コンピューターはツールです。あくまでも、人間の生み出した道具です。そう、はさみや鉛筆と同じです。

さて、「そんなことはわかっているよ」と思える人は問題ないのですが、どうも、そうは思えない人がいるのも事実のようです。

システムエンジニアの方とお話しする機会がありまして、その時、「コンピューターは道具だよね?」と聞かれ、「そうでよね」と答えると、「そう思っていない人がいるから」みたいな話をしていただきました。

コンピューターは便利です。特に、インターネットにつながったコンピューターは、便利すぎます。

便利すぎて、道具であることを忘れてしまい、何か特別な存在だと思い込んでしまう傾向があるようです。

まず、コンピューター上のコミュニケーションですが、コンピューターに向かっていると、電話と同じように、コンピュータの向こう側に人間がいることを忘れてしまいがちです。
これは、コンピューターが、長い間コミュニケーションツールではなかったからでしょう。

コンピューターは、人間が与えた処理を、高速に処理するだけのものであった時代の方が長いのです。
本来のコンピューターは、自分に服従するものなのです。

最近は、インターネットのために購入している人も多いようですが、それでも、コンピューターは、人間が与えた処理を、高速に処理するために購入するのです。

また、家庭で初めて触ったコンピューターが、ファミコンである人も、少なくないはずです。

さらに、インターネットにおけるホームページも、ほとんどが、閲覧専用のページです。

これが、何を示すのかと言いますと、コミュニケーションツールとして利用できるコンピューターも、実は、人間が与えた処理を、高速に処理するためのツールである部分の方が大きいと言うことです。

その中で、ホームページの作製や掲示板の利用は、コンピューター上で行うコミュニケーションです。

電話は、相手がいなければ、存在価値はほとんど0です。
また、聴覚で、相手を直接的に認識することができます。
したがって、電話はコミュニケーションツールとして認識するのです。

しかし、コンピューターは違います。コミュニケーションツールとしての認識よりも、高速演算装置としての認識の方が強いのです。
五感で感じることもできません。

したがって、コンピューターの向こうにいるはずの人間を意識できないのです。

意識できないため、相手を気遣えない、または、自分しか見えない自分勝手な存在になってしまうのです。

と、こんな見解は、もう過去のものなのかもしれません。今は、さらにもう一歩先に進んでいる。そんな気もします。その内容については、また後日。
城崎 レイさん、私もそう思います。
それなのに、昨日は勝ってしまいました。
でも、大丈夫、今日からまた20連敗の壁に挑戦してくれることでしょう。

よく、アンチ巨人?と聞かれますが、そういうわけではありません。

私は、巨人のような、自分が一番偉いんだと勘違いしている輩が嫌いです。
こういう人は、全てが自分の思うようになると勝手に思い込んでいると共に、他人に気を使うことができないでしょう。

何度も書いていますが、人間は1人では生きていけません。
その為、人は人に頼らなければ生きていけません。

しかし、こういう人は、助けてくれる人たち全てを、自分の駒だとしか思っていないのです。そして、もし、思い通りにならなければ、制裁を加える。

制裁が怖くて、誰も反抗できなくなる。

そうすることによって、さらに、自分に力があるように演出する。

悲しく、そして、繁栄していかない形です。

もし、本当に野球界の繁栄を望んでいるのであれば、今のそのやり方を変えれば良いのに、それはしない。自分の権力がなくなるから。または、全く理解していないか。

やはり、人と人の繋がりです。

お互いが、気を使いあえない関係では、絶対にどこかで躓きます。

形には出せなくても、心の中では、お互いを認め合う。

せめて、このレベルくらいはもっていないと、上手くいくはずがない。そう思います。

自分さえ良ければ、他はどうでも良いのか?

他の人がいてくれるからこそ、自分がいられるということを理解していないのか?

他に球団があるからこそ、試合ができるのに、そこを理解できていない。

理解できていないからこそ、合併なんて話が出てくるのです。

あれは、巨人に対する、セ・リーグに対する反旗だと思っています。イマイチ上手くいっていませんでしたが。

そんなものです。

別に首都圏の人が偉いわけではないのです。

地方で頑張っている人の方が偉いのです。トヨタだって、松下だって、首都圏にはありません。

それを、首都圏だけで全てが決まっているように演出する。
首都圏が一番偉いんだと演出する。地方は駒だと演出する。

地方あっての首都圏なのに…

悲しい話です。若干、見直されてはいますけどね。
最近、大いに気になっていた、左側にあるアンケート「血液型って性格と関係あると思う?」。個人的見解を述べてみたいと思います。

心理学会は否定していますが、私的見解はその大小はわかりませんが、関係あると思っています。

まずは、性格とは?
1 行動のしかたに現れる、その人に固有の感情・意志の傾向。「ほがらかな―」「夫婦の―が合わない」
2 特定の事物にきわだってみられる傾向。「二つの問題は―が異なる」「趣味的―の濃い団体」(YAHOO!辞書より引用)


外からみた性格と言うのは、個々に現れる行動や考え方の傾向と解釈したので良いのでしょうか?

