06月16日付 朝日新聞の報道「対北朝鮮法案「成立を評価」 拉致家族会が会見」へのコメント:

ヴァルハートさんをはじめ、結構、話題になっているようです。

たまには、リアルタイムで社会問題をとりあつっかおうと思います。

そういえば、こんな法案があったなぁ・・・と思ったのが第一印象。

内容もよく知りませんし、批判点も把握できていないのが現状です。
マスコミもあまり取り上げていないのも事実です。

しかし、その中で感じることは、まず、基本方針には反対するつもりはありません。
そして、北朝鮮への経済制裁も反対しません。と言いいますか、各国への援助自体が、あまり賛成できないと思っています。

その上で、批判点の概要を調べて感じたことは、政治家ってバカだよね。

住基ネットや郵政民営化に関してもそうなんですが、基本方針は概ね賛成なのですが、そこにたどり着く過程がおかしいのです。
摺り合わせよりも、もっと大切な事があるでしょう。
国のためにどうすれば良いかを考えてほしいです。

何をするにおいても、3割の人は反対します。これは、心理学的に立証されていることです。

その中で、反対意見と意見を摺り合わせるのではなく、反対意見を潰せる理論武装ないしは、前提での対策をするべきです。

反対意見に、ここが駄目なんじゃないの?と言われたならば、中間地点で妥協するのではなく、駄目であるところを駄目でなくなるように、意見を強化するべきだと思います。
特に、政治家や市民団体の中には、意地や面子、私利私欲のために、頭ごなしに反対するとんでもない奴がいます。本当に、そのことについて、どうすれば良いかを考えていないのです。
そんな理由で反対する連中に、自分の意見を曲げる必要なんてありません。
しかし、無視するのもどうかと思います。
もっと、自分の考えに自信を持って、立ち向かえるようになって、反対意見を叩きのめして欲しいところです。

そして、叩きのめしてもいないのに、無視して先に進まないで欲しいと思います。

何もこれは、別に政治の世界だけで言える事ではなく、ごく普通の個人間の間でも起こっている話だと思います。

日本代表

2006年6月12日 社会
ワールドカップが始まりました。

オリンピックもそうですが、お祭り好きの日本人としては、大いに盛り上がるべきイベントでしょう。

さて、今回のワールドカップの結果は?

マスコミ的な報道は、2勝1分(1敗)で決勝リーグ出場の可能性は十分にあるとのことですが、どうなのでしょう?

トリノもそうなのですが、マスコミが盛り上げすぎて、能力以上の期待をさせておき、駄目だったら、必要以上に残念がる。最近の国際試合には、そういった構図が出来上がっています。
私自身は、お祭りですから、そういった展開にもっていって、お祭りを盛り上げるということ自体には肯定的です。場の空気が、実力以上の力を発揮させるということも少なくありませんから。
しかし、マスコミの駄目なところは、負けた後のフォローをしないということです。

さて、そんなマスコミ批判は置いといて、最近の日本代表のコメントで気になる点があります。

それは、「楽しむ」です。

この言葉、意外と、問題発言なのです。

私も又聞きなのですが、やはり、古い考え方の人は、「楽しむな。税金を使っているのだから、やるからには勝て。勝てないなら行くな」と。

やはり、そうなんでしょうか?

私自身は、オリンピックもワールドカップも、参加することに意義があると思いますので、ドンドン参加していただきたいと思います。
また、スポーツは楽しんでもらいたいと思いますので、「楽しい」とか「楽しめた」とかいうコメントも別に否定するつもりはありません。

ただ、1つ気になる点は、本当に、コメントが、「楽しい」「楽しめた」だけで良いのですか?と問いたいです。

一昔前の選手達は、「皆様のおかげでここまで来ることが出来ました。ありがとうございました。」と口をそろえて言っていました。

ここまでこれたのだって、本人がここまで頑張ったからこそであって、別に視聴者にお礼を言うようなことではないと、当時は思っていました。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

