DVD バンダイビジュアル 2002/11/25 ?3,990 臼井儀人原作のTVアニメの、2001年公開の劇場版第9作。 突如出現したテーマパーク「20世紀博」で、大人たちは現実の生活を投げ出し、童心にかえって楽しんでいた。だがその裏には、絶望の21世紀を捨て、希望に満ち溢れていた20世紀を永遠に存続させようとする、秘密結社イエスタデイ・ワンスモアの計画があった。このままずっと20世紀…

先日、TVでやっていたのを見ました。

舞台は20世紀博。

20世紀を懐かしむ大人たちが、洗脳され、20世紀を求めて姿を消していく…
そんな話です。

この話は、子どもよりも大人が見るように創られてしまった作品だそうで、子どもを連れてきた親が、子どもそっちのけでボロボロ泣いていたそうだ。
後日、もう一度うっとおしい子どもを家において、大人だけで見にきていたそうな。(NHK情報)

戦後の20世紀は、東京オリンピック、大阪万博と、大きなイベントがありまして、大人たちは、それらが共通言語となっていて、とりあえず、その話をしておけば、会話ができるというイメージがあります。

でも、実際、そのような傾向があるようで、私の両親などは、その話が大好きなようです。

で、そういう話を聞いていると、自分達の世代に、そんなお祭りはあったのだろうか?

長野オリンピックも、サッカーのワールドカップ、花博、地球博も、イマイチ記憶にない。私にあっても、周りにない。周りにあっても私にない。
う〜ん…私達の世代は、懐かしさによる洗脳は無理なのかもしれません。と考えたり。
寂しいような、悲しいような…

それも、最近の個性を大事にする傾向の副産物だとは思います。個性を大事にすることは、良いことではあるのですけれども。

ところで、三丁目の夕日でも感じるのですが、夕焼けの色が違うんです、今と。
あれが不思議で、あの夕日の色を見ると、なぜか懐かしくなる…
今と昔では、夕日の色が違っているのでしょうか?
昔の方が、夕焼けが赤かった?

科学的に考えますと、空気が汚いほど、夕焼けは赤くなりますので…高度経済成長のころの空気は、汚かった?ということ?でも、それなら納得できます。行動経済成長期よりは、フィルターや規制のおかげで空気が綺麗であるような気はします。

謎です。
今日は、言葉遊びです。

9月8日の「何のために働くの?」でも少し触れましたが、最近の人々は、ボランティアと言う言葉を履き違えている人が多い気がします。

ボランティアは、本人がやりたいと思い、そして、無償で奉仕することです。

決して、誰かに強制されることでもなければ、やらされることでもありません。

あくまでも、本人が、進んで行うものです。

そして、言語の意味から考えると、その対象は、社会事業に無償で参加することですから、何かを組織的に行われなければボランティアとは言えません。

個人で、老人ホームを訪問してもボランティアとは言えないのではないでしょうか?
また、例えば独居老人を訪問しても、それはボランティアとは言えないのではないでしょうか?

本来、社会事業ですので、オリンピックや国体など、そういったことへのスタッフとして、無償奉仕することが、本来のボランティアの姿ではないでしょうか?

どうも、最近の傾向として、老人ホームなど、所謂、福祉関係の仕事を無償で行うことをボランティアだと考えている人が多い気がします。
そこに、本人の意思は関係ありません。

政治家がボランティアを義務化するとか言っているのを見ると、どうなのだろうと思ってしまいます。

もう少し、言葉を選べば良いのに…

ボランティアの義務化など本末転倒です。

とは言いましても、言葉は常に変化していくものですので、そういうことなのでしょうか?

