ハンサムウーマンのコラム「恋の六法全書」の第1回の内容は、「女は昔の男を忘れられるか?」でしたが、今回はその逆を考えてみたいと思います。

結論から書くと、もちろん、ケースバイケースだとは思いますが、基本的には無理だと思います。

ドラマや映画などでも、男は、そのような描写をされていることが多いです。

自分からふったのならまだしも、ふられたくらいで、自分が1度好きになった人をそう簡単に好きでなくなるわけがないと思います。

「あきらめる=好きでなくなる」ではないはずです。

女性がどのようなことを考えて、恋愛をしているのかわかりませんが、私はそう思います。

もちろん、時間とともに好きという感情も風化していくとは思います。しかし、それは、好きでなくなっていくわけではなく、単純に、好きという気持ちを忘れていっているだけだと思います。
忘れた感情は、あるときふと思い出します。そうすれば、やはりその人のことが好きだということになります。

男は、よく「執念深い」とか言われますが、それはある意味で正解だと思います。
しかし、それが間違っているとは思いません。

そして、こうやって、いつまでも同じ人を好きでいることを気持ち悪いと言う人がいます。
でも、それは違うと思います。

もちろん、こういった感情を外に出すかどうかで、その人の人間性が評価されることはあると思います。

しかし、こういった感情は相思相愛にならなければ抱いてはいけない感情なのでしょうか?
それはそれで違うと思います。

逆に言うと、簡単にその人のことを好きでなくなれる人間が、相思相愛になったからと言って、その人のことをずっと好きであり続けることができるでしょうか?

私は難しいと思います。

こういう風に考えてみると、人を好きであり続けるということは、とても大切なことではないでしょうか?

そして、とても素敵なことではないかと思います。
友達ってどんな人のことを呼ぶんでしょう?

よく話をする人?よく電話やメールをする人?
それとも悩みを打ち明けられる人?

友達だと難しいから、親友で考えてみます?

さて、その友達や親友ですが、どういった人のことを友達と呼ぶのでしょう?

例えば、何か悩みを持ったとき、友達に相談することは多いと思います。

しかし、相談する人のほとんどは、実は、相談する前に結論を出してしまっています。
そして、その結論が、正しいかどうかを確認するために、相談します。

もし、相談した相手が自分の出した結論と同じことを言ってくれれば、そのまま自信を持って、先に進めるわけです。

と言うことは、相談する相手は、自分の出している結論と同じ事を言ってくれれば都合が良いわけです。

人間は無意識のうちに、自分と同じ結論を出してくれそうな人を選んで相談をしているはずです。

こういった背景から、「類は友を呼ぶ」という言葉ができているのではないかと思いますが、それはまた別の話です。

さて、話がそれましたが、様々な意見が聞きたい場合は、もちろん、自分の出した結論とは全く違った事を言ってくれる人に相談すべきです。つまり、あまり気の会わない人に話を聞くべきです。

ところで、相談した相手が、本当に、そう思っていれば良いのですが、中には、先ほど書いたような内容に、気がついている人がいると思います。
そういった人は、気を使って、相談をしている人が出していそうな結論を話すと思います。

そういう人は、良い感じに背中を押してくれるので、自分にとってすごく心地よい相談相手になります。

しかし、本当にそんなことで良いのでしょうか?

NHKの番組「謎のホームページサラリーマンNEO」の『サラリーマン語講座』の中で、相談してきた新入社員に向かっての一言と言うのがありました。
講師の吉田周助さんは「今時の若者には、すべて肯定で対処するのが効果的なんですね。」と言います。

確かに、その通りだとは思います。

対応はマジカルワード「それ正しいよ」で。

「悩んでいるおまえは正しい。そんなおまえだからすばらしい、むしろ麗しい、と持ちあげれば、悩みなんて吹き飛んでしまうんですよ。」

しかし、その後、アシスタントの原史奈さんは、すかさず「でも悩みに対して正しいって何かおかしくないですか?何も解決されていませんよね。先輩としてこれでいいのでしょうか?」と言っています。

確かに、その通りです。

しかし、講師の吉田周助さんは、「いいんです。どうせ短いつきあいなんですから。こんな時に親身になって説教なんかしたらよけいに鬱陶しがられる心配があります」と。

さて、話を戻します。
このサラリーマンNEOは、コントである上に、吉田さんの言う通り「短い付き合い」だから、これもありだと思います。

しかし、今回のテーマは「友達」です。

何もかもを肯定してあげるのが友達なんでしょうか?

例えば、非人道的なことを相談されて、そう、例えば不倫とか。

「私、不倫してるんだけど、どう思う?」と相談された場合、「好きになったものはしょうがないよ」とか、「奪っちゃえよ」とか肯定的アドバイスするのは、友達でしょうか?

今の時代、必ずしも不倫が悪いとは言えない時代が来ているとは思います。
しかし、一般的に考えて、悪いことです。やはり友達としては、止めさせるべきではないでしょうか?

それを、肯定してあげるというのは、それは友達ではないと思います。
本当にその人のことを大切だと思うなら、それは、たとえ自分が嫌われてしまったとしても、相手のことを否定してあげるのが、友達ではないでしょうか?

私はそう思います。
最近流行の成分解析に挑戦です。

まずは、ここのテーマ「人間」

人間の成分解析結果 :

人間の47%は回路で出来ています。
人間の25%はアルコールで出来ています。
人間の14%は罠で出来ています。
人間の8%は鉄の意志で出来ています。
人間の4%はかわいさで出来ています。
人間の2%は媚びで出来ています。


???

