格に関係がないと言い切るほうが難しいのではないかと考えます。

心理学会は、否定していますが、私は、無関係ではないと思います。

もちろん、あくまでも、先天的性格に限りますけれども。
しかし、後天的性格を形成するのに、先天的性格が影響しないとも言えないとは思います。三つ子の魂百までと言いますし。

誰か、この理論をぶっ壊してくれる方を募集します。コメントお願いします。
最近、一致団結とか、皆でワイワイとか、皆で1つになってとか、そういう行為が減っている気がします。

それだけ、価値が多分化されてきたのです。

以前は、全ての価値が「富国強兵」にあり、次は「経済的な満足」になりましたが、今は「心の満足」にシフトしてきています。

21世紀は、心が満足しての幸せなのです。

では、どうすれば心が満足するのか?その答えはありません。

それは、皆、価値を置くものが違うからです。

さて、その中で、最初に書いたような、皆でワイワイとか皆で1つになってとか、そういう行為に対しても、価値があると思う人と、思わない人に分かれてきています。

もちろん、それが当然な流れなのかもしれません。

そしてもう1つ、6月25日の「価値を置くもの(3)」に書いたように、ある程度年をとると、何故か皆でワイワイとする時に、酒が付いてきます。
もちろん、それが悪いことだとは思いませんが、「価値を置くもの(3)」に書いたような、意見が出てきて、参加したくないということもあるでしょう。

しかし、何度も書いていますが、人間は1人では生きていけません。1人では生きていけない以上、ある程度、一致団結をしたり、その楽しみ系として、皆でワイワイといったことが、必要だと思います。

その中で、こういった一致団結を推奨する人は、団結したがらない人間を説得するべきだと思います。6月16日の「北朝鮮人権法案から考える」にも書きましたが、3割の人は、反抗します。そんな人に屈する必要はないのです。それを打ち負かすだけの理論武装をしてください。
そして、なぜ酒が必要なのか、きっちり説明して説得してください。

自分が楽しみたいからではなく、人を楽しませるには、どうすれば良いのかを考えてください。

古い伝統を盾に、自分の考えを押し付けるのではなく、なぜ、その伝統を行使したいのかを説明してください。

もう、「伝統だから」、「前からやっているから」という理由では誰も納得しません。

それが、価値の多分化だと思います。

古い伝統に価値を見出せなくなってしまった人に、「伝統だから」という言葉は、何の力もありません。

例えば、「はじめ人間ゴン」に出てくるような石のお金に、「昔はお金だったから」と言う理由で、お金の価値が出ますか?出ません。
しかし、「このお金は、考古学的に価値があるから、高値で取引ができますよ」と言えば、若干の価値が見出せるでしょう。

この2つの話、大きくは違わないと思います。
価値を置くものは人それぞれ違います。

例えば、酒。

大学生にもなると、なぜか、何かごとの席には必ず酒があります。これは何故か?私には理解できません。
また、皆で友好を深めましょうといって、酒を飲む。これまた理解できません。

最近は、特に、酒を飲みたがらない人が目立ってきました。これもなぜでしょう?

そこで、私が思うことは、例えば、単純に酒が好きな人は、こういう場を楽しみにしているでしょう。
そして、酒を飲んで、酔っ払うのが好きな人も嬉しいでしょう。他にも、飲み会の雰囲気が好きな人も楽しめるでしょう。などなど。

学生ですから、1回の飲み会の金額は3000円前後です。
上記のような人は、3000円くらいは、はした金でしょう。楽しみにしているのですから。

しかし、単純に酒が嫌いな人、酔っ払いが嫌いな人、こういう場が嫌いな人etcは、3000円も払ってまで、そういう場に参加する理由がわかりません。

そして、例えば、こう思うでしょう。お金がもったいない。学生ですから、3000円もあれば、下手をすると1週間くらい食いつなげるでしょう。それを一晩で使ってしまうのです。

そう思うと、最初のうちは我慢もするでしょうが、そのうち「行きたくないなぁ」と思っていきます。そして、行かなくなります。その人にとって、価値がないからです。

しかし、周りの楽しんでいる人は、「何で行かないの?行こうよ。皆で友好を深めなきゃ」と説得にかかります。でも、本人は、そこが理解できないのです。

例えば、楽しみたいのなら、遊園地にでも行けば良いでしょうし、友好を深めるのに、なぜ酒が必要なのか?と。わざわざ酒がなければ友好は深められないのか?高校までは、酒なしで楽しくやってたじゃないと。

不思議です。なぜ酒がなければならないのか?