ボランティア
《志願者の意》自主的に社会事業などに参加し、無償の奉仕活動をする人。(YAHOO!辞書より引用)


「何のために働くの?」http://diarynote.jp/d/77110/20060908.html

PS.Kajさん、お気遣いありがとうございました。
役目を終えたようなので、削除しました。
「園子姉ちゃん、パンツ丸見え!!」
これ、昨日のコナン君の名言。
これは、見える状態です。

先日、女子高生のパンツの中を手鏡に写して見た教授が話題になりましたが、これは、見えない状態。

見えるから見ることと、見えないのに見ることは、全く別物です。

次に、男が目のやり場に困る見せパンと呼ばれるもの。
これは、見せている状態です。しかし、見える状態でもあります。

見える状態でも、スカートがめくれてしまって、パンツを見ることと、見せパンを見ることも、全くの別問題。

ところで、昨日はパンツを見せていたけれども、今日は見せていないお姉さんに、「昨日は見せていたのに、なぜ今日は見せないんだ?」と問うと、それは、嫌がられるでしょう。と言うか、下手すると捕まるでしょう。

同じ対象でも、その時の状態によって、見える状態なのか、見せている状態なのかは、変化するものです。
そして、それを見ても良いかも別問題です。

見えるものは、見ても問題ないとは思いますが、それを見ても良いかは別問題。「問題ない」ことと、「良い」ことは違います。

元に戻しますが、昨日パンツを見せていたお姉さんに、「昨日俺見てないから、今日見せて」と頼むのはお門違い。さらに、「見せないなんておかしい」と批判するのもお門違い。

次に、駅の掲示板に、何でも良いのですが、例えば「xyz」とメッセージを残したとしましょう。
もちろん、駅の掲示板ですから、誰が見ても問題は無いわけです。

しかし、これは、万人に宛てたメッセージではなく、ある特定の人に向けられたメッセージですから、向けられた人にメッセージが伝われば、それで、このメッセージの役目は果たされたことになります。ですから、普通は、消します。

これは、その特定の人に見せるものであって、他の不特定多数の人々には、見えるものでしかありません。
もちろん、そこには、ある程度のプライバシーもあるでしょう。

めくれてしまったスカートと同じで、見えるだけです。もちろん、見えてしまうことは覚悟しているので、見られることは問題ありません。スカートをはいた女性も、何かしらの理由で、めくれてしまい見られることは、覚悟しているはずです。
しかし、覚悟しているからと言って、スカートの中を鏡に写して見ても良いということにはなりませんし、スカートの中を見せろとも言えません。
それは、当たり前。

「xyz」も誰が見ても問題ないのですが、用が済めば、消すのは当たり前。他の人に見せるものではないのですから。
そうでなければ、一度めくれてしまったスカートは、永遠にめくっておかなくてはいけないことになってしまいます。

なんだかしょうもない話です。なぜ、こんな当たり前の話を書いたのだろう?
昨日、すごく当たり前の話を考えたのですが、今日も引き続き講義中に考えていました。
すると、ある方からのアドバイスも重なり、あるとんでもない目から鱗の結論に至りました。

私は、今までブログは、見せるためのものだと思っていました。
インターネット上に書くわけですから、世界中から見られます。

この世界中から見られるという事実と、自分の文章を見せるという行動が、どうも混同していたようです。
あらためて考えてみると、どこがどう似ているのか、全くわかりません。

少なくとも、勘違いをしていた私は、今まで、見せるためのブログを書いていました。
しかし、先日、私はこの場を借りて、見せるためではない文章を書きました。
その文章は、ある方1名を除けば、ただ見える文章でしかないのです。

もちろん、見られる覚悟はした、誰にでも見ることができる文章です。しかし、見せるために書いた文章ではありません。
その文章を、煮ようが焼こうが、それは、書いた人間と宛てられた人間の自由です。
そこに、第三者の介入はお門違いです。スカートの中と同じです。

見える文章なのか、見せる文章なのか?

それは書いている人間にしかわからないのかもしれません。
その辺りは、読み手が判断するしかないのかもしれません。
それでも、明らかなものもあります。

しかし、見える文章は、あくまで見える文章であり、見せる文章とは別物です。

そんなことに、やっと気がつきました。目から鱗です。そんなことに気がついた午後の講義。

秘密日記も使っていこうかな?
見せる文章ではなく、見えてしまう文章を書くために。
まさか、3日も「見る 見える 見せる」を続けて書くことになるとは思いませんでした。
面白いニュースを見つけてしまったのでしょうがないです。

本日YAHOO!ニュースで見つけた記事。

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20061005ddm013100062000c.html

言葉とは刻一刻と変化するものです。
このような変化が起こることもまた、ひとつの文化。

ギャル文字もまた、その1つ。

大文字のみで、英文を書くと、叫んでいるように見えるそうです。
と言うことは、逆に、小文字で文を書くと、可愛く見える?