まず、性格に遺伝的要素がないのか?ということです。

もちろん、性格の殆どが、後天性のものである事は、周知の通りです。私も、それを否定するつもりはありません。

しかし、遺伝的要素は本当にないのでしょうか?

以前から要所要所で書いていると思いますが、男と女では、脳のつくりが違います。もちろん、それにより、考え方や行動に差がでてきます。男と女では、生物学的に違うという見解もしてきました。

そこで、考えてみたいと思うのは、これは、先天性の性格の違いと表現できないかということです。

男と女の遺伝子の差は、たった一つです。そのたった一つの塩基配列が違うだけで、ここまで性格に差ができるのです。

そして、ここでもう1つ考えたいのが、後天的影響のない、赤ちゃんの性格は、全て同じなのかと言うことです。赤ちゃんにだって好みがあるでしょう。行動パターンだって、一人一人違うはずです。

と言うことは、性格は、先天的要素もあると言えるのではないでしょうか?

そして、先天的要素があるのならば、それは、遺伝子の問題になってきます。

遺伝子の違いから性格の違いが現れるのであらば、もし、共通の遺伝子を持った2人がそこにいれば、性格にも共通点が出てくるのではないかと思います。

これを踏まえて考えてみます。

血液型は、A抗体があるのかないのか?B抗体があるのかないのか?で決まります。詳しいことはわかりませんが、これがそのまま、遺伝子に反映しているようです。

つまり、血液型が同じ人間は、同じ遺伝子を持っていると言うことになりませんか?
さらに言うと、その同じ遺伝子が、先天的性格を作り上げる上で、共通点を見い出すことがあってもおかしくないと思います。

もちろん、性格を決める上で、その血液型を決める遺伝子よりも優勢な遺伝子が他にあれば、血液型による特徴が出てこないこともあるでしょう。
また、あくまでも、先天的性格を形成するので、本人の努力、周囲の影響により、歳をとるにつれて目立たなくなるでしょう。

しかし、こう考えると、血液型と先天的性格に関係がないと言い切るほうが難しいのではないかと考えます。

心理学会は、否定していますが、私は、無関係ではないと思います。

もちろん、あくまでも、先天的性格に限りますけれども。
しかし、後天的性格を形成するのに、先天的性格が影響しないとも言えないとは思います。三つ子の魂百までと言いますし。

誰か、この理論をぶっ壊してくれる方を募集します。コメントお願いします。
最近、とんでもないことばかり書き綴っていますので、少々、調子に乗って、書きたいことを書いてみたいと思います。

颯子さんが、「DiaryNoteの秘密日記って、***だよね。」と言われたそうです。(http://diarynote.jp/d/71129/20060705.html)

読ませていただいて、その例えは、どうかと思いますが、そういう発想が出てくることには同感です。

私は、秘密日記を使用しませんと公言していますが、これには訳があります。

まず、秘密日記は、一部の人にしか読めないものです。これはこれで、評価できるものであるとは思います。
しかし、私は、せっかくのブログです。自分の考えや、思ったことを表現し、そしてそれを多くの人に見ていただきたいと感じ、ブログを書かせていただいています。

もし、不特定多数の人に見てほしくないのであれば、それは、DiaryNoteを利用させていただく必要はありません。
個人的に、勝手に紙のノートにでも書いて、満足しておけばいいのです。

そして、誰かとコミュニケーションをとる場合は、コメント機能があります。そして、人に見られては困る内容でしたら、電子メールを利用すれば良いと思います。

これが、私の秘密日記を利用しない理由です。

さて、これを逆に考えると、私は、皆さんのブログを見せていただきたいのです。
どんなことを考え、どんなことを思ったのか。そして、どうしたのか?