そして、私個人がこういう話を聞いて思うことは、逆に、こういう人たちが友好を深めるためにと、例えば遊園地ツアーを組んだり、映画にでも誘ったとしましょう。酒好きの人は、友好を深めるために参加しますか?
多分、しないと思います。

これはこれで、不公平じゃないですか?憂鬱な時間に大金を払って参加している人にとっては、ありえない身勝手な行為に感じるでしょう。
よく、「アナログな人間」とか「デジタルな人間」という言葉を耳にします。

「アナログな人間」は、古い人間、時代に乗り遅れた人間という意味で使い、「デジタルな人間」は、融通のきかない人、頭の固い人という意味で使われています。どちらもあまり良い意味では使われてないようです。

今日はそれとはちょっと違ったお話を。

アナログにはアナログの良さがあり、デジタルには、デジタルの良さがあります。
アナログの良さは、無段階な連続性です。
デジタルの良さは、白黒はっきりしていることです。
したがって、日本人はアナログ的性質が強く、欧米人はデジタル的性質が強いのでしょう。
私個人の感覚としては、欧米に比べ、日本がデジタルになじめていない、言い換えれば、デジタルの導入が遅いのは、そのためではないのだろうかと思います。
しかし、自然はある一定の段階に区切って表現されるものではなく、連続性を持って日々変化していくものです。したがって、本来なら、自然の一部である人間もまた、連続性をもったアナログな存在です。特に、曖昧を好む日本人は、まさに、アナログな存在です。そんな人間がデジタルを扱うのですから、不自然さや、違和感を覚えるのは当たり前の話です。
もっとも、万物の根源は原子をはじめとする粒子であり、結局、その原子が有るか無いかで全てが決まっています。もし、その部分まで、区切ることができれば、それは、デジタルで表現せざるを得ない世界でしょう。
つまり、もし、デジタルとして無段階に、区切ることができれば、それはアナログでありデジタルな世界なのかもしれません。
今現在、デジタルの世界は急速に進歩し、1と2の間の1.5を、そして、その間の1. 25を表現できるようになっています。そう遠くない未来、無段階に区切ることができるデジタルの世界がやってくるでしょう。今はその過渡期です。
しかし、その時に忘れてはいけないのは、それでも、その間に曖昧な部分が存在し、特に日本人は、その曖昧な部分を愛していたということを。
昨日、TVを見ていたら、トップキャスターの中で、生瀬さんが、感動的なことを言っていました。紹介します。

昨日、娘に絵本を読んでやったんですよ。
「ちゃっかりネズミ」て言うんですけど、ご存知ですか?
一匹のネズミがいましてね、このネズミが、わがままな王様をあの手この手で騙して、出世していくんですよ。最後には、こいつが王様になるんですけどねぇ、これがまた嘘つきなネズミで、子どもの絵本てのは、意外と真実ついてますよ。生きていく上で嘘も大事です。真っ直ぐ歩いているだけじゃぁ、壁にぶつかる。汚れるのを恐れているだけじゃぁ、外にも出られなくなる。曲がったり、汚れたりすることも、生きていく上で大切なんじゃぁないんですか?