そうではなく、不完全な文章が、子どもらしくて可愛く見えると私は思います。
まぁ、そんなことはどうでも良いです。

ブームとかそういうのではなく、その世代世代の言葉や文字があるというのは、悪いことではないと思います。
ギャル文字を使っていた人たちと、今、小文字を使っている人の世代は、違います。

子どもが子どもに向けて書いた文章は、子ども達にとっては、見せる文章であっても、大人達には見える文章でしかないのかもしれません。

それはそれで、ある種の暗号的表現として、ブログやメールで使うことは、ある意味で正解なのかもしれません。

例えば、機種依存文字。これらの文字を多用するならば、その文章は、その文字に対応した機器でしか読むことが困難です。
それは、書き手が行う読み手の選別ともとることができます。

同じ要領で、ギャル文字、小文字と、表現を変えることによって、読み手の世代をある程度選別することができます。

この選別という行為は、良いことなのか?悪いことなのか?

それは、決して悪いことではなく、ココの秘密日記や、mixi、はたまた、会員制のサイト等、世の中には、その選別であふれています。

万人に見えるものが、万人に宛てられたものであるわけではありません。

見えるものでも、誰に宛てたものなのか?

そんなことを考えていると、文字、言葉という意味でも、面白いなと思う今日のニュースでした。
「見る」を考えていると、新しくこんな事をを考え始めてしまいました。

いつだったか売れた歌で、
「見えないものを見ようとして、望遠鏡をまた覗いた」という感じの歌がありました。

これは、天体観測のことだったと思うのですが、「見えないものを見ようとして」様々なものが開発されています。
例えば、上の例の天体望遠鏡。

さらに、大気が邪魔で宇宙を覗けないのなら、宇宙に望遠鏡を浮かべちゃえと、ハッブル宇宙望遠鏡。

目で見えない小さなものを見たくなり、顕微鏡。

光学顕微鏡では限界があったので、電子顕微鏡。

海の中が見たいから、ソナー。

人間の中身が見たい人は、解剖までしてしまいました。

人間は、どこまで欲張りなのでしょう?
しかし、これらの行動があったからこそ、今の科学技術があるわけです。

科学者達の貪欲さが、今の科学技術の根底にあるのだと思います。

でも、どんなに見たくても、女子高生のスカートの中を見るのはいただけません。
望遠鏡で隣のお姉さんの部屋を覗くのもいただけません。
最近、相互リンクの方をいじるのが流行っているそうなので、みーちゃんもはーちゃんもな私も、波に乗って、いつかやると言っていた「素敵なリンク先」の第2段を書いてみたいと思います。

ただ紹介するのもあれですので、今回はテーマを決めて紹介しようと思います。

本日のテーマは「とにかく○○したい時」です。

とにかく人生を悟りたい時は、大先生

私が何か言う必要もないほどのお方です。
言いすぎ、やりすぎは当たり前。口が悪いことで評判。
しかし、書いていることは、かなり的を得ています。しかも、言い回しが上手い。つい読みいてしまいます。
すごいの一言です。たまに、えっ?!と思うこともあるのですが、人は皆違うものですから、その辺りも1つの考え方として、受け入れられれば、より、悟りの領域に近づけられるのでは?

