昨日の日記から読んでください。

昨日、モノを大切にしなくなくなったという話を書きました。

私は、昨日、「モノ」と書きました。「物」とは書きませでした。これは、きちんと意図するところがあったからです。

別に「もの」でも良いのですが、「もの」だと、他の字の中に埋もれてしまって読みにくくなるために、「モノ」を使いました。本当は「もの」の方が、やわらかく見えるので良かったのですけれども。

皆さん、「物」と解釈して読んでいたと思います。

私自身、「物」と解釈させるように意図的に文章を作ったつもりです。

しかし、「もの」と打って、変換してみてください。

WindowsXPの場合、「喪の」や、「藻の」なども出てきますが、「者」という漢字が出てきませんか?

そう、私が使った「モノ」は、「物」という意味はもちろんのこと、「者」つまり、「人」を指す言葉としても使いました。

こう書くと、シャーペンと人間が同じなのか?と思われるかもしれませんが、別に大差はないと考えています。

元来、日本では物にも魂が宿ると言われています。百鬼夜行はその典型的例です。
わかる人にはわかる「へなもん」もそうです。

アニメでは、物がしゃべって動きます。物がしゃべれば良いのにという日本人の願望が生み出した産物でしょう。

そして、私達は、物に話しかけます。
それは、物を物としてだけは見ていない証拠です。

最近、命を大切にしないとか、自分を大切にしないとか、よく耳にしますが、それ以前に、物を大切にしていないのです。
そして、残念ながら、最近、「物を大切にしましょう」という言葉をあまり聞かなくなりました。以前に比べ、「物を大切にしましょう」という教育がされていないのです。

命は確かに大切です。世界に1つしかない、代えようのない存在です。
しかし、本来、物だって、世界に1つしかない存在です。

確かに、大量生産により、本当に良く似た物があふれています。
しかし、そこにあるその物は、世界に1つしかないのです。隣に並んでいる同じ商品とは、どこかが若干違うはずです。

歌のフレーズで、「あの頃すっごくはやっていたから買いに走ったこのスニーカーも、今では世界中探しても見つからない最高のボロボロ靴さ」というのがあります。

例え、大量生産された物でも、自分しか持っていない、大切な存在なのです。

物を大切にできない人間が、者を大切にできるはずがない。
物を大切にしない人間が、者だけを大切にできるはずがない。

最近の事件の裏側には、こういった、根本的問題が隠れているのです。

私は、そう思います。

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索