昨日読んだのは、「おひとよしキツネ」というお話なんです。
これは、「ちゃっかりネズミ」とは違って、わがままな王様の言うことを聞かず、本当のことを正直に話したばっかりに、村を追い出され、独りぼっちになってしまったキツネのお話なんです。そうしたら、そのお話を聞いた娘が言ううんですよ。この間読んだ話と違う。「ちゃっかりネズミ」と言っていることが違う。「おひとよしキツネ」と「ちゃっかりネズミ」、確かに全然違うお話です。一方では、生きるために嘘をつけと言う。一方では、何があろうとも正直に生きろと言う。娘がね、聞くんですよ。キツネさんとネズミさん、どっちが正しいと思う?って。私は、ついつい本音で答えてしまいました。キツネさんの方が正しいよ。大事なのは、正直に生きることだよ。例え、苦しかろうとも、笑われようとも、貧しくなろうとも、何よりも大事なのは、正直に生きることだよ。お父さんが嘘ついちゃ駄目じゃないですか?
いいか?お前達。俺達は会社員じゃねぇ、報道マンだ。この仕事に、誇りを持って働いているんだ。

感動的な台詞です。

本当に、正直に生きていきたい。そして、自分の行動に自信と誇りを持ちたい。と常々感じています。
こんな事は、おそらく誰もが多かれ少なかれ感じていることでしょう。
しかし、これを実行できている人が1人でもいるのでしょうか?

確かに、嘘をつくことも時と場合によっては、大切なことだと思います。
しかし、それでも、自分には嘘をつきたくない。

たとえ、人には嘘をついても、自分にだけは嘘をつきたくない。そんなことを感じます。
kajさん6月7日の「道徳の上の法」にコメントありがとうございました。この返信は、本文に書ける内容だと思いましたので、遅くなりましたが、こちらで返信させて頂きます。

ヒトは、何も特別な生き物でもなければ、最終進化系でもないと思います。

しかし、ヒトは特別な存在です。

理性とか思考なんてのもヒトだけにしかないというのは、ヒトが勝手に決め付けた「決まり事」の一つでしかないんじゃないでしょうか?同様にして「道」だの「徳」だのって言葉すらもヒトの驕りでしかないんじゃないでしょうか??(kajさんのコメントを引用)


たとえ、ヒトが驕っていたとしても、ヒトは、ヒトであることに、誇りを持つべきだと思います。

生物は、種の存続のために、他の生物に対して、差別化を図らなければなりません。

これは、会社という意味でも当てはまると思います。
私のバイト先の社長が、「この分野での一番は、私だ。二番は○○(社員)で、三番目は△△(社員)だ。そういう気持ちで、仕事をしなければならない」と仰っていました。

そうなんです。例え違っていたとしても、そういう気持ちは大切なわけです。

生物として、他の生物よりも優れているからこそ、生態系の中で生き残っているのです。
当然として、他の生物達は、他の部分でその他の生物よりも優れているわけです。

もし、人間が、その理性や思考を売りとするのならば、そこの部分に他の生物よりも優れているという自信と誇りが必要なのです。
その自信と誇りが無ければ、この弱肉強食の生態系の中で生き抜くことは難しいはずです。

どの生物においても言えることですが、自分達の種族は、他の生物に対して特別な種族なのです。
そして、これは、その生物の中での個々の個体にも当てはまります。

しかし、人間の社会という限られた環境の中では、4月27日の「人はなぜ生きていけるのか?」に書いたとおり、その限りではありません。
人は弱者を守ります。必ずしも他者よりも優れていなければ、生きていけないわけではありません。
それが、人だと思います。
(もちろん、他の生物でも、このような傾向は見られるでしょう。従って、なにも、ヒトだけそうであるとは言えないとは思いますが。)

つまり、ヒトという種族が、他の生物よりも優れていると思い込むことは、それは、生物として、正しい行動であり、その結果、他の生物を駆逐していくことも、それは生物として当然の行動なのです。たとえ、それがヒトという種を絶滅に追い込む行動であっても、それは生物の進化の上で、全くもって、生物らしい行動なのです。

しかし、人は、弱者を守ることができる生物です。それは、生物として、一歩前に進めている証拠ではないでしょうか?