40万ヒットのDiaryNoteの輝く星です。お勧めです。

とにかく元気になりたい時はゆぅさん

自称チキンなゆぅさん。
少なくともココでは、底なしの元気を持っているようです。反省中でもとっても明るい。
元気がなくて、しょんぼりした時は、ここで元気を貰いましょう。
内容が内容ですし、ゆぅさんは、そんなに幸せいっぱいな方ではないと思います。それでも、あの明るさ。素晴らしいです。毎夜、枕を濡らしているかもしれませんが、それも、感じなさせない日記となっています。

とにかくじっくり笑いたい時はがんやさん

全ての内容を笑いに変えてしまう、そんな力を持っているようです。
書いている内容は、的を得ていますし、テーマもなかなか幅広いです。
面白い切り口で、最後は笑いにもっていくというのが、書き方のようです。
今行っている4万ヒット企画も注目しています。

とにかくさっさと笑いたい時は星姫先生

全ての日記が数行に凝縮されており、とても読みやすい日記です。
そして、必ずオチがある。4コマまんが的な感覚で読めます。
頑張れ!!チョモランマなダイエット刑事!!
大福どうなったのだろう??

とにかく芸術を感じたい時はせんさん

題名が好きです。「芸術に恋をしろ!!」
芸術とかモノつくりとか言うものは、ある共通の部分があると思うのですが、その辺りの考え方が好きです。
至極当然のことなのですが。
芸術について、読んでみると、考え方が変わるかもしれません。

すいません。変なテーマを立ててしまったため、限界です。
続きは次回。

第1回はこちら。http://diarynote.jp/d/77110/20060626.html
最近、自殺に関するお話が多い気がします。
何でだろう?と考えていたのですが、あのニュースの影響ですよね?

私が、自殺について本気で何か書くと、きっと大ひんしゅくをかうのでしょうから、触れないことにします。

その関連になるかどうかわかりませんが、今日は、こんな話を書いてみようと思います。

よく、「私はそんなに○○でない」とか、「私はあなたのように○○ではない」とか言う人がいます。
よくあるのは、「私はあなたほど強くない」とか、私がよく使うのは、「私はそんな立派な人間ではない」とか。

自分の事を棚に上げてお話しすると、こういう言葉って、ただの逃げなのです。

「私はあなたほど強くない」と言われても、言われた人間としては、「で?何?」以上の感想は出てこないでしょう。
あぁ、そう、「私より強くない。」じゃぁ、強くなれば?
それで、私に何を求めるの?

言い訳?理解して欲しい?

無理!!

だって、私はあなたみたいに弱くないから。弱い人間の心などわかりません。

なんて、思考回路の人はほとんどいないと思いますが、こういう思考の流れは不自然ではないと思います。

しかし、実際問題、何をどうして欲しいのか?
「私は、あなたほど強くない?じゃぁ、強くなれるように頑張れば?」としか言えません。

失敗した時に、「自分には能力がなかった」と言い訳されてもねぇ?

どう思いますか?

ただの逃げでしょう。
もうすぐ2万ヒットです。
踏まれた方は、是非コメントを下さい。

私のお世話になった先生で、非常に素晴らしい先生がいました。
その先生は、授業で毎回課題を出し、しっかりと採点をして、返却してくださいました。
さらに、レポートが存在し、数回提出するのですが、提出する度に、真赤に訂正して返却してくれていました。

これを実行するには、学生もかなりの負担になりますが、先生だって、並大抵の負担ではありません。

もちろん、こんな先生ですので、最後までたどり着く学生は、非常に少ないのです。

しかし、ここまでしていただける先生なんて、そうはいません。自分のスキルアップを図る上では、必要不可欠なハードルです。

しかし、最近の学生さんは、そういう先生を嫌います。
ただ文句を言うのではなく、本気で嫌い恨みます。

ただ、自分の努力が足らず、単位を落としただけなのに、先生のせいだと本気で言っている。

そういう人を見て、非常に残念に思います。

そこまで、しっかり面倒を見てくださる先生に対して、文句を言うだけでなく、本気で恨むなんて…
悲しいことです。

さて、そういうことになってくると、今の学生は黙っていません。あの手この手を使って、先生を追い込んでいきます。
馬鹿な親も文句を学校の方に言ってきます。こういう親をヘリコプターパレントと言うそうです。(学生が追い込むよりも、こっちの方が効果は大きいです)

そうなると、先生も言うことを聞かざるをえなくなってしまいます。

残念です。こうやって、真剣に学生のことを思って、講義を展開されている先生が、淘汰されていくのです。

祝2万HIT

2006年10月10日 その他
皆様のおかげで、カウンターが2万も回ってしまいました。
こんなくだらないブログにお付き合いしていただいて、真にありがとうございます。

1万HITは、暇つぶしの達人さん
15000HITは、私。
そして、今回の2万HITは、不明です。
誰だったのでしょう?