主成分は回路とアルコール…
コメントできない・・・

次は「にんげん」で解析

にんげんの成分解析結果 :

にんげんの30%は気合で出来ています。
にんげんの27%は覚悟で出来ています。
にんげんの23%は欲望で出来ています。
にんげんの16%は知恵で出来ています。
にんげんの2%は濃硫酸で出来ています。
にんげんの1%は呪詛で出来ています。
にんげんの1%は優雅さで出来ています。

これは当たってるかも?

「気合」と「覚悟」と「欲望」と「知恵」がなければ生きていけないでしょう。
欲望を知恵と気合でかなえる覚悟がなければ前に進めません。
機会がありまして、「創価学会ってどう思う?」と聞かれました。

私自身、創価学会のことを良く知らないので、コメントしがたい部分はあるんですが、それでも、勝手な思い込みからコメントさせて頂くと、以下の感じになります。

私個人としては、全く支持しません。それは、よく聞く噂などから判断した結果です。

しかし、それは、その辺で聞く批判からではなく、それとはちょっと違った見解です。

一度、私のところにも勧誘に来たことがあるんですが、私達学生が実際に参加する部分は、私がここに書いているような事をテーマとして皆で話し合う場だと思います。

実際、私がここに書いてある内容は、独断と偏見に満ち満ちていますが、書いているテーマというのは、生きていくうえでとても大切な部分だと思っています。特に、人とのつながりという部分はとても重要な部分です。

しかし、こういった話は、普段の実生活での、コミュニケーションや、人との関わりの中から、自然と身につけていったり、考えていったりする部分だと思っています。

実際、私自身も人とのコミュニケーションの中で、様々な方々やTV、本の意見を参考にし、自分で考え導き出した考えです。

こういった内容のことは、宗教によって、人から教わるものではありません。
実生活の中で、時には困り、時には悩み、時には喜び導き出すものです。

そして、導き出した自分の考えと他の人の考えを、照らしあわそうと思い照らし合わせるのではなく、ある時、ひょんなことから、何の前ぶりもなく、他の人の意見に触れ、その時、初めて、自分の考えと照らし合わせてみるものだと思います。

もし、宗教によって布教されてしまうと、まず、自分の意見を持つ前に、人の意見を知ってしまうことになります。

それでは、不味いわけです。
あくまで、まずは自分の意見を持つことが大切なのです。

そして、もし、自分の意見を持っていたとしても、宗教による布教には問題があります。

それは、1対1で話をしているのなら良いですが、おそらく、1(布教する側)対多数(布教される側)又は、多数(布教する側)対1(布教される側)でしょう。
まず、前者であった場合、一緒に聞いている周りの人は、とにかく納得しているでしょう。そして、もし、納得していなくとも、そういう場では、納得しているふりをしていると思います。
そうなると、その場では、その布教される内容が、正しいという空気になってしまいます。

そして、後者の場合、自分の周りは、すでにそういった思想の持ち主ばかりです。そうなると、もちろん、そこの空気は、その布教される内容が、正しいという空気です。

人間は、多数意見に従う生き物です。
そうなると、その内容が正しいという錯覚におちいってしまうでしょう。
そして、簡単に洗脳されてしまうでしょう。

洗脳されてしまっては、問題です。洗脳されてしまうと、白装束でその辺をウロウロし始めたり、地下鉄にサリンをまいたりし始める可能性だってあるわけです。(これは極論ですが)

しかし、洗脳されるというのは、そういうことです。
そして、宗教が洗脳を目的としているかというと、それは違います。しかし、宗教というものは、布教する側にその気がなくても、結果的にそうなっている可能性が高いと言う事はできると思います。

話を戻しましょう。

まずは、自分の意見をもち、その上で、他の人の意見と照らし合わせ、自分の意見と、人の意見を対等な立場において、それらの意見を吟味することが大切なのです。

そうするためには、人の意見を聞くときに、「これから人の意見を聞くぞ」という心構えがあってはいけません。
あくまで、話半分くらいで話をしなければ、その意見に耳を傾けすぎ、洗脳されてしまうからです。

話す人間は、自分の考えが正しいんだとすごい勢いで話します。そして、「これから話すぞ」という気持ちでしっかり準備をしてから話すと、その勢いは倍増します。
それでは、また、洗脳されやすくなってしまいます。
あくまで、話すほうも、話半分くらいで話さなければいけません。

こう考えると、こういう事を話し合いませんか?という勧誘は、私は間違っていると考えます。

あくまで、聞くほうも、話すほうも、話半分くらいで、なんとなく考える。
そうすることがちょうど良いコミュニケーションだと考えています。

その結果、人の意見が正しいということになれば、次からは、それが自分の意見ですし、自分の意見が正しいと思えば、それからもその意見を貫けばよいわけです。たいていは、足して割るという結果になるとは思いますが。

以上のような考えから、創価学会という宗教的組織は、個人的には賛同できません。

しかし、ここで1つ思うことは、現代社会において、以上のようなコミュニケーションがしっかり取れている人がどのくらいいるのかということです。
私個人の感覚としては、ほとんどの人ができていないのではないかと思います。

そういった背景で、このようなことを訴えたところで、あまり意味はないのではないかと思います。

まずは、どう思うのかということを強制的にでも考える機会が必要なのではないかと思います。

そういう部分では、創価学会のような組織が、提案して考えさせるという部分は必要ではないのかとは思う部分はあります。

しかし、あくまで、私個人は、否定しますが。
先日、社会人の友人と話をしていて言われました。
「会社になんか守ってもらえない」と。

そうかもしれませんね。
あっさり切られるかも?

しかし、少し考えてみてください。

なんで、あなたは、働くことができるんですか?どうして、暮らしていけるんですか?

それは、会社があなたを働かせてくれているからではないですか?