せっかくのブログです。読みたいし、知りたいのです。
そして、それが、私自身の勉強になると共に、書いた人の自己表現の甲斐もあったものだと思います。
そして、誰のブログにどのように感じたのか等も知りたいのです。

だからこそ、コメント機能を利用したいのです。

そこに、「今日は秘密のみ」とか「続きは秘密にて」とか「秘密に○○さんへのメッセージあります」とか書かれていると、がっかりします。
せっかく、読みに来たのに、読めない。

せっかくの自己表現の場を無駄にしている気もします。

しかし、考え方を少し変えれば、見解が180度変わってきます。

逆に、さらに進化したコミュニケーションととることもできるでしょう。不特定多数の人には見せたくなくても、人に知ってもらいたい内容もあるでしょう。
そういうことを書くのに、秘密日記は、最適です。

秘密日記は、普通の人には見えません。書いていても、書いていなくても、それはわかりません。見えないのですから。

では、なぜ、秘密日記を書いていることがわかるのか?
簡単です。書いていると、本文に書いているからです。わざわざ、書かなくても、見る人が見ればわかります。そして、見えない人には、見えません。そして、気になりません。

DiaryNoteは、特定のブロガーさんと個人的なコミュニケーションを取るだけの場所ではありません。
ちょっと来た人や、相互リンクをしていない人に対しても、読みやすい配慮が必要ではないかと思います。

音姫との関連性についても書きたいのですが、あまりにも話が汚くなってしまいそうなので、自粛します。

せっかくの秘密日記です。便利な部分の方が多いはずです。上手に使っていただきたいものだと思います。
颯子さん、ジャスミンさん、kajさん、先日の「秘密日記」にコメントありがとうございます。
颯子さんのコメントを読ませていただき、そういった楽しみ方もあるのかと非常に感心した同時に、自分の了見の狭さが恥ずかしいです。

さて、それを踏まえて本日のテーマに移りたいと思います。

私は、ブログはすごいと思います。
未だかつて、こんなにたくさんの人の心を知ることができる文化があったのでしょうか?

ブログの良いところは、まず、匿名性が高いところです。
匿名性があることにより、日常の愚痴を書かれている方も少なくありません。しかも、かなり突っ込んだ内容が書かれていることが多いです。普段の話では聞けないようなことが書かれています。
つまり、普段知りえない話を読むことができるのです。

次に、地域による壁がないことです。
北海道の人が、沖縄の人の考えを、日常的に聞けるのです。
いわいる県民性というのがあります。やはり、地方により風習はもちろんのこと、そこに住む人々の性格にも傾向が出てきます。
その中で、違う地域の人の意見が、読めるというのは、とても素晴らしいことです。

そしてなにより、自分の嫌いなタイプの人間の考えや意見を読むことができます。
やはり、仲の悪い人の意見を聞くことはなかなか難しいことだと思います。
しかし、ブログだと、なんの問題もなく、その人の考え方を読むことができます。
そして、読んだという事実は、基本的に自分にしかわかりません。

どうしても、類は友を呼んでしまい、似た人が集まってしまいます。その中で、いくら話をしたところで、所詮、それは「井の中の蛙」でしかありません。

外に飛び出さなければいけないのです。
しかし、それは、なかなか難しい。

そんな時、ブログを読むという行為は、実は、居ながらにして、大海に飛び出せる行為なのです。

もちろん、ジャスミンさんの仰られる通り、あくまでも、読んだ人間の主観になってしまいますが、それは、会って話をしたところで同じことです。

インターネットって、すごいですよね。

もちろん、皆さんが書いて下さっていてくれるからこそ、読むことができるのですが、私は、書くことよりも、読むことに、ブログの価値はあるのではないかと思います。

また、皆さんが書いてくださるコメントも、非常に大きい存在です。

だからこそ、万人が気持ちよく読めるブログを書きたいと思うと共に、皆さんのブログも、そうであったら良いのになと思うのです。
間違っても***なんて、表現されてしまうようなものを書いていては、いけないのではないか、と思います。
人の「こころ」って何だろうと考えたとき、人の「想い」や「考え」ではないのだろうかと思いました。

人は皆違っています。1人1人、皆様々な事を考え行動します。
好きなことも違えば、嫌いなことも違います。

自分では思いもしなかったことを、あの人は、すぐに思いつきます。
まさか自分の言動が、あの人をここまで傷つけているとは思いもしなかったりします。

このようなこと全てが、「こころ」だと思います。

しかし、この「こころ」が人間一人一人によって違うということを、本当の意味で理解している人は意外と少ないようです。私もそうでした。

友人達は「あの人のここが嫌い」とか、「この人のここが許せない」とか、様々な愚痴を言います。
もちろん、人間一人一人が違うので、他人の言動が許せないときもあります。

しかし、なぜその人がそう言うのか、なぜそういうことをするのかを考えて、その人の言動を理解してみると、今まで許せなかったことも、許せるようになるかもしれません。
他人の「こころ」の中を理解しようと周りを見ることができるようになれば、世界が変わってくると思います。