どんな人だって1人では生きていけません。いろんな人に助けられることによって生きています。これは、何度も書いてきました。

スポーツ選手だって同じです。いろんな人に助けられ、そして、理解していただけた結果、ここまで頑張ることが出来たのはずです。

さらに、多かれ少なかれ、ワールドカップやオリンピックに出場するにあたり、必ず、税金が投入されていることでしょう。これは、国民全員の理解があってこその結果です。

別に、選手一人の力でここまで来れたとは、とうてい思えません。

もちろん、一番頑張ったのは、選手自身ですので、選手自身が一喜一憂して、スポーツに取り組んで欲しいと思います。
その結果が勝とうが負けようが、本人が納得できるのであれば、それで十分だと私は思います。

コメントだって、今の選手の方が、人間味にあふれているコメントが多くて好きです。
「ちょー気持ちいい」とか「くやしいー」とか。

でも、選手がここまで頑張れたのは、自分だけの力ではないことはきちんと理解して、感謝するところは感謝して、大会に挑んでいただきたいと思います。

と言うことで、頑張れ日本!!
法は、日本国憲法にはじまり、法律、条令と続きます。そして、その下に校則や社則というものが存在するのです。下位の法は、上位の法に反することができません。つまり、絶対の日本国憲法に反する法律は、本来ありえないのです。

上位の法では、かなりザックリと基本的な枠組みを明記し、その不足部分を下位の法で補足するのです。
そして、さらに補えない部分を私たち国民の道徳で補うのです。

最近、買収問題をはじめ、法律違反ではないが、この道徳に反する問題が多く取り上げられています。

しかし、この道徳とは本当に最下位の法なのでしょうか?

それは、それで違います。この道徳という法は、日本国憲法よりも上位の法でもあるのです。
道徳的に許せないことを、法律という形で、誰でも参照できるように、共通の認識として、文章として明記しているのです。しかし、全てを明記することは不可能ですし、逆に、人それぞれ価値観が違うため、細部まで共通の認識として全てを統一することは、不可能です。
そのために、法として明記できない部分は、道徳で各自が補完するのです。そのため、道徳が最下位の法でもあるのです。

しかし、最近、この道徳に反することを行っているという事件が多いです。もちろん、法によって裁ける事件も多いです。が、法は、裁くためにあるのではないのです。あくまでも、法は、日本人の共通の認識として、文章にしただけの道徳なのです。
その証拠に、罰則のない、ただ禁止しているだけの法律も数多くあります。

なぜ、人を殺してはいけないのでしょう?なぜ、人を騙してはいけないのでしょう?なぜ、人を傷つけてはいけないのでしょう?
刑法で禁止され、罰則があるからですか?

どうしようもない、理由で刑法を犯してしまうこともあるでしょう。限界を超えてしまい、刑法を犯すしか道がなかった人もいるでしょう。

しかし、最近のニュースは、そうでない場合が多いように感じます。
かの有名な古代ギリシャの哲学者「ソクラテス」のお言葉です。
倫理や世界史の授業で習った方も多いと思います。

この言葉は彼が死ぬとき、残した言葉だそうです。

私自身、ソクラテスの生き方や考え方に賛同するつもりもありませんが、この死に方とこの言葉だけは、すごいと思います。

彼は、罪に問われ、死罪が決定しました。そこに弟子達がやってきて、逃亡を薦めました。しかし、彼は、その言葉に耳をかさず、自ら毒の入った杯を飲み干したのです。この様子は、Wikipediaにありますので興味のある方はどうぞ(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/David_-_The_Death_of_Socrates.jpg)。