PS.Fruitsさん、お気遣いありがとうございます。

ことば

2006年10月10日 人間
言葉、ことば、コトバ。

それって褒め言葉?

言葉遊びは今まで色々やってきました。
下にリンクを。

でも、「ことば」ってすごいです。
人を喜ばせることも、怒らせることも、傷つけることもできる。
そして、殺すことも。
人類の最終兵器かもしれません。
核弾頭よりも強力な兵器なのかもしれません。

私は、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉が好きです。
私は、そこに心があるかどうかは、あまり気にしません。
本人が、本当は、ありがたく思っていなくとも、申し訳ないと思っていなくとも、その言葉を発してくれたことに、意味があると思います。
それだけ、相手に気を使っていてくれるということですから。
そこに、文句を言う必要性を感じません。
納得できないのに、言葉を発してくれたことを評価したいと思います。

ですから、私は、多めに「ありがとう」や「ごめんなさい」を発します。
人は、この行為をあまり好まないのかもしれません。軽く感じてしまうので。でも、言われて嫌な思いはしないと思います。
だから、私は発します。
だって、言われたいですから。
「ありがとう」と。

ちょっと、ヴァルハートさんと司穏さんに触発されて書いてみました。

言葉遊び一覧 (多分一部だと…)
10月8日「私はそんなに○○でない」http://diarynote.jp/d/77110/20061008.html
10月3日 「見る 見える 見せる」http://diarynote.jp/d/77110/20061003.html
10月2日 「ボランティア」http://diarynote.jp/d/77110/20061002.html
9月6日 「ピカチュウと爆」http://diarynote.jp/d/77110/20060906.html
8月12日 「通りすがり? 」http://diarynote.jp/d/77110/20060812.html
8月11日 「それって褒め言葉?」http://diarynote.jp/d/77110/20060811.html
8月10日 「おもしろい意見」http://diarynote.jp/d/77110/20060810.html
5月22日 「自画自賛と自慢」http://diarynote.jp/d/77110/20060522.html
マンボウは一回の産卵で、3億個の卵を産むそうです。

さて、そのうちのいくつの卵が、また卵を産むのでしょうか?

確実に言えることは、1個あるかないかと言うことです。

マンボウの生涯産卵回数を知らないので、何とも言えませんが、おそらく複数回でしょう。

マンボウにも♂と♀がいますので、約半分は卵を産みません。

そして、平均して2匹の親から2匹以上の子どもが繁殖すると、数が増え続けることになってしまい、生態系のバランスが崩れることになります。

以上のことを踏まえるならば、もし、仮にマンボウの生涯産卵数を1回だと仮定をしても、3億個の卵の中の将来卵を産むマンボウは、平均して1匹です。

もし、仮に生涯産卵数が2回ならば、0.5匹です。3回ならば0.33匹、4回なら0.25匹です。

マンボウは、どれだけ多くの命を失っているのでしょうか?
かの有名なハンムラビ法典の一節と言われています。
この精神は旧約聖書に引き継がれ、現在でも、イスラムでは、この精神が基本となっているそうです。

しかし、同じ旧約聖書に従うキリスト教では、「右のほほを打たれたら、左のほほを向けよ」などと言う、何とも無茶なお話もあります。

あまりにも無茶すぎて、誰も守れていません。

日本には、「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉があります(元々は中国からの輸入のようですが)。これならば、守れそうな気もします。憎むべき対象もありますので。