その人の言動に、ただ我慢するのではなく、なぜそうなのかを考える。
もし、それがわかれば、我慢する必要がなくなるかもしれません。

そして、新しい価値観が生まれるかもしれません。
我慢することなく、その人と付き合えるかもしれません。

それって、とても素敵なことではないのでしょうか?
一昨日のFruitsさんのコメントで、昨日、今日、明日と書こうと思っていた内容を全て書かれてしまい、Fruitsさんにおいしいとこ全て持っていかれた気分ですが、気にせずに、書きたいことを書いていこうと思います。

私の戯言が、常に正しいとは、全く思っていません。

もちろん、皆さんのご意見が常に正しいとも思っていません。

「価値を置くもの」シリーズで何度も書いてきたように、人がどこに価値を置くかは、本当に人それぞれです。

その中で、どういうことに価値を置くかで、人の考え方や、行動は変わってきます。これも「価値を置くもの」シリーズで書いてきました。

正しいこととは、その人が正しいと思ったことが正しいことなのです。

もちろん、それが違憲であったり違法であったりすることもあるでしょうが、それでも、自分が正しいと思ったことが、正しいことだと思います。

しかし、人それぞれ考え方が違うということは、10人の人間がいれば、10通りの考え方があるわけです。
そして、その10通りの考え方は、全て正しいのです。

もちろん、明らかに間違っていると思うような考え方もあるでしょうが、それはしょうがありません。考え方が違うのですから。

そして、そういう時のための憲法、法律、ルールなのです。考え方がずれた時のためのルールです。

しかし、私が一番大切だと思うことは、そこを理解することだと思います。

次回に続く。

価値を置くのもシリーズ
「価値を置くもの」(5月15日)
「価値を置くもの(2)」(5月16日)
「価値を置くもの(3)」(6月25日)
「価値を置くもの(4)」(6月30日)
人それぞれ考え方、価値を置くものが違うこと、それを理解すること。
私は、そこが一番大切だと思います。

意外と、このことを理解できていない人が多いのです。
私自身も、このことに気が付いたのは、つい最近です。

私が普段ここに書いていることは、なるべく、人が考えないようなことを書こうと思って書いています。
しかし、そんな考え方があっても良いと思うんです。

もちろん、ここに書いているようなことを常に考えているわけではありませんし、ここに書いてあるようなことを全て行動に移しているわけでもありません。

あくまでも、こんな発想で物事を考えても良いんじゃない?と言いたいのです。

それに対して、皆さんが、コメントを書いてくださる。
それも、1つの考え方なのです。

私の書いていることも、コメントをくださった方の書いていることも、また、皆さんのブログに書いていることも、1つの考え方なのです。

ある人は、「私は、常に自分の意見を否定できるだけの逆の考え方を持っている」と仰っていましたが、正にそういうことですよね。

自分で全てを行うか、人との違いで考えるかの違いになります。

もちろん、全てが正解です。間違いなどありません。
本人が思うこと、信じることを、信じるままに、思うように行動したので良いのです。

しかし、そういう色んな考え方に耳を傾け、「世の中にはこんな考え方があるのかぁ」ということを知ることによって、新しい価値が見出せるでしょうし、次に同じような考え方を持った人と出会ったときに、その人をすんなり受け入れることができるようになるでしょう。

自分には、全く、理解できない価値観の人も、その人がなぜ価値をそこに置くのか判れば、もしかしたら、自分も同じものに価値を見出せるかもしれません。

皆さんも、TVや映画、本を薦められて、自分も見て、あるいは読んでみたら、意外と面白く、好きになったという経験があると思います。
全く同じ話です。

ただし、その中で、ルールを守ることと、人を気遣うことは、大切なことだと思います。しかし、これも私の考え方でしかないのですけれどもネ。

ブログという文化1つをとってもそうなのです。

私のように、「秘密日記は使いません」と公言するのも1つの考え方。
ブログをエッセイとして人に伝えることに力を入れるのも1つの考え方。
自分に向かって書くのも1つの考え方。
仲間感覚でじゃれあうのも1つの考え方。
孤高に自分の思考を文字にして世間に訴えるのも1つの考え方。
敢えてヒミツで本音をこそっと書くというのも1つの考え方。
***と表現するのも1つの考え方。

正解などないのです。
ここが規則も決まりも無い自由な場所であるからこそ、「DiaryNoteって面白い」(5月9日)、「ブログの薦め」(7月6日)と思うのです。
ワールドカップ終わりましたね…
ジダンよ、頭突きはまずいだろう…

さて、本日のお話。
「人の値」という名前のサイトがあったような気がします。
自分の価値をお金で表そうというお遊びサイトです。

でも、人の存在の価値って何なんでしょう?