私に言わせてもらえれば、馬鹿ですね。それに、そんなに簡単に逃げられるような状況であるのがまた、馬鹿ですね。

しかし、この言葉には感動しました。

「どんなに間違った法であっても、今はその法が法である以上、従わなければならない」と言うのです。それが、自分の命を奪うものであっても。

私、この言葉が大好きです。実にわかりやすい。そして、説得力があります。

現在の法に対して、様々な議論がされています。君が代に関しても、天皇制に関しても、戦争放棄に関しても…etc。しかし、今は現行の法が、法なのです。例え、それが間違っていても。
過去に何があろうが、未来に何が起ころうとしていても、今は、今の法が法なのです。従って、変わるまでは従う必要があります。それが、法治国家における国のあり方であるはずです。
ISBN:4063603245 文庫 三枝 義浩 講談社 2002/08 ¥525

あゆみさんから、5月27日の「ナイトとお姫さま」にご指摘がありました。
まず、ご指摘を頂いた上で、簡単にではありますが、自分なりに調べさせて頂いた結果、ここでの引き合いに、特攻隊の話を出すことは、あまり適切ではなかったかもしれません。
私自身、当時のことを深く知っているわけもありませんので、浅はかな考えであると思います。

しかし、いくら教育されたからとは言っても、会ったことのない天皇のために、自らの命を投げ出せた人が何人いたでしょうか?
以前、週間少年マガジンで、当時の特攻隊の生き残りの方を取材して、描かれた漫画が掲載されていました。(単行本化され3冊にまとめられています。また、このシリーズは現在も健在で毎年夏になると掲載されています。最近はイラク戦争、アフガニスタンなど、最近の事例が取り上げられています。)
そこで、当事者達の心情として描かれていたのは、やはり、天皇のためではなく、家族や恋人に対する思いからということでした。
また、特攻自体は、志願制であり、本人の意思であったと表現されていました。(しかし、当時、特攻を本当に断れる環境にあったかどうかは、定かではありません。)

また、天皇のため、国のためであったとしても、それは、自分以外の他者のための行動であり、そこには、自分に対しての損得感情がないため、議論上における問題はないかとは思います。

私の中での特攻というものは、そういう風に解釈していたため、このような表現をさせて頂きました。

せっかくなので、この騎士道の話をさらに、掘り下げてみたいと思います。

このマガジンのシリーズで、アメリカ軍の視点から書かれた沖縄の地上戦の話もありました。
この特攻という行為が、アメリカ軍には理解できない、未知の攻撃であるという表現がされていました。また、同時に、次々と玉砕していく日本兵に対しての、疑問と恐怖も描かれていました。

日本人とは、特にそういう自分を犠牲にしても、他人のため、自分の大切な人のために命を投げ出すことができる民族なのです。

たとえ、それが当時の教育における副産物であったとしても、それは、とても素晴らしいことだと私は思います。(命を投げ出すことが素晴らしいのではなく、そう思えることが素晴らしいと私は思っています。)
昔、某総理の問題発言の中に、「神の国発言」というものがありますが、彼はその中で、当時の教育の中にも良いことはあったと公言しているそうです。私は、当時の教育について、詳しい事実を知りませんが、こういう自己犠牲の部分に対しての発言ではないかと思います。

ただ、この精神が、当時の情勢をいっそう泥沼化していったことは、間違いない事実だとは思います。

そして、この表現に対して、不快に感じられる方も、いらっしゃるかもしれませんので、その点、お詫びいたします。

しかし、例えば、こんな話があります。

つい先日も、ニュースでやっていましたが、数年前に、琉球大学にアメリカ軍のヘリコプターが墜落しました。
この事故による犠牲者がいなかったのは、本当に良かった事だと思います。しかし、大学の校舎の上にヘリコプターが墜落、炎上しても犠牲者が出ずに済むなんて、奇跡でしょう。この事故の犠牲者0は、奇跡なのです。
この時、中に乗っていたアメリカ兵は、脱出して無事でした。

そして、この事件の数年前に、日本の自衛隊のヘリコプターが墜落する事故がありました。
この事故は、田舎で起こった事故ではありますが、田んぼに墜落したため、一般人の犠牲者は0でした。
しかし、乗っていた自衛官は、残念ながら亡くなられました。