もちろん、世の中「GIVE AND TAKE」ですから、何も会社に与えてくれない社員に、会社は何も与えてくれないでしょう。
場合によっては、切られるでしょう。

しかし、少なくとも、働かせてもらっているうちは、会社という後ろ盾に守ってもらっているのは間違いないでしょう。

例えば、「○○さん、○○さん」と言って、仕事を持ってきてくれていた人、あるいは会社が、その○○さんが独立した瞬間、そっぽを向く。

こんな話はよく聞く話です。

これは、△△会社という信用ある会社の○○さんだからこそ、仕事を任せられていたのであって、○○さん本人が信用されていたわけではなかったと言う話です。

また、「満を持して起業する」と言うのもよく聞く話です。
そういった方々は、クレジットカードが作れないそうです。
なぜか?
その会社に信用が無いからだそうです。

金貸しも、不良債権を抱えたくないので、安定した収入源のない人には、貸せないそうです。

いつ潰れるかもしれない会社の人間は、安定した収入源をもっているとは解釈してもらえないそうです。

安定した、信用された会社だからこそ、自分も社会的に安定した位置にいられると言うわけです。

これを会社に守られると、私は表現しています。

まぁ、学生の考えることですので。

さて、最後になりましたが、舌足らずさん、みみさん、リンクしてくださってありがとうございます。
まだ、ここのシステムがよく理解できていないので、まずはお礼だけ。
自己満足って駄目なんでしょうか?

よく、「それって自己満足じゃない?」とかいう言葉を耳にします。

この言葉は、「自己満足であって、その人のためではないよ」という意味だと思います。

でも、それって駄目なことなんでしょうか?

確かに、自己満足で行動されると、される方は迷惑かもしれません。
しかし、その迷惑な話を「自己満足」なんて言葉で否定してしまって本当に良いのでしょうか?

まず、全てのことにおいて、満足いくように、行動するべきだと思います。
もちろん、様々な制約が出てくるとは思います。金銭的、時間的、その他もろもろ。
しかし、その中で、いかに折り合いをつけて、自分達が満足できるようにその事柄を実行できるかが大切だと思います。

そうすると、まず大切なのは、自分が満足することではないでしょうか?

自分が満足できないものを、他人が満足できるわけがないと思うのが普通ではないでしょうか?

それに、何かこだわりをもって、物事を行うというのは、とても良いことだと思います。
もっと言えば、こだわりの無い事柄は、良いものであるはずがないと思います。そして、心がないと思います。

私が思うに、「自己満足なんじゃない?」という言葉は、その人の心を踏みにじっています。ある意味最低な行動だと思います。

ですから、自己満足というのは、とても大切なことだと思います。

でも、最初に書いたように、迷惑なものは迷惑なので、その辺は、「私はすでに満足してますよ」としっかり理由をつけて解説してあげれば、良いのではないでしょうか?

と書いてみて、いつになくまとまりのない文章だと思いますが、せっかく書いたのでUPさせて下さい。すいません。
私には少し不思議なことがあります。

それは、体罰について。

何年か前、体罰は駄目だとかなり問題になっていました。

先生が、児童、生徒を殴ったとか、蹴ったとか話題になっていました。

知り合いに、新人教師をしておられる方がいるのですが、やはり、今でも、かなり神経質になっているようです。
ドラマのようなPTAの抗議はさすがに無いようですが、それに近いものは、あるそうです。

しかし、私達が実際に学校に行っていた頃は、殴られるなんてことは、日常茶飯事でした。
男女問わず、殴られ、叩かれたものです。

さすがに蹴りはありませんでしたが…

でも、それが悪いことだとか、いけないことだとは思いませんし、私達の両親も先生方の教育方法に文句を言うなんてことも無かったです。

そして、私は今でも、その教育に方法について、疑問は感じませんし、将来、自分の子どもが学校に通ううことになっても、おそらくこの考えは変わらないでしょう。
私の友人達も、皆そう言います。(類は友を呼ぶといいますから、あまり意味のない話かもしれませんが)

私の心に残っているのは、小学校の先生のお言葉で、「叩かれてできるのは、サーカスの動物だ。言われてできるのも、人間としては幼稚だ。言われなくてもできるのが、人間だ。」です。
深い言葉だと思います。
その通りだと思います。サーカスやショーをする動物達は、餌で動いているか、鞭で動いているかです。
「飴と鞭」ですよ。

犬をはじめとする動物達ですら、飴と鞭で言うことを聞くわけです。

それなのに、人間ができないというのは、いかがなものか?
それも、確固たる意思を持って、反抗しているのならまだしも、おそらく、そんなたいそうな事は考えてないでしょう。

しかし、言ってできないものは、しょうがありません。鞭を与えるしかないと言うのも納得です。
できないものをそのままにしておいても、その人のためになりません。

さて、こういう親の考えは、多分、順を追って、グラデーションとしてちょっとづつ変化していくものだと思うわけです。
その中で、私達の親の世代は、げんこつを肯定し、私達の世代も、肯定する。
しかし、その中間の現在の子ども達の親は否定する。

これって、不思議ではありませんか?

グラデーションが成立してないわけです。私には、理解できない部分があります。
それとも、親の考え方が世代とともにグラデーションするという考えが間違いなのでしょうか?
今まで、すき放題書かせていただきましたが、少し、休憩です。

このDiaryNoteってとても面白いです。

本当に色々な人の気持ちが読めます。

日常しか書いていない人でも、その奥に見え隠れするその人気持ちを感じることができます。
「素敵だなぁ」と思います。

ある人は、「本当に良い仲間に恵まれてるんだなぁ」と思いますし、またある人は、「良い1日を過ごしたんだなぁ」と。

そしてまたある人は、「自分の意見を話せるのは、気持ち良いなぁ」と書いていました。
私も、ここで、すき放題書かせていただいて、そして、読んでいただけていると言うことで、とても気持ち良いです。

普段出会えない、話せない人の気持ちの中を覗けるこのDiaryNoteが末永く利用させていただけますように。
先日の新庄選手のニュース。

王監督に聞きたい。新庄選手が、襟付きのアンダーシャツを着ることが、どのように青少年の健全育成に影響があるのですか?