6月10日の「私の存在」に書いた通り、存在は他との関わりだと思います。

人間も、他と関わりあうことに価値があるのです。

そこで、その価値がいかほどのものなのか?

ヴァルハートさんは、社会貢献だと言います。(http://diarynote.jp/d/51081/20060707.html中頃より少し上)

要は人の役にたつこと。実はそうなのかもしれません。

それは、もちろん仕事についてもですが、他のこと全てで言えることだと思います。

自分は何のために存在するのか?

生物学的にいうと、人類という遺伝子を後世に残していくことです。しかし、人類と言うか、ある程度繁殖に成功した生物は、そのことに重きをおきません。

そうなると、自分が人に対して、役に立っているのか?

人に認められているのか?

そこが、存在価値になるのかもしれません。

そのために、どう行動するのか?

難しいのかもしれません。
皆さん、突然ですが、自分の事が好きですか?

私は、「どちらかというと好きかな?」というくらいです。

実は、自分の事が好きなのか嫌いなのか、これって重要なことだと思うんです。

自分が好きな人は、すごく自分に自信を持っています。
だからこそ、自分の行動に迷いがない。
迷いがないので、どんどん先に進みます。
そして、毎日が楽しそうです。

それに、人と話をしても、自分に自信があるので、言葉の雰囲気に説得力があります。

こういう人の近くにいると、すごく行動しやすいです。

逆に、嫌いな人は、自分に自信がありません。
だからこそ、言動に迷いがでる。
迷いがあるので先に進めない。
だから、自暴自棄になる。

こういう人の近くにいると、すごくやりにくいものです。

あくまでも、傾向ですけどね。

どっちが良いのでしょう?
本当は昨日の続きを書こうと思っていたのですが、ちょっとニュースを見ましたので、急遽変更します。
今回は、完全に、超個人的な意見です。

こんなニュースを見ました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060711-00000165-kyodo-int

このまま対策が行われなければ、今世紀、10億人の人間が「タバコ」のせいで死ぬそうです。

なんとも…

私が思うに、「タバコを吸う人は、人間として劣っている」と。

その昔、その危険性が語られていない頃に、中毒になってしまった方々は、その限りではないと思いますが、35歳(この数字は微妙かつ適当です)くらいまでの喫煙者は、当てはまるのではないかと思います。

まず、きっかけ。
これだけ、タバコが体に悪い、かつ止められなくなると騒がれているにも関わらず、タバコに手を出す。

次に、止められない人。
中毒になってしまっているので、しょうがないのかもしれませんが、それでも、止めた人はたくさんいます。それなのに、止めれない、または止めない。

その他。
ストレス等のはけ口をタバコに頼ることにより、非喫煙者よりもストレス耐性が著しく低いと考えられる。
箱に、「あなたの健康を害する恐れがあります」と書いているにも関わらず、平気で吸う。自分の体に関する危機管理が出来ていないということです。

自分の体に異常が生じることにより、他人にどれだけの迷惑がかかるか理解できていない。

副流煙を他人に吸わせることが、どれほどの迷惑か理解できていない。

etc・・・

最後の方は、マナーの問題でもある気がしますが、それでも、以上を考えると、人間として優っていると言うよりかは、劣っているといっても過言ではないのではないかと思います。
実は、少し前まで、自分の事が大嫌いでした。
自分の存在に意味はあるか?自分の事を好きと思ってくれる人はいるのか?とすごく自分に自信がなかったと共に、そんな自分が嫌でした。

しかし、ある時すごくもてた時期がありました。
女の子数人に囲まれて、「こころさん大好き」と言われました。

そういう経験がなかったので、すごく嬉しかったです。

今思えば、その頃から、自分の事が嫌いではなくなっていました。

その後も、私のことを認めてくれる女性に出会いました。結局、その人とは駄目になってしまいましたが、今でも私にとって、掛替えのない存在です。

今でも、自分の事を大好きだとは思えませんが、それでも、以前よりも自分に自信が持てるようになりました。

人に認められるというのは、実は、すごく大切なのかもしれません。

公共広告機構のCMで、「あなたが大切だと言われるだけで頑張れる」と言っています。

人に認められるからこそ、自分を認められる。自分が認められるからこそ、自信が持てる。自信があるからこそ、自分を好きになれる。

自分が好きだからこそ、人も好きになれる。人が好きだからこそ、人を大切にする。

そんな気がします。
自分を認めて欲しい…

結局、この言葉に全てが集約されているのかもしれません。

ヴァルハートさん(http://diarynote.jp/d/51081/20060707.html中頃より少し上)は、「どうすれば自分を他人が必要としてくれるのか、それを必死に考えいろいろやってみたら、目は勝手に生き生きしてくる。」と書いていました。

それもそうですね。自分を好きになるためには、人に好かれなければならないのかもしれません。そのためには、まず、認めてもらう。
そのために、努力をする。これは当たり前のことです。

でもね、ちょっと待ってください。

本当に、あなたは万人に嫌われているのですか?全ての人があなたを必要としていないのですか?