さて、この一見、同じような事故ですが、大きな違いがあります。

それは、操縦士の生死です。

以上の内容で、あなたは、次のどの意見を支持しますか?あなたが、操縦士(事故を起こした当事者としてではなく、その他の一般操縦士)だと思って考えてください。

1.米軍の事故は、誰も犠牲にならなかったので、米軍の操縦士は正しい。
2.米軍の操縦士の脱出するという判断は、たとえ犠牲者が出ていたとしても、自分の生命を守るためにはしかたのない判断だった。
3.操縦士の生命維持のためにも、自衛隊は様々観点から、今後、訓練、装備等を見直すべきだ。

全ての意見を支持する方もいらっしゃると思いますし、どれも支持しない方もいらっしゃるでしょう。
話が中途半端になってしまいましたが、私の見解は、後日改めて書くということで、今回はここで終了させていただきます。
良ければ、皆さんの意見をコメントに残していただけませんか?お願いします。
続いて、「君が代」が国歌であることについてです。
国歌を歌うのが嫌なのか、「君が代」を歌うのが嫌なのかで、話はかなり違ってきます。

「君が代」の歌詞の意味ですが、簡単に言うと『「君が代」が未来永劫、長く長く繁栄しますように』という意味です。

そして、問題視されているのは、この「君が代」が何を指すかです。

Wikipediaによりますと、本来、この「君が代」はあなた(君)をさす言葉だったそうで、結婚式などで、「その夫婦が、末永く幸せに過ごせますように。」と願いを込めて歌っていたそうです。

しかし、明治時代、「君が代」を国家に指定する際、「君が代」の意味に、天皇を当てるという解釈が生まれたようです。

天皇賛美の考えに通じるために、否定するというのです。

私自身、日本の天皇制には疑問を感じます。今の日本に、天皇は必要ないと思います。天皇に、あれだけの税金を使うのも間違っていると思います。

しかし、日本国憲法には、「天皇を日本の象徴とする」と書かれています。そう書かれている以上、誰が何と言おうと、天皇は日本の象徴なのです。日本の象徴、つまり、日本という形ないものの、存在を明確にするための代替品。言い換えれば、日本そのものという解釈ができるわけです。象徴とはそういうものです。

つまり、「君が代」を「天皇」と解釈した場合、現行の制度では、「君が代」=「日本」なのです。

「日本が末永く、繁栄しますように」という意味になります。なんて素晴らしい国歌でしょう。否定する意味がどこにあるのかがわかりません。

単純に、天皇制否定派が苦し紛れに言った、くだらない戯言のように聞こえてきます。天皇制を否定する方々は、もっときちんとした理論武装をして欲しいものです。

そして、もう1つの否定意見。「君が代」が軍歌であったため、ふさわしくないと言う意見。
確かに、その通りです。こればっかりは、否定できません。しかし、「君が代」を歌うことが、その頃の軍国主義に戻る直接的な原因になるとは思えませんし、「君が代」は、軍歌として登場した歌でもないので、特に大きな問題はないと思います。
ダイナマイトだって、原子力だって、戦争に使われましたが、今は、なくてはならない存在として、立派に平和利用されています。「君が代」も、そういう存在になることができるはずです。

さて、以上を考えると、私は国歌「君が代」を歌わない理由はないのではないのかとは思います。

しかし、私以上にしっかりした意見を持った、「君が代」否定派の方もおられると思います。
その中で、大切なのは、まず、国歌を歌うことに、どのような意味があるのか、そして、「君が代」をどう思うのか。こういった部分を、しっかり考えた上で、歌うのか、歌わないのかを決めるべきなのです。