さて、この精神は、意外と日本人の中で守られている傾向があると思います。
例えば、太平洋戦争で、日本はアメリカにメチャクチャされていますが、そのことに対して、報復してやろうという精神は、あまり耳にしません。

また、何かされたとしても、あまり、同じ事をして、仕返ししてやろうという話自体もあまり聞きません。

しかし、恨んでないかと言えば、そういうわけではありません。
恨んでいることは、恨んでいるのです。

それは、日本人が、人の痛みを理解できるからだと思います。

もし、誰かに殴られたとして、それは、とても痛いです。
しかし、そこで自分もやり返すと、相手も同じ痛さを味わわなければなりません。

憎しみは憎しみしか生み出しません。誰かが、止めなければ、永遠に回り続けます。

自分がこんなに辛い思いをしているのに、わざわざ、同じ思いを相手にもさせることに、どんなメリットがあるのでしょうか?
そんな辛い思いをするのは、自分だけで十分である。という無意識の感情があるのではないかと思います。
昨日は、夕方からサーバーが落ちてたみたいです。
おかげで、今月もパーフェクト達成ならず…
午前中にアップしておけば良かった…

人を見下した言葉ってあると思います。
文章とか、表現法とかではなく、単語として、見下した言葉ってあると思います。

有名なのは、「かわいそう」です。
この言葉は完全に他人事を意味する言葉です。しかも、自分よりも下だと表現しています。

そして、少し前に政治家の間で流行っていた「遺憾」という言葉も、実はこれも見下した言葉なんだと昨日気がつきました。

遺憾
期待したようにならず、心残りであること。残念に思うこと。また、そのさま。(YAHOO!辞書より引用)


この言葉を他人に向けて使うということは、「あなた期待外れだよ。残念。そんな人だとは思わなかったよ」と、完全に見下してます。
今更にそんなことに気がつきました。

外国人が遺憾という言葉を使うわけがないので、それは、日本人、特にマスメディアが勝手にそう訳しているだけですから、その訳にニュアンスとしてどこまでの信憑性があるかなんかは、わかるはずもないのです。

1行?

2006年10月15日 インターネット
前々から思っているのですが、コメントや掲示板で1行しか書かない人がいます。

あの読み取りにくい俳句でも、もう少し長いです。

たった1行で何を伝えたいのか?

そんなことは、書いた本人以外には、絶対にわかりません。

例えば、「頑張れ!!」と書かれていたとしましょう。
悪くない言葉です。嫌悪感を抱く人は、ほとんどいないでしょう。

でも、何に?どうやって?と疑問はつきません。

主語がなければ何が何だかわかりません。伝わりません。
もちろん、わざと伝わりにくい表現をとることを意図することもあるとは思います。

しかし、これが否定的な書き込みだったらどうでしょう?

例えば、「嫌い」と書かれていたとしましょう?
なぜ?何が?どうして?とこれまた疑問がつきません。

しかも、傷つきます。

私は、理由が一番大切だと思います。

私は、酷い話、理由があれば、傷つけてもセーフだと思っています。
きちんとした、正当な理由があれば。
もちろん、ケースバイケースではありますが。

何がどうしてどうなのかをきちんと表現すれば、それは、1行で終わることはないと思います。

少なくとも、数行にはなると思います。
サーバーがダウンしてしまう前に書いておきましょう。

ちょっと、面白い記事を見つけました。

http://diarynote.jp/d/46594/20061014.html

それは、あると思います。
批判するためには、それをよく知っていなければなりません。
そして、本だけではなく、ブログや日常生活にも言えることだと思います。

どこがどのように駄目であるのか。そして、どう改善すればよいのか?あるいは、改善の余地はないのか?
評価できる部分はないのか?

そんなことは、本当にそのことを知っていなければ、判断できるものではありません。
ですから、好きなもののみ、批判できると思います。

では、嫌いなものはどうすればよいか?