そして、その優れている部分が、最近損なわれている気がするのです。

それは、ヒトがヒトでなく、ただの生物になりさっがていっていると言うことではないかと感じているのです。
人には、様々な気持ちがあります。

例えば、A君の料理が上手なところは好きだけど、A君の字が下手なところは嫌いだったとします。
では、A君のことは好きなのでしょうか?嫌いなのでしょうか?
これは、また違った話です。

つまり、A君のことが好きな自分と、嫌いな自分がいるのです。

物事は、ドンドン細分化することができます。しかし、その細分化したものの集合体が、その物なのです。

つまり、細分化すればするほど、様々な部分が見えてきます。しかし、普段はその細分化した全ての集合体を見ているのです。
科学の世界では、こうやって細分化し、それぞれの干渉を見極めることによって、解明していきますが、人間において、そんなことは必要ないのではないかと思います。

心理学的には、自分のことを4つに分けることができるそうです。
1つめは、自分も他者も知っている自分
2つめは、自分しか知らない自分
3つめは、他者しか知らない自分
4つめは、自分も他者も知らない自分

例えば、寝ているときに、いびきをかいていたとします。普通、いびきを自分がかくかどうかはわかりません。つまり、2です。しかし、一緒に寝た人から、「いびきかいてたよ」と言われれば、それは、1になるのです。

こうやって、ドンドン自分の事を知っていくのです。

さて、自分の事を知れば知るほど、自分の事がわからなくなると思います。それが細分化にあたります。
本当の自分って?とか思い始めるかもしれません。

自分だって、物事ですから、細分化すればするほど複雑になっていきます。

A君を好きな自分もいれば、嫌いな自分もいるわけです。はたして、自分はA君のことを好きなのか嫌いなのかわからなくなるでしょう。

しかし、そんなに気にする必要があるのでしょうか?人は、細分化した自分を見るのではなく、その集合体を見ています。自分から見た自分もそうです。
もっと、直感的に、自分を眺めれば良いのではないでしょうか?

意外と簡単な存在であるのかもしれません。

しかし、こういうことを悩むこと自体が、とても楽しい事でもあり、そして、生きていく上で大切なことになってくるのかもしれません。

以上、少し古い話ですが、以前、颯子さん、kajさんが書いておられたのを見て、書いてみました。
合わせて読んでみると、面白いのではと思います。
http://diarynote.jp/d/71129/20060527.html
http://diarynote.jp/d/54244/20060527.html

追加:kajさんからコメントを頂きました。
そちらも合わせて読んでみてください。

私の存在

2006年6月10日 人間
人間に関わらず、一部の例外を除いて全ての物事において、そのモノの存在価値は、他との関係にあると思います。

ココに私という人間が存在しても、他との関係がなければ、その存在を証明するものもなければ、意味すらも疑問になります。

自分という存在は、他者との関係により、存在の証明と意味を得るのです。

それが例え幻だとしても、他のものに影響を与えることにより、その幻の存在が証明されるのではなでしょうか?

これは、生き物だけでなく、この宇宙に存在する全てのモノに当てはまると思います。

コンピュータ上の実体のないコンテンツ達も、例外ではありません。

存在するという事実よりも、他と関係があるかが、そのものの存在価値になるはずです。

さて、ここで人間についてですが、人間は、人間同士で関わりあう生物です。
お互いがお互いを干渉しあいます。

これは、進化の過程において、分業制が発展し、1人が1人で生きるのではなく、多数の人間が多数の人間で生きるように進化したためです。1人で生きていくためには、全てを自分で行わなければいけませんが、今は、労働の対価としてお金を手に入れ、そのお金を使い、食料をはじめとする生活に必要なものを手に入れるのです。

人間は、一人では生きていけないように進化してしまったのです。
人は、人と関わることで生きています。関わらなければ生きていけません。

生物に、雄と雌ができた時点で、生物は、その個体だけで生きていくことはできなくなってしまったのです。

自分の言動に、意味はないと思っているかもしれませんが、必ず何かに影響を及ぼします。

その中で、自分がどのような分業を担っていけるかが、大切なのではないでしょうか?

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