今の日本では、そういった部分を何も考えずに、「強制するのは良くない」だの、「国歌を歌うことが愛国心に直接つながらない」だのと、結果のみを議論しています。
確かに、その通りです。「強制することは良くない」ですし、「国歌を歌うことが愛国心に直接つながる」とも思えません。
しかし、その歌わなくても良い理由を教育せずに、小学生に、「国歌は、歌いたくなければ、歌わなくても良いよ」と指導するのは、単純に国歌を、もっと言えば、国を愚弄していることになります。小学生には、単純に、「国歌は歌っても、歌わなくても良い、どうでも良い存在なのだ」と聞こえるでしょう。

そんな表面上の教育しかしていないので、教育基本法に「愛国心」なんて、法律用語としては、くだらない言葉が登場するのです。しょうがないですよね。先生が、書かないとわからないのですから。
自分の考えも持たない教師が、世論を盾に、しょうもない指導をするから、教育基本法が、ありえない方向に流れていくのです。

私は、国に国民が守られていることは、事実だと思います。その国に、感謝する気持ちがあっても良いのではないかと思います。

最後に、城崎レイさん、ヴァルハートさんリンクありがとうございます。
私の世代は、日の丸、君が代が学校で問題になり始めた頃でした。

しかし、その頃から、理解できないのが、なぜ、君が代を歌うことが問題になるのか?と言う事です。

現実問題、現在の小中学校では、半分くらいの子ども達が、歌わないそうです。

おそらく、歌う人間も、歌わない人間も、自分がなぜ歌わないのか?なぜ歌うのか?を明確に説明できる人はいないと思います。
これは、大人も子どもも合わせてそうだと思います。

特に、たかが小学生が、自分がなぜ君が代を歌わないのか、理由を言えるわけがありません。

では、逆に、なぜ、国歌を歌う風習があるのでしょう?

その本当の意味は私にもわかりません。
しかし、私なりの解釈はあります。

まず、国歌とは、その国の歌です。つまり、その国を象徴するものです。

例えば、市町村や都道府県の木や花ってありますよね?これだってその市町村や都道府県を象徴するものです。
もっと言えば、例えば、観光地を象徴するものってありますよね。例えば、東京タワーはその1つと言えるでしょう。
つまり、国や、市町村、観光地など、形がないものを表現するために、その表現方法として、象徴的なものを準備し、それを代替品とするのです。

その代替品を大切にすることによって、形のない、具体的に大切にできないものを間接的に大切にするということになります。

と言うことは、皆で国家を歌うと言うことは、その国を大切に思うということであると共に、自分がその国の一員であるということの表れなのです。

4月27日の「人はなぜ生きていけるのか?」に書きましたが、私たち人間が生きていけるのは、国に守られているからです。

その守ってもらっている存在に対し、感謝し、大切に思う気持ちは、なくてはならない感情ではないでしょうか?

私は、国家を皆で歌うということには、このような意味があると思います。
ですから、私は、皆で国家を歌う機会があれば、歌います。それが、守ってもらっている存在に対しての礼儀だと思うからです。
先日、社会人の友人と話をしていて言われました。
「会社になんか守ってもらえない」と。

そうかもしれませんね。
あっさり切られるかも?

しかし、少し考えてみてください。

なんで、あなたは、働くことができるんですか?どうして、暮らしていけるんですか?

それは、会社があなたを働かせてくれているからではないですか?