それは、自分が嫌いな理由を書けば良いと思います。

私は、こういう部分が、好きになれない。こうこうこうだから、嫌いだと。

これは、批判ではないと思います。

好きか嫌いかは、評価とは言いがたいと思います。
もちろん、評価の一種ではあると思いますが、少し違うのではないでしょうか?
評価には、やはり客観性が必要だと思います。

で、嫌いなものを、下手に客観性を持たせ、論じたところで、それは、たかがしれています。
嫌いだ嫌いだという話になってしまうでしょう。

「嫌いなものは嫌い。それは、なぜか?そして、あなたはどう思いますか?」で良いと思います。
わざわざ、客観的に見ようとしなくても良いと思います。絶対に、色眼鏡になってしまいますから。

名は体を表す?

2006年10月17日 人間
Fruitsさんのところで紹介されていた姓名判断のサイト。

http://www.seimeihandan.jp/default.htm

不思議なことに、メチャクチャ当たります。
いろんな人でやってみたのですが、どれも当たっています。

この姓名判断というのは、古くから横行しているもので、割と信憑性も高い気がします。

古い言葉で、「名は体を表す」という言葉もあります。

そこで、この姓名判断がなぜ当たるのかを、勝手に個人的解釈で考察してみたいと思います。

まずはお馴染みYAHOO!辞書からの引用です。

姓名判断
姓名の画数などによって、その人の運勢などを判断すること。

名は体を表す
名はそのものの実体を表している。名と実は相応ずる。


名前は、そのものの実体を表しているそうです。
そうなると、逆に、名前により、そのものの実体が変化するともとれます。
その名前により、性格、運勢を判断するのですから、当たるのは当然のような気がします。

しかし、ここで疑問が生ずるのは、本当に、「名は体を表す」のかということです。

そこで、思いついた言葉は、「名前負けしてるよね」という言葉です。
名前負け
名前がりっぱすぎて、実物が見劣りすること。 YAHOO!辞書より引用


名前負けしてるよね?とあえて、そのような事を言うと言うことは、普通は、名前負けしていない、つまり、名は体を表していることになります。

続けて疑問なのは、なぜ、「名は体を表す」のかということです。

これが不思議です。

で、考えました。

日本語は漢字を使います。
漢字は象形文字であり、表意文字です。
これが何を意味するかと言いますと、漢字1文字1文字に、意味があり、理由があり、歴史があると言うことです。
これらは、長い歴史の中において、人々の心の中、遺伝子の中に刷り込まれてきたと考えられます。

つまり、漢字の1文字1文字に、その漢字のイメージが形成され、そして、共通認識として、刷り込まれていると考えられます。

その文字を使い、私たちは名づけられます。(ひらがなを使う人もいますが、元は漢字だったと言うことで納得してください)

その名前にはもちろん、文字から与えられるイメージが、存在します。
そして、そのイメージは、ある種の共通的なものを持ち合わせています。

私たちは、そのイメージを持った名前を常に名乗り、呼ばれ、生活しています。

例えば、「賢い」というイメージを持った名前をつけてもらったとして、毎日、「賢い」と呼ばれ、そして、自分でも私は「賢い」ですと自己紹介をします。
こんなことを毎日言われ続けると、洗脳され、自分は「賢く」なければならないと思い込み、頑張って勉強なり、なんなりすることでしょう。

そう、名前は、そのイメージを、本人に刷り込むのです。
そして、刷り込まれた人間は、そうならなければならないと、無意識のうちに意識し、実行するのです。

つまり、結果的に名は体を表してしまうのです。

こういった刷り込みは、幼いうちにしておかなければなりません。
ですから、旧姓で占うのでしょう。

こんなことを考えると、面白いですね。益々、親がつける名前に責任ができてしまいます。

ところで、表意文字ではなく、表音文字を使う国でも、「姓名判断」や、「名は体を表す」という言葉は、存在するのでしょうか?
少なくとも、YAHOO!辞書の英和辞典では、ヒットしません。

PS.後半戦の刷り込みという意味では、わりとよく耳にします。
ですから、心理学的に考えても、全くお門違いな話ではないと考えます。
颯子さんが新聞に書いていまして、ちょっと思ったことを書きます。