私には、理解しがたいです。

実際、マスコミもこのような内容については、ほとんど触れていません。

その他にも、ゲームや漫画、その他、青少年の健全育成に問題があると言われているものはとても多くあります。
近年、その傾向はかなり薄まってきている傾向はありますが、やはり、その毛色が拭い去れていないのは現状です。

しかし、そのほとんどが、私には、どのような理由によって、問題であるかは説明不足であると感じます。

私が思うに、何事にも、理由があるとは思います。
しかし、その説明をできていない事柄が多すぎます。

やはり、何事にも、訴えるからには、説明責任があると思います。

特に、それが子どもであれば、なおさらです。
子どもを1人の人格者と見るのであれば、その子の行動を、否定するのであれば、それなりの理由をきちんと説明するのが筋ではないでしょうか?
理由も話さずに全否定されては、その子は、考えを改めることができません。
もし、納得したとしても、それは、納得ではなく、自分の気持ち、考えを殺しただけにすぎません。

自分の気持ちを殺すと言うことは、それは、その子の個性を1つ殺したことになります。
個性を殺すだけであれば、まだ、許せるかもしれませんが、その殺した気持ちが、たとえば、学校の勉強をする動機付けであったり、夢や目標であったり、その子の生きていくうえでの、原動力となる部分かもしれません。

こういった部分が1つ、また1つと殺されていけば、その子は、どんどん、廃人になっていくのではないでしょうか?

しかし、これは、子どもに限ったことではありません。
大人であっても、学生であっても、大きくは変わらないと思います。
自分を1人の人間として認めてもらう。このことが、どれだけの生きていくうえでの原動力となるか。それは、計り知れないものがあります。

しかし、理由も言わず、全否定されてしまえば、それは、自分を1人の人間として認めてもらえているとは、思えないでしょう。

もちろん、その理由について、すべてを話す必要はないとは思います。自分で考え、導き出すという過程も必要です。
しかし、そのきっかけを与えることは必要でしょうし、その後、見つけ出せてないようでしたら、また、別のきっかけを与えるというフォローをしてあげなければいけないのではないでしょうか?

例えば、今回の新庄選手。
彼は、事前に許可をとり、襟付きのアンダーシャツを着、試合に臨みました。
しかし、結果的に問題視され、禁止という形になりました。

もちろん、新庄選手は、強い人間で、その後のメディアへのフォローもできていて、すばらしいとは思いました。
具体的には、練習では、襟付きシャツ着るなど。

しかし、もし、あの時点で、新庄選手が腐っていたら?

見ている視聴者としては、とても、残念です。

せっかく、新庄選手が新しい風を吹き込もうと、きちんと順をおって行動したのに、「青少年の健全育成に問題である」と言う、意味のわかるような錯覚には陥るが、よく考えると、全く意味のわからない理由で、全否定されているのを見ると、夢やら希望やらといった感情が全くわかなくなります。

いけないことはいけないとは、思います。
しかし、その理由がしっかり説明できていなければ、それこそ、青少年健全育成に問題があると思います。
もしかすると、この内容は、人類の永遠のテーマなのかもしれません。

まず、理系的に考えると、友情とは何かが、問題です。
今回は、5月3日の「友達って?」を主に、定義してみます。

1つ。まず、お互いに好きでなければならないと思います。
2つ、相手のことを、本当に考えてあげなければいけないと思います。

大きくは、この2つだと思います。

ところで、有名な言葉に、「女が男の友達になる順序は決まっている。まずはじめが親友、それから恋人、そして最後にやっとただの友達になるというわけだ。(チェーホフ、ロシア)」というのがあります。

私は、男ですので、女性の考えることは良くわかりません。しかし、これは、男にも言えることではないかと思います。

まず、友達の条件1の「好き」という感情は、恋愛感情(LOVE)と友情(LIKE)では、違いがあるのでしょうか?

おそらく、男には、この違いが理解できないと思います。自分の「好き」という気持ちが、どちらなのかは、おそらく、理解できません。
まず、言えることは、男は、それだけ馬鹿なのです。そして、感情に対して不器用なのです。

これは、遺伝子レベルでの話だと思います。実際、男と女では、脳のつくりのも若干の違いがあります。それにより、考え、能力、感情にも差が生じます。

女性は、井戸端会議を筆頭に、おしゃべりが好きな傾向がありますが、男は、あまりしゃべりません。
一説によると、よく話す人は、長生きすると言う話があります。例えばよくしゃべる職業(政治家、大学教授)は長生きをします。そして、男と女では、女性の方がよく喋ります。
女性の方が、圧倒的に長生きします。

さて、話を戻します。それだけ、男と女では、生物としての違いがあるということです。

では、男はどうやって、好きという感情のLOVEとLIKEの違いを判断しているのか?おそらく、その「好き」の度合いで判断しているのです。

そして、友情の定義2の相手のことを考えるですが、相手のことを想うのならば、嫌われるかもしれないリスクを負ってでも、その人がもし、間違いをしているならば、正してあげる必要があります。
しかし、これって、かなりのレベルで好きでなければならないでしょう。そうでなければ、リスクを負ってまで、正すようなことはしません。

さて、ここで問題。
もし、この時、相手が女性だったら、この感情は、LIKEでしょうか?LOVEでしょうか?