もちろん、世の中「GIVE AND TAKE」ですから、何も会社に与えてくれない社員に、会社は何も与えてくれないでしょう。
場合によっては、切られるでしょう。

しかし、少なくとも、働かせてもらっているうちは、会社という後ろ盾に守ってもらっているのは間違いないでしょう。

例えば、「○○さん、○○さん」と言って、仕事を持ってきてくれていた人、あるいは会社が、その○○さんが独立した瞬間、そっぽを向く。

こんな話はよく聞く話です。

これは、△△会社という信用ある会社の○○さんだからこそ、仕事を任せられていたのであって、○○さん本人が信用されていたわけではなかったと言う話です。

また、「満を持して起業する」と言うのもよく聞く話です。
そういった方々は、クレジットカードが作れないそうです。
なぜか?
その会社に信用が無いからだそうです。

金貸しも、不良債権を抱えたくないので、安定した収入源のない人には、貸せないそうです。

いつ潰れるかもしれない会社の人間は、安定した収入源をもっているとは解釈してもらえないそうです。

安定した、信用された会社だからこそ、自分も社会的に安定した位置にいられると言うわけです。

これを会社に守られると、私は表現しています。

まぁ、学生の考えることですので。

さて、最後になりましたが、舌足らずさん、みみさん、リンクしてくださってありがとうございます。
まだ、ここのシステムがよく理解できていないので、まずはお礼だけ。
機会がありまして、「創価学会ってどう思う?」と聞かれました。

私自身、創価学会のことを良く知らないので、コメントしがたい部分はあるんですが、それでも、勝手な思い込みからコメントさせて頂くと、以下の感じになります。

私個人としては、全く支持しません。それは、よく聞く噂などから判断した結果です。

しかし、それは、その辺で聞く批判からではなく、それとはちょっと違った見解です。

一度、私のところにも勧誘に来たことがあるんですが、私達学生が実際に参加する部分は、私がここに書いているような事をテーマとして皆で話し合う場だと思います。

実際、私がここに書いてある内容は、独断と偏見に満ち満ちていますが、書いているテーマというのは、生きていくうえでとても大切な部分だと思っています。特に、人とのつながりという部分はとても重要な部分です。

しかし、こういった話は、普段の実生活での、コミュニケーションや、人との関わりの中から、自然と身につけていったり、考えていったりする部分だと思っています。

実際、私自身も人とのコミュニケーションの中で、様々な方々やTV、本の意見を参考にし、自分で考え導き出した考えです。

こういった内容のことは、宗教によって、人から教わるものではありません。
実生活の中で、時には困り、時には悩み、時には喜び導き出すものです。

そして、導き出した自分の考えと他の人の考えを、照らしあわそうと思い照らし合わせるのではなく、ある時、ひょんなことから、何の前ぶりもなく、他の人の意見に触れ、その時、初めて、自分の考えと照らし合わせてみるものだと思います。

もし、宗教によって布教されてしまうと、まず、自分の意見を持つ前に、人の意見を知ってしまうことになります。

それでは、不味いわけです。
あくまで、まずは自分の意見を持つことが大切なのです。

そして、もし、自分の意見を持っていたとしても、宗教による布教には問題があります。

それは、1対1で話をしているのなら良いですが、おそらく、1(布教する側)対多数(布教される側)又は、多数(布教する側)対1(布教される側)でしょう。
まず、前者であった場合、一緒に聞いている周りの人は、とにかく納得しているでしょう。そして、もし、納得していなくとも、そういう場では、納得しているふりをしていると思います。
そうなると、その場では、その布教される内容が、正しいという空気になってしまいます。

そして、後者の場合、自分の周りは、すでにそういった思想の持ち主ばかりです。そうなると、もちろん、そこの空気は、その布教される内容が、正しいという空気です。

人間は、多数意見に従う生き物です。
そうなると、その内容が正しいという錯覚におちいってしまうでしょう。
そして、簡単に洗脳されてしまうでしょう。

洗脳されてしまっては、問題です。洗脳されてしまうと、白装束でその辺をウロウロし始めたり、地下鉄にサリンをまいたりし始める可能性だってあるわけです。(これは極論ですが)

しかし、洗脳されるというのは、そういうことです。
そして、宗教が洗脳を目的としているかというと、それは違います。しかし、宗教というものは、布教する側にその気がなくても、結果的にそうなっている可能性が高いと言う事はできると思います。