新聞とTVは元は一緒だったりします。

読売新聞 読売テレビ
毎日新聞 毎日放送
朝日新聞 テレビ朝日

と言うように。(適当ですけど)

民放のTVはタダ見れます。しかし、同じところが作った新聞は、1部100円で販売されています。
一方、NHKには、受信料が必要です。

しかし、これらは、マスコミとして括りにされます。

NHKの情報を得るためには、お金が必要になります。
新聞から情報を得るのにもお金がいります。

しかし、民放から情報を得るにはお金がいりません。

民放にお金が必要ない理由は、CM等による広告収入によって、まかなっているからです。
一方、NHKに料金が発生するのは、その広告収入を拒否し、受信料でまかなっているからです。

NHKが受信料にこだわる理由は、広告収入を得ると、スポンサーの顔色を伺いながら放送をしなければならないため、真に平等さに欠ける放送になってしまうからと言うことらしいです。

じゃぁ、新聞は?と考えますと、元は民放と同じですし、折り込み広告をはじめ、記事の横、間にたくさんの広告が載っています。そこに真の平等における報道ができるのかと言えば、そんなことは可能なのでしょうか?

でも、料金が発生するんです。

そんなことに疑問を感じました。

主に広告のみのタウン誌などは、必要もないのに定期的にポストに入っています。

新聞もタダにすれば良いのに。

なんて無茶な話かもしれませんが、ちょっと、不思議な話でした。
その、私がすごく思うのは、逃げてしまって良いのか?ということです。
逃げるが勝ちという言葉もありますので、逃げること自体が悪いことだとは思いません。

しかし、何か失敗をしてしまった時、逃げることにより解決しようとする傾向があると思います。
それは、どうかと、私個人は思うのです。

例えば、不祥事を起こした会社の社長。
「責任を取って辞任します。」
ちょっと違う気がします。

なぜ、不祥事が起きたのかを一番知っているのは、その人だと思います。
しっかりとその会社を立て直すのが責任だと私は思います。

その点、NHKの海老原会長は評価できる人材でした。
ただ、自分に対する罰が甘かったのでしょう。結局、引きずり下ろされました。

辞めるのではない罰を課しておけばよいと思います。

例えば、給料を貰わないとか。
でも、これをして失敗した国会議員もいました。

いずれにせよ、辞めるということは、逃げることだと思います。
本当にそれで良いのでしょうか?と私個人は思うのです。
こんなドラマがまかり通るのだから、現代社会はどうかしてしまったのではないかと思ってしまいます。
でも、志田未来が可愛いので、見ます。

今週の生瀬パパのセリフに、ちょっと、感動しました。

7月31日からの「恋愛、結婚、セックス」シリーズで私が声を大にして言いたかった事を、間接的に肯定してくれていました。

私が、「恋愛、結婚、セックス」シリーズで言いたかったことの1つは、「本当に大切な人を男は簡単には抱けない」と思うということです。
ですから、簡単にそんなことになるような男は、たいしてその女性のことを好きではないということ。

さて、生瀬パパが言った詳細なセリフを、いくら頑張っても思い出せないので、誰か詳細に記憶している方がいらしましたら、教えていただきたいのですが、要約すると、

14歳くらいで、本気で人を好きになるなんてことはない。もしあったとしても、それはまやかしだ。本当に好きだったら、こんなことができるはずがない。

みたいな感じでした。

正直な話、おそらく志田未来に迫れると、普通、男は受け入れると思います。断る理由がありませんから。あんな可愛い娘に、迫られて断る理由はありません。

しかし、もし、志田未来のことが大切な人であれば、「止めとこ」と言うでしょう。
でも、別にどうでも良い人なら、そのまま行くところま行くと思います。

こういう問題で、損するのは必ず女性です。劇中で産婦人科の先生も仰っていましたが、痛い思いをするのは女性です。
本当に大切な人に、そんな痛い思いをさせたいとは、普通は思わないと思うんです。

私は、男はそういう生物であると思うんです。

性欲に走ると言うのは、別に、その人が痛い思いをしようが、どうでも良いという事だと思います。

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