おそらく、男には、この違いが理解できないのです。

時には、LOVEだと思うこともあるでしょうし、時には、LIKEだと思うこともあるでしょう。

ここで、もし、LOVEだと感じれば、それは恋愛感情なのです。そして、もし、この時、LIKEだと判断すれば、友情なのです。

こう考えると、男って馬鹿だなとつくづく思います。

さて、ここで、5月1日の「男は昔の女を忘れられるか?」で書いたことを思い出してみます。

まず、男は、1度好きになった人は、永遠とは言いませんが、好きでなくなることはありません。
次に、「あきらめる=好きでなくなる」ではないのです。

そして、ここまでの話をまとめると、まず、自分の好き(LIKE)な人と友達になります。そうすると、好きな度合いがあがっていきます。そして、男は、その好きな度合いがある点を越えると、LOVEだと思います。

そして、付き合うかどうかは別として、いずれふられます。ふられても、男は、その女性のことが好きです。しかし、相手に、恋愛感情の返信はあきらめます。でも、その女性のことは好き。

この時の感情は、おそらく、LIKEともLOVEとも表現できない、あえて言えば、親友の好きになれるのではないでしょうか?

まとめますと、男の場合、「友達→恋愛対象→親友」という課程を踏めれば、友達になれると思います。(はじめから、恋愛対象としてスタートした場合は除きます。あくまで、最初が友情だった場合の話です。)

それが、男ではないかと思います。

しかし、チェーホフの言葉では、女性は、「親友→恋人→友達」という手順を踏むわけです。

もしかすると、その手順の若干の違いが、男と女が友達になれない理由なのかもしれないと思いました。

それは、そうです。男は、恋愛対象になるだけで良いのに対し、女性は、恋人にならなければならない。そして、その後も、男は、親友だと思うのに対し、女性は、友達なわけです。

さて、ここまでは、男の私1人の個人的な意見です。実は友人と話をした結果をここに書くことが多いのですが、今回の話は、全くしたことのない話ですので、他の男性が本当にこう思っているかはわかりません。

そして、今回、このようなことを考えるきっかけとなったのは、実は、このDiaryNoteなんです。こういう点が、このDiaryNoteの面白い点です。

颯子さんの日記(http://diarynote.jp/d/71129/20060511.html)を読んだからです。ここでは、女性の視点から書かれた内容が書いてあります。やはり、若干の考え方の違いがあるようです。
読み比べていただければ面白いのではないでしょうか?(本当は、トラックバックを何とかすれば良いのでしょうが、使い方が…)

最後に、私個人の経験から考えますと、告白してふられる場合、女性がその後を拒否します。この拒否する理由に関しては、颯子さんの日記を参考にして下さい。しかし、告白せずに、失恋してしまった場合、女性は、そのことに気がつかないため、友達になれます。

さて、これは男が悪いのでしょうか?それとも女が悪いのでしょうか?

でも、確実に言えることは、やはり、告白はしたいと言うか、するべきだと思います。いかがでしょう?

最後に、kajさん、ジャスミンさん、リンクありがとうございます。

価値を置くもの

2006年5月15日 人間
人それぞれ、何に価値を置くかが違うと思います。

例えば、時間について。

なんにしてもそうですが、時間を守りましょうと言います。

基本的には、時間を守ることは大切です。しかし、全ての価値を時間において良いんでしょうか?

具体的には、家庭教師。

私は、家庭教師をやっています。
某大手(昔、上戸彩がCMしてたいた)の家庭教師仲介業者のお世話になっております。
そこの方針は、とにかく、時間のことを気にしています。

ある意味、当たり前のことです。社会において、時間を守ることは、ごく自然なことです。

しかし、家庭教師は、1対1の個人指導。

1対多の話とは違います。

お互いが納得していれば、それで良いのです。

例えば、生徒さんが、「何だか今日だるいなぁ」と思った場合、普通に考えると、そんなことは関係なく、先生は指導に行って、実際、指導するわけです。
しかし、私は、そうではなく、もしお互いが次の日なり、来週なりに、都合がつくのであれば、それは、延長するべきだと考えます。
それは、やはり、気が乗らないのに勉強したところで、集中できません。集中して勉強するのとでは、効率が天と地ほどの差ができます。こんなことでは、お互いに時間の無駄です。生徒さんにとっては、お金の無駄です。

休憩に関してもそうです。途中にはさむ休憩も、指定されています。しかし、それも同じ理由で、適せん調節していくべきでしょう。

また、逆に、私たち先生側にも同じことが言えます。
もし、忙しくても、仕事だからと思って、時間通りに行ったとしましょう。しかし、その後もやることがあると、ソワソワして仕事にならないでしょう。時間に送れそうだから、メチャクチャ頑張って走って行ったとしましょう、しかし、疲れきって仕事にならないとかもあるでしょう。

こういうことを考えると、お互いが納得できるならば、もっとリーズナブルに対応をするべきなのです。あくまでも、お互いが納得できるならばですけれども。

実際、時間を大切に使いたいということに、価値を置くならば、お互いに納得できるのであれば、もっと時間にリーズナブルに、お互いのベストの時間を設定するという価値の置き方もあるわけです。

しかし、その一方で、従来通りの時間厳守に価値を置く人もいるわけです。

難しい話です。

最後に、チャーリーさんリンクありがとうございます。
昔、私の尊敬する方がおっしゃられていたこと。

今の時代、何に価値を置くかは、本当に、人それぞれです。

例えば、コンビニのATM。

私は、コンビニのATMは使ったことがありません。

若干、手数料が高いからです。おそらく、私はこの手数料が高いと言う部分が解消されない限り、利用しないでしょう。

しかし、世の中には、目の前に銀行のATMがあったとしても、「そこに行くのが面倒だ」と言って、コンビニのATMでお金を下ろすそうです。

確かに、そういう傾向はあります。

私自身が、実際に昔から思うこと。それは、コンビニでの買い物です。

コンビニのほとんどの商品は定価で売られています。
もちろん、ポテトチップスをはじめ、お菓子類、ジュース類などは、スーパーの方が安いです。もちろん、私は、そういった商品は、なるべくスーパーで買うようにしています。
しかし、多くの友人は、何のためらいもなく、コンビニでそういった商品を買います。
目の前にスーパーがあっても。