話を戻しましょう。

まずは、自分の意見をもち、その上で、他の人の意見と照らし合わせ、自分の意見と、人の意見を対等な立場において、それらの意見を吟味することが大切なのです。

そうするためには、人の意見を聞くときに、「これから人の意見を聞くぞ」という心構えがあってはいけません。
あくまで、話半分くらいで話をしなければ、その意見に耳を傾けすぎ、洗脳されてしまうからです。

話す人間は、自分の考えが正しいんだとすごい勢いで話します。そして、「これから話すぞ」という気持ちでしっかり準備をしてから話すと、その勢いは倍増します。
それでは、また、洗脳されやすくなってしまいます。
あくまで、話すほうも、話半分くらいで話さなければいけません。

こう考えると、こういう事を話し合いませんか?という勧誘は、私は間違っていると考えます。

あくまで、聞くほうも、話すほうも、話半分くらいで、なんとなく考える。
そうすることがちょうど良いコミュニケーションだと考えています。

その結果、人の意見が正しいということになれば、次からは、それが自分の意見ですし、自分の意見が正しいと思えば、それからもその意見を貫けばよいわけです。たいていは、足して割るという結果になるとは思いますが。

以上のような考えから、創価学会という宗教的組織は、個人的には賛同できません。

しかし、ここで1つ思うことは、現代社会において、以上のようなコミュニケーションがしっかり取れている人がどのくらいいるのかということです。
私個人の感覚としては、ほとんどの人ができていないのではないかと思います。

そういった背景で、このようなことを訴えたところで、あまり意味はないのではないかと思います。

まずは、どう思うのかということを強制的にでも考える機会が必要なのではないかと思います。

そういう部分では、創価学会のような組織が、提案して考えさせるという部分は必要ではないのかとは思う部分はあります。

しかし、あくまで、私個人は、否定しますが。
さて、1日おいて、さらにニートについて考えていきたいと思います。

正直な話、私は、ニートとは無縁の世界にいます。
私自身、就労意欲がなくなるとは思っていませんし、私の周りにもそんな人は存在しません。

これから書くことは、そんなニートとは無関係な人間の意見であるということを念頭において読んで欲しいです。

ニート対策として、様々なことが唱えられています。
例えば、杉村太蔵議員なんかがTVで訴えてます。

しかし、この様々なことを訴えている人もまた、無縁であったり、縁遠い人が多いことを忘れてはいけません。

さて、話を戻します。

ニートがなぜ増加するのか?

やはり、この超氷河期と呼ばれる就職難の背景に、就職できずモチベーションが下がってしまったというのもあるとは、思いますが、私に言わせてみれば、そんな背景は甘えや、言い訳でしかありません。

まず、1つの問題は報道です。
社会問題であるとは思いますが、そこで、持ち上げて、社会のこんなところが問題であるとか、こういう背景があるとか、あたかもニートに正当性を持たせた報道をすることによって、ニートが正当なものだと言うことを、ニート予備軍にもたせていることです。
そしてもう1つ。ニートという言葉があまりにも浸透してしまい、「なんだ、自分もニートで良いや」と思わせてしまっている部分です。

もちろん、報道による周知はとても大切なことだとは思いますが、知る必要のないことや、知らなかったほうが良かったこと、または、間違った方向性の報道と言うのもあると思います。
報道関係者は、そのあたりも考えて頂きたい所です。

さて、次にあげられるのは、松本紳助で松本人志も言っていましたが、フリーターもそうですが「ニート」と言う言葉がかっこよすぎます。もっと聞くのも言うのも恥ずかしいような名前でなくてはいけないと思います。

しかし、ここで、昨日の話に戻しますが、人間は守られているから、生きていけるのです。

今行われている対策のほとんどや、ニートの周りの人間は、ニートを守りすぎていると感じます。

守られるためには、それなりの対価を支払う必要があります。
日本国憲法における三大義務のうちの「納税の義務」、「労働の義務」の2つの義務を果たせていない上に、果たそうと言う意欲もない。こんな人間に、日本国憲法の規定する「最低限度の生活を営む権利」を主張して良いもでしょうか?
そして、保護する必要があるのでしょうか?