そんなことないですよ。きっと誰かは、あなたのことを大切だと思ってくれています。
ほとんどの両親は、そう思っているでしょう。学校の先生方もそう思ってくれているでしょう。
そして、恋人。配偶者。過去に自分の事を好きだと言ってくれた人。etc…

もし、あなたがDiaryNoteのユーザーで、お気に入り登録をされているならば、それは、認められている証拠です。
少なくとも、私が自分から登録させて頂いた方は、私の中で、とても大きな存在です。
顔も名前も知らない方々ですが、大切な方々です。

努力をすることはとても大切です。もっと上を目指して努力する。これは当然です。
しかし、本当にあなたは、誰にも認められていないのですか?

今のままのあなたでも、十分に認められていると思います。

もう一度、周りを見渡してみてください。

きっとそんな人がいてくれるはずです。

自分の事が嫌いな人は、よく、「こんな自分をなんで好きなんだろう?私だったら、絶対に好きにならないのに」と言います。

だからこそ、もう一度、自分の嫌なところを無視して、周りを見てください。きっと嫌いでなくなります。

目をキラキラ輝かせる素敵なものを見つけるために頑張るのか?それとも、今手持ちにあるもので目をキラキラ輝せるために頑張るのか?
どっちでも良いと思います。
今、手持ちにあるものが劣っているわけではないのですから。

そんなことを思いました。
そろそろ七夕ですか?お星様にお願いを。

え?!七夕は終わった?そんな梅雨の真っ最中に星の祭り「七夕」が終わるはずがないでしょう。

旧暦で祝いましょうね。

短冊のお願いには、「短所が直りますように」と書きますか?

短所が短冊に見えてしまったので、こんなことを書いてしまいました。

さて、本題です。今日はちょっと一般的な話を。

よく、あなたの長所と短所はなんですか?と聞かれます。
しかし、長所と短所は、裏表なんです。
どちらかを聞けば、両方判るのです。

例えば、そうですね。
面倒見がいいが良いと言うあなた。ただ、おせっかいなだけではないですか?
責任感が強いと言うあなた。色々、一人で抱えこんでしまっていませんか?
肯定的だと言うあなた。なんでも受け入れてしまう自分のない人間ではないですか?

逆に、
引っ込み思案と思っているあなた。慎重な人ではないですか?
よく「うるさい」と言われるあなた。「明るくて良いね」と言われたことはないですか?
意地っ張りなあなた。実は、素晴らしいこだわりを持っているのではないですか?

と言うように、長所と短所は裏返しなのです。

皆さん、自分の嫌いなところがあると思います。
でも、それって、あなたの武器なんです。

自分の嫌いなところを好きになるのは難しいかもしれません。でも、その嫌いなことが、あなたの個性であると共に、あなたの長所であり、武器であるのです。
もちろん、その部分を認めて下さっている方もいるはずです。

一度、誰かに聞いてみれば良いと思います。

簡単に答えてくれますよ。あなたの良いところを。
実は、それが、あなたの嫌いな部分かもしれません。
ウィルス性の疾患を始め、命に関わるような遺伝的疾患は別として、そうではない命に別状のない病気や、精神性の疾患やその他障害について、どう考えますか?

昔、ある方が講演会で、「障害って、その人の個性なんです」と仰っていました。

ちょっと無理がある見解だとは思うのですが、それも1つの発想の転換です。

ようは気の持ちようなんです。

それに、例えば、足が不自由な人がいたとして、昔はそれでもう動けませんでしたが、今は車椅子があります。自由に動き回ることができます。

もちろん制約はあるかもしれませんが、それは、近くの人に助けてもらえば良いことです。もっと言えば、いわゆる健常者の人が、他の人に頼らずに生きていけるかと言えば、そうではないわけです。それは、今まで何度も書いてきました。