私は、コンビニの価値は、深夜営業とお弁当をはじめとするオリジナル商品にあると思います。

決して、昼間にお菓子やジュースを買うところではありません。

コンビニは、なぜかスーパーよりも敷居が低いのです。そして、敷居が低いための手軽さがあります。その手軽さに、そういう友人達は価値を置いているのです。

しかし、もっと面白かったのは、私が、スーパーの特売日に、お菓子を買いだめしていたら、友人は、「そんなにお菓子をどうするの?」と聞いてきました。
確かに、少し買いすぎたところはありましたが、私が、「安いから買っとく。コンビニで買うと高いから」と答えると、何か不思議そうな、腑に落ちない顔をしていました。

私の価値観としては、当然のことなのですが、その友人には理解できなかったようです。

また、別の友達は、こんな行動をとりました。その友人とは偶然スーパーで出会いました。帰りの方向が同じだったので、話ながら帰路についていると、途中でコンビニ寄ると言いだしたのです。私の価値観では、理解できない行動なのです。コンビニで売られている商品のほとんどは、スーパーで売られています。もちろん、スーパーの方が安いのです。その中で、わざわざ、帰りにコンビニに寄ると言う行動は、私には理解できないのです。もちろん私は、「何か買い忘れたの?」聞きましたが、彼は、「いや、特に。お菓子でも買おうかと思って」と。

私には、理解できない未知の行動です。

結局のところ、彼らは、「お菓子を買う=コンビニ」という方程式が出来上がっているのです。これは、単純に、手軽なコンビニで値段を気にせず、欲しいときに買うという習慣がもたらしたものでしょう。

安いときに買いだめしたり、安いところに買いに行こうという発想がないのです。

確かに、お菓子というものは、嗜好品であり、そういう性格を持ったものだとは思います。

しかし、腐るものではなく、半年程度はもつものですから、買いだめをしておいてもなんら問題のない商品なのです。

コンビニとは、いろんな観点から、人の価値観を浮き彫りにするお店なのかもしれません。
学生なので、たまには学生らしい話を。

私自身もサークルに所属しているのでよくわかるのですが、近年の学生のサークル離れは、深刻になっています。

年々、サークル人口は減少し、もはや昔ながらのサークル活動は困難になっています。

特に、伝統のあるサークルでは、それは、かなり深刻な問題です。

まず、なぜ、サークル離れが深刻であるかを考えたいと思います。

最近の学生は、まず、群れるのを嫌います。
以前は、寮や下宿などが主流だったのが、今は、アパートを借りて1人暮らしが主流です。それも、風呂トイレ共同なんてものも、ほぼ絶滅しました。
5〜8年くらい前は、それでも、風呂トイレ共同の部屋は、まだ、そこまで珍しい話ではありませんでした。

そして、我慢することを嫌います。
自分さえ良ければ良い、自分中心なのです。

そして、不景気のためか、バイトし、サークルに参加する暇がないという学生が多いのも現状です。

などなど、様々な要因が上げられます。

しかし、これらは、一般論であり、そして、サークル人口減少の入り口でしかありません。

私が、サークルを始めたのは、こういったサークル人口が減少し始めた頃です。その中で思うこと。それは、中にいるからこそ思うことであり、そして、ちょっと違った切り口で話を進めてみたいと思います。

まず、サークルなんてものは、大学において、必要なものではありません。
もちろん、学生生活を有意義にするためには、必要でしょう。
しかし、大学は学校であり、勉強するところです。講義に出席し、単位を取得し、卒業し学位を取得する場です。

その中で、もちろん人間関係も磨けるでしょう。

講義の中で不十分な部分はバイトで学ぶこともできるでしょう。バイトなら、労働の対価として、お金を得ることもできます。

サークルは、対価ももらえませんし、単位も取得できません。
完全な学生生活におけるオプションでしかありません。
今の時代、サークルでなければ学べないことは全くないでしょう。

その中で、サークルで活動するメリットは?

この問いに答えられる人はそう多くないと思います。

「そんなことない、私は答えられる」と言う人もいると思いますが、それは、本当に、サークルでなければ無理なことなんでしょうか?
もう一度考えてみてください。多分、私は、その言葉を否定できると思います。

さて、話を戻します。

では、サークルのメリットは?

はっきり言って、現在、一般的なサークルにメリットは無いと思います。

本来のサークル活動は、まず、人間関係を学べる場です。
先輩方から、しっかりした厳しい道徳を学び、そして、それを後輩に伝える。

そして、もう1つは、趣味に関してスキルアップを図ること。
例えば、写真部ならカメラについて、現像について、アングル、カット、その他専門的なことを学べるでしょう。

これらは、金銭が絡まないサークルという場だからこそ、金銭の絡むバイトとは違った形で、学ぶことができるでしょう。本来は、それがメリットだったはずです。

しかし、これら2点は、残念なことに、先輩方の貧弱化に伴い、後輩達に伝えることが困難になっているのが現状です。

先輩に威厳がなくなってきています。
理由は簡単です。

なず、天性のカリスマ性を持った人が減少している。
そして、サークル活動に、真剣に取り組んでいる人がほとんどいません。

前者は、それなりにしょうがない部分があるとしても、後者は、いただけません。

特に、スキルアップに関しては、真剣に取り組めば、スキルなんてものは、ある程度なら後からついてきます。

近年のサークル人口の減少は、こう言った、先輩方の不甲斐なさが拍車をかけているのは間違いありません。

続く
さて、引き続きサークル活動の危機(先輩方の不甲斐なさ)について考えていきたいと思います。

私の感覚では、まず、本当に頑張ってサークル活動を行っている人は、ほとんどいないように感じます。
それは、地域や大学によって多少は差があるでしょうが、私の目に付くところではほとんどいません。