厳しいようですが、私はそう思います。

もっと、厳しく、そして、その気のある人に対して、もっとサポートをしていくべきだと思います。

本当にその気になって、そのつもりで頑張れば、必ず、誰かが助けてくれるし、何とかなるもんものだと思います。
しかし、本人にその気がなければ、誰が手を差し伸べても、その手をつかまなければ、全く意味がありません。
どうにかなるものも、どうにもなりません。

私は、そう思います。

そうやって、ある程度追い詰められると、人間は変わらざるを得ません。良い意味で変われるか、悪い意味に変わってしまうかはわかりませんが…
しかし、その変わった時、周りの人間や国、社会がきちんと接してあげれれば、上手く解決できるのではないでしょうか?

あまいかもしれませんが。
人間はなぜ生きていけるのでしょうか?

人間は間違いなくあっさり死にます。簡単に溺れるし、高いところから落ちれば死ぬ。

自然界には人間より強い動物はたくさんいて、その動物に襲われれば、死んでしまうことも少なくありません。

それでも、人間が安心して生きていけるのはなぜでしょう?

それは、人間が弱者を守るからです。
人間は弱者を守るために群れを作ります。
そして、もし守りきれなくても、その人を諦めません。

それが人間です。

良いところでもあれば、悪いところでもあります。生物学的に人間が繁栄するためには、明らかに間違っています。しかし、それが人間です。

今現在、その群れとは社会です。自然と人間の社会を隔離し、より、安全な世界を作り出そうとしてきました。警察や軍隊は、その社会を守るために存在します。

社会によって守りきれないものをさらに小さい群れ(例えば学校や家族)が守ります。親や先生は子どもたちを守るものです。そして、老いた両親は子どもが守る。

最近のニュースを見ていると、それが機能していない部分もありますが、それが、人間の作ってきたルールです。

私はただの学生です。
親や学校、先生が守ってくれているからこそ、勉強ができ、そして、生きていけているわけです。もちろんその部分には感謝していますし、また、親や学校、先生は守る義務もあるわけです。

そして、社会人になってもそれは変わりません。
自分の所属している会社に守られています。守られているからこそ、仕事ができるのです。

会社に守られていないと感じる人でも、多分守られていると思います。

そして、どうしてもそう思えない人でも、社会や国が守ってくれています。

少なくとも、日本国憲法には、「全ての国民は、最低限度の生活を営む権利がある」明記されています。

このように、人間は、守られ、守り、生きているのではないでしょうか?
今回はニートについて考えてみようかと思います。

ニートとは?
一般に言われているのは、就労意欲がなく、仕事をしていない人のことです。

では、ニートはなぜ発生するのか?

単純に、はなっから就労意欲の無い人、夢破れてモチベーションが下がってしまった人、リストラにあい、就労意欲が無くなってしまった人、本当に原因は様々だと思いますが、全てに共通して言えることは、就労意欲がないと言うことです。

この就労意欲が無いと言うのは、どうにもならないのでしょうか?

しかし、このことを考える前に、1つ考えたいのは、なぜ、仕事をしなくても生きていけるのかです。

なぜでしょう?

一般に言われているのは、親のスネをかじっていると言うことです。

そして、次に考えたいのは、仕事もせず、勉強もせず、いったい何をしているのかです。

これも、一般論になってしまいますが、ひたすら親の金で遊んだり、家に引きこもってゲームしたり、ただひたすら寝ていたり…

以上の2点から、まず、問題なのは、仕事をしていないのに、生きていける環境があることです。

本来、生物が生きていくうえで、自分の食を自分で確保することは、必要最低限のことです。それができていないと言うことは、自然界では生きていけないということです。

まずは、その辺りに問題があるのは間違いないでしょう。

続く

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