無理矢理言うと、全ての人が、何らかの障害を持っていて、それを皆で補いながら生きているわけです。

だからまず、障害や疾患があることが自分にとって不利なことだと思う必要はないのです。
そして、その障害や疾患は、あなたの個性なんです。

もし、その個性が短所だと思うあなた。

昨日書きましたが、短所と長所は裏表。考え方次第で、長所とも言えるのですよ。

そう、あなたの障害や疾患は長所なのです。
そろそろ飽きてきた方もおられるでしょうがもう少しお付き合いください。

昨日、一昨日と書いてきた話は、ようは気の持ちようだと言いたいわけです。

でも、人になんと言われようが、自分の短所を長所とは思えないわけです。
これは、特別な話ではないでしょう。

そこで、カウンセリングが必要なわけです。

カウンセリングを受けるということは、精神的に問題がある、つまり、精神的に不健康であるというイメージがあり、どうも、敷居が高いのが現状だと思います。

しかし、精神的に不健康だったとして、それって、問題なんでしょうか?

風邪と一緒で、誰にでもなりえる、健康不順なんです。

欝って、どういう状態かと言いますと、色々あると思うので、一概には言えませんが、自分が嫌いな状態だと思うんです。

例えば、何をどうやっても上手くいかない。そんな自分が嫌になる。
自分の言動が、人と比べて劣っていると感じ、自分が嫌になる。
仕事を失敗してしまい、自己嫌悪におちいる。etc…

ようは気の持ちようなのですが、自分の気持ちがプラスの方に向かない。マイナスの方に向いてしまう。
そんな状態が欝状態だと思うんです。

そういう状態って、何も珍しいことではないと思うんです。誰でも経験あることだと思うのです。

そういう時、まずは時間が解決してくれます。。
また、ひとつの方法として、人に話すという選択肢があると思うんです。

その時の相手が、素人なのか、それともプロなのか。
それは、どちらでも良いと思うのと同時に、その相手がプロだからと言って、それは自分が劣っていたり、問題があるわけではないと思います。

たまたま相手がプロだった。それだけです。
それに、風邪をひいたとき、何の抵抗もなくプロ(医者)にみてもらいますよね?

同じことだと思います。
人の価値から始まりまして、一週間以上も同じネタで突っ走ってしまいました。
今回で、とりあえず完結です。

本当は、もう一つ書きたいことがあるんですが、それはまた時間を置いて、別の題名で書きます。

と言うことで、今回は集大成に成り得るのか?

カウンセリングで、自分を好きになる。
これをカウンセリングの1つの目標にしてしまっても良いと思います。

自分が嫌いな人は、自分を知ろうとしていない。そんな気がします。

自分が嫌いな人って、自分が嫌いだから、自分の事を知ろうとしないのです。

だってそうでしょう。「臭いものには蓋をしろ」
嫌いなものを長時間眺めることができる人がどれだけいるでしょう?そうはいません。

しかし、周りの人はあなたのことをよく見ています。
あなたの良いところ、悪いところ。
悪いところって、目についてしまいます。そのせいで、どうしても目立ってしまいます。悪いところばかり、言ってくるかもしれません。
しかし、その悪いところは、長所でもあるのです。

カウンセリングは、まず、自分を知ることから始まると思うんです。
自分を見つめなおし、自分を知る。

本当は、知らないものは好きにも嫌いにもなれないはずです。
しかし、嫌いだと思い込んでしまうと、知らないのに嫌いになってしまう。食わず嫌いになってしまうのです。

だからこそ、自分を知ることが必要になってきます。

そして、カウンセラーの先生は、わかった自分を必ず認めてくれます。

だってそうなんですよね。

長所と短所は裏返し。自分の嫌いな部分は、実は自分の長所なんです。
長所が認められないわけがありません。

その短所を長所だと思えるようになれば、きっと自分の事が嫌いでなくなると思います。

以前、自画自賛(5月22日)について書いたことがありますが、自分を評価することって、とても大切なことだと思うんです。

カウンセリングは、日常生活で自分の嫌いなところが、実は長所なんだと思えない人が、そう思うために受ける。そんな気がします。

まぁ、これをカウンセリングに頼る必要はないのですが、選択肢の一つに入れても良いと思うのです。

最近の若者は…

2006年7月19日 人間
なんてことを最近の若者である私が書くのもおかしな話ですが、たった1〜2年の差でも、そんなことを感じます。

この言葉、本当によく聞く言葉ですが、ある人の話ですと、かの松尾芭蕉も書き綴っているとか?