そして、面白いのは、そういったやる気のない人が、本当に一生懸命やりたいと思っている人たちを駆逐しているということです。

理由は簡単です。世の中ほとんどのことが多数決で決まります。一生懸命やろうとしている人よりも、やる気のない人の方が、多いからです。

悲しい現実です。しかし、現実です。

もし、一生懸命やりたい人の方が多い場合は、サークルの流れは、一生懸命やりたい人間の方に傾きます。
しかし、やる気のない人間が多いと、必要最低限のことしかやらない方に傾くでしょう。

そうすると、一生懸命やりたい人は、絶対に満足できるものにはなりません。物足りないものになるでしょう。全く楽しくないと思います。

そうなると、おそらく、その人は「もっと頑張ろうよ」と皆をけしかけるでしょう。

しかし、そんな人の言うことに耳を傾ける人はいないでしょう。

なんたって、皆やる気ないんですから。

おそらく、駆逐されます。残念なことに。

私は、そうやって駆逐された人を何人も見てきました。本当は、私がそこで協力してあげられれば良かったのですが、その頃はまだ若かったので、駆逐されてしまうとは夢にも思いませんでした。今では、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

さて、話を戻します。

そうして、駆逐された人がどうなっていくか?

ある人間は、サークルを去っていきました。そして、ある人間は、その中で腐っていきました。
自分の信念を持って、頑張り続けられる人間は、そうはいません。

そして、そんなやる気のない、活気のないサークルを見て、新入生はどう思うでしょう?

一緒にサークル活動をしたいと思うでしょうか?

もし、上手く騙し、入部させたところで、上述したような結果になり、去っていくでしょう。

それが現実です。

もう、どうすることもできない段階にきているサークルも少なくないはずです。

では、なぜ、やる気のない人間がサークルにはびこるのか?

まず、単純に、やる気のない人間の数が多すぎて、それが自然体になってしまっているのです。
自然体とは厄介です。その状態が自然な状態なので、簡単には変わりません。

しかし、なぜ、ここまでやる気のない人間がサークル内に増えてしまったのか?

この理由は、過去にさかのぼります。

それは、ちょうど、私達が入部した頃の話。

サークル人口が減り始め、サークル活動を維持するために、誰でも良いから入部させました。もちろんやる気のない人も。
そして、そのやる気のない人が、サークルを辞めてしまわないように、その人たちに合わせたサークル活動を展開したのです。
そうすることで、体裁を保ったのです。

その当時は、それで問題がなかったわけです。しかし、時が経つにつれ、その問題は、如実に表れ始めました。

それは、そのやる気のない人が、先輩になってしまったのです。

当然、真剣に活動をしていないので、サークルの運営方法がわからない。わからないからといって、自分なりに我武者羅になって運営しようともしない。
まぁ、当然の結果ですね。やる気がないんですから。

そして、サークル自体が腐っていく。その腐ったサークルが、また、体裁を保つために人を集める。最悪の中の最悪の悪循環です。

そして、体裁を気にするサークル運営を行っているため、様々な問題が生じます。

まず、つぶすわけには行かない。
次に、自分がつぶすわけにはいかない。
そして、対外的には、きちんとやっているフリをしなければならない。

私から言わせて貰えば、最低ですね。こんなサークル。相手にする気にもなりません。

別に、つぶしたって良いのです。中にいる人は、やる気がない。新入生も興味を持たない。存続する価値がありますか?

それに、本人は体裁を守るために必死になっているのでしょうが、外から見れば、一発でわかります。そんな活動。

新入生も馬鹿ではありません。そんなサークルに興味を持つはずがありません。

こういった傾向は、おそらく伝統のあるサークルの方が如実に現れていると思います。
歴史のないサークルは、体裁を保つ必要がないので、できる範囲の勧誘をし、できる活動をしているはずだからです。

さて、これを解決する手立てはあるのでしょうか?

続く
さて、やる気がない人ですが、実は、外因的な要因もあります。

まず、以前、サラリーマンNEOで、「今時の若者には、すべて肯定で対処するのが効果的なんですね。」と言っていたという話題を書いたと思います。

実は、今の学生も「今時の若者」なのです。
今時の若者は、自分を否定されることを嫌がります。そして、肯定されれば嬉しく思います。

しかし、私は、別に、これは今時の若者に限ったものではないとは思います。
誰だって、自分を肯定されれば嬉しいでしょうし、否定されれば、ムッとするでしょうし、ショックも受けると思います。

最近の若者は、それが如実に現れているだけです。その1つの原因は、我慢を知らないからだとは思います。しかし、これは現実です。

そして、これは、先日書いた青少年健全育成の問題にもつながります。

さて、その中で、サークルで活動をしていると、意外と理由を告げられず、全否定をされることが多いのです。それも、内部からの否定ではなく、外部からの否定が多いのです。
内部からの否定ですと、簡単に理由を尋ねることもできますし、そうでなくても、一緒に活動をしている人の意見ですので、受け入れることができるとと思います。
しかし、外部からの否定ですと、理由も尋ねにくいですし、意見を受け入れることにも抵抗があります。

ところで、この外部からの否定はどこから来るのか?