それだけ、ある意味で、日本人にとっての重要なテーマなのではないかと思います。

例えば、こんな話があります。

高校受験から始まり、大学受験、サークル、部活、ゼミ、就職活動と、人生において重要な選択を迫られることは、少なくないと思います。

こういったとき、まず、そこのことを理解しようと、説明会への参加や、訪問などをすると思います。

そして、説明会ならば最後に、そうでなければ全般に、質問できる機会があると思います。

しかし、私たちの世代でもそうですが、なかなか質問は出ません。

本来、自分のことですので、しっかり質問をして、理解を深めるべきです。しかし、できないのも現状です。

それは、ある意味しょうがないのかもしれません。それは、説明してくださる方も理解してるみたいで、ある程度しょうがないと思われているようです。

さて、そんな中、以前、「質問ないですか?○○とか聞いておかなくても良いですか?」と言われました。私の感覚と言いますか、礼儀と言いますかでは、やはり、そのことについてお伺いするのが当然だと思っています。

しかし、先日、後輩達に同じことを言ったら、「特に質問は大丈夫です。」と。

こう、なんと言うのでしょう?自分の事なのに、関心が無いというか、どうでもいいと思っているのでしょうか?もしかすると、一生を左右するかもしれないことなのに…

確かに、色々な考え方があって、人それぞれだと思います。
私達だって、先輩方の話を聞いていると、「最近の若者達は…」と思われていることもよくわかっています。

しかし、ある程度、先方に気を使ったり、自分のことに関心を持ったりする必要はあるのではないかと思ったりします。
以前、男はLIKEとLOVEの違いがわからないと書きました。

LIKEの意味は「好き。」
LOVEの意味は「大好き。愛している。」

私の解釈としては、「好き」という感情は、LIKEとLOVEに分かれると思います。

そして、LIKEとLOVEの違いは、よくわからない。

次に、LOVEは、「(大)好き」と「愛している」に分かれると思います。

図にするとこんな感じ

   | LIKE |  LOVE  |
   |  好き  |愛してる |

つまり、LIKEからLOVEになり、「愛している」というのが自論です。

しかし、ここで問題なのが、私は、「愛している」と言う感情がよくわからないということです。

私が思うに、この「愛している」という感情と「好き」と言う感情の違いをはっきりと判っている人は、少ないと思います。

だからこそ思うのは、「LOVE」と言う言葉を使うことは許せても、「愛している」という言葉を軽々しく使うのは、おかしいと思います。

ところで、こんなことを考えたきっかけは、ヴァルハートさんの
http://diarynote.jp/d/51081/20060714.htmlです。

で、次の日に紹介していただいたのは、D.K.Vernoさんの
http://diarynote.jp/d/12424/20060714.htmlです。

確かに、好きという感情は一方的な感じはしますが、相手があれば「愛」なのか?

そして、さらに次の日紹介していただいたのがユースケさんの
http://diarynote.jp/d/72522/20060714.htmlです。

これは、割とすっきりしていて良いですね。

特に中頃の「言葉は自分の感情を表現するもの。…ただ自分の感情に一番シックリ来る言葉を捜して、それを口に出して言えばいいだけ。」と言うのは、かの有名な言語学者、金田一先生も仰られていること。

でも、何かに違和感と言うか、残念さを感じます。

やっぱり「愛」って言うのは、何か特別で、未知なる神秘的な感情であって欲しいような、そんな気がするんです。
特に、「好き」と言う言葉の最上級の言葉だと解釈ならなおさらに。

だからこそ、軽々しく口にしたくない。そんな気がします。
秘密日記を模索中です。

秘密日記は使わないと断言していたのですが、実は、最近使っています。
と言っても、誰かへのメッセージを書いたり、秘密の日記を書いたりしているのではありません。

現在のところ、怪しげな、4桁の数字が書かれています。

これは、私の個人的なメモです。いったい何の意味があるのかは秘密です。
ご自由にご想像ください。
と言っても、勘の良い人なら、すでに判っているかと。

ちなみに、今日の数字は、「5686」です。昨日の数字は「5574」です。

相互でない人にも気を使う。これ基本と。

最近、この秘密日記をなにか有効活用できないかと考え始めました。

私は、誰にでも読んでいただきたいと思っていますので(個人的メッセージも含めて)、普通の使い方はしません。

しかし、せっかくの機能を何か有効活用できないかと。

そこで考えついた1つの活用法が、このメモなのです。

怪しげな4桁の数字が本文の最後に載っていたら、不気味でしょう。
しかし、秘密日記にメモるのであれば、ほとんどの人からは見えないわけですし、相互の方でも本文と関係ないことが、なんとなくわかるでしょうから。

何か、もっと良い活用法はないのか、模索中です。

何か良い活用法があれば紹介してください。

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