大学からくることもあります。しかし、それ以上に、そのサークルのOB、OGからの否定が多いのです。

もう卒業してしまった、文字通り古い人間が、好き放題に今のサークル活動に文句を言ってきます。
もちろん、気持ちはわかります。
私自身、高校に遊びに行ったときは、色々言いたくなりますし、実際に言ってしまいます。

しかし、そのとき、必ず気をつけることは、絶対に彼らに強制しないことです。あくまで、私個人の考えであって、参考くらいにはして欲しいけど、決めるのは君達だからということを、前面に押し出すようにしています。

以前書いたように、現実問題、文句を言うOB、OGの方が活動をしていた当時のような活動はできません。
それは、もちろん、人数の問題もありますが、それ以上に、時代が変わってしまっているのです。
具体的に言えば、法律も変わっていますし、世間の目も変わっています。

その中で、はっきり言って、私は、その当時の活動を維持する意味もなければ、維持する必要もないと思います。

そして、こういった背景の中で、実際、やり方を変えようとする人もいるでしょう。しかし、そういった人は、内部の人間だけではなく、外のOBやOBからも妨害されます。

逆に、先日書いたように、体裁を保つために、活動をしている人も、そのままの体制を保てるわけがないので、やはり、OB、OGから叩かれます。

そして、面白いことに、このOB、OGの文句にきちんとした説明責任を果たせている人は、ほとんどいません。

私個人の考えとしては、いつまで経っても、大学のサークルに干渉してくるような人は、はっきり言って、成長できていない証拠です。
そんな人が、自分の頃とは時代が変わってしまっていることや、説明を上手くできる能力があるはずがありません。なんたって、なぜそうなのかを知らず、単純に、自分がやっていたから、やるべきだとしか思っていないからです。そのすべきことにどんな理由があるかなんてことは、考えたことがないのです。

逆に言うと、成長できていないから、大学のサークルなんてものに、いつまで経っても干渉するのです。はっきり言って、ガキなんです。

そうは言っても、本当に、そのサークルのことを思って、言ってくださっている方もおられるとは思います。
しかし、そういった方は、おそらく、きちんと成長できている方だと思うので、きちんと説明できる能力もあるでしょうし、説明できていると思います。

本当に、自分の所属していたサークルが好きな方は、その事情もよくわかっていると思います。その中で、頑張ればできることは求めてくると思います。それに、もし、無茶を言われても、それが、できないことを、今の学生が、きちんと説明できれば、わかってくださるはずです。
もちろん、学生のほうにも、説明責任があるのです。

しかし、成長しきれていない、駄目OBが、無茶なことを言っていることも事実です。

こういった、駄目OBに対しては、良識をわきまえたOBが、きちんと対応していただきたいものです。
そして、そういったしょうもないOBに対しても、自分の意見や考えを貫ける、確固たる意思が、今の学生にも必要なのです。

続く

最後に、暇つぶしの達人さん。リンクありがとうございます。
すいません、まだ続きます。

さて、先日まで今のサークル活動の現状についてコメントしてきましたが、これを打破する方法はあるのでしょうか?

私は、まだ間に合うと思います。しかし、その道は、険しいものです。

まず、大学です。まず、大学がサークルを認め、評価することです。

大学にとっても、サークル活動が盛んであることは、メリットになるはずです。

学生の意見に耳を傾け、尊重する。いけないことはいけないですし、認められないことは認められないでしょうが、その時、きちんとした説明を行い、お互いに納得する。
そして、サークルを行っている人は、行っていない人よりも、頑張っている人が多いです。その頑張りを認め、評価する。

講義の最中に、褒めてあげるのも1つでしょうし、卒業式で表彰するのも、その1つでしょう。サークル活動で講義に参加できないこともあるでしょう。しかし、そういった人も温かい目で見守ってください。決して、特別扱いをしろと言っているわけではありません。しかし、その事情を考慮してあげることは必要です。

今の若者は、肯定されると喜ぶのです。間違っても、サークル活動を否定するような言動をしてはいけないのです。否定にすぐに屈してしまうのです。

次に、OB、OGの方。温かい目で見守ってください。決して、自分達の頃を押し付けてはいけません。今は今なのです。
その中で、人間として、日本人としての、温かい、思いやりのある指導をしてください。手紙の書き方、挨拶の仕方、その他、社会に出て必要なことは、学生のうちに学んでおいたほうが社会に出てからが楽なのではないかと思います。そういったことを、しっかり、指導してください。しかし、やさしく、思いやりをもって指導してください。
決して、頭ごなしに否定をしてはいけないのです。そして、本来の活動が疎かにならないように、指導してください。時と場合によっては、目をつぶることも思いやりです。

そして、今、やる気がないのにサークルに所属している人。悪いことは言いません。辞めてください。迷惑です。あなた方が、はびこっているせいで、サークルが腐るのです。
別に、誰もあなたを必要としていません。必要としているのは、やる気がある、しっかりと活動をする人です。
あなたが辞めることによって、潰れるサークルなんて、サークル自体が、誰にも必要とされていません。

もし、そのサークルが潰れることによって、困る人がいるのなら、その困る人を中心にして、潰れたサークルの代替品がすぐに出来上がります。それが自然の摂理です。問題ありません。あなたが、中途半端にサークルを続けるほうが、逆に迷惑です。辞めてください。遠慮なく、つぶしてください。何も、あなたが人のために、やる気もないのに頑張る必要はありませんから。

次に、やる気をもって、サークル活動をされている方。このまま、やる気の無い人に負けることなく、今まで通り頑張ってください。
1人で、周りの人間に変化をもたらすことは、今の時代、不可能に近いです。今のサークルを辞めて、他のサークルを探したり、自分で、新しいサークルを作ることも視野に入れてみてください。きっと、何かが見えてくると思います。

そして、新入生の皆さん。しっかりとサークルを吟味してください。
本来、サークル活動をすることは、メリットだらけのはずです。しかし、このメリットが失われていることは、否定できません。しかし、その中で、しっかりした活動をしているサークルもまだ存在します。興味もある人もない人も、一度、しっかり吟味してみてください。きっと、何かが見えてくると思います。
【自画自賛】
1 自分の描いた画に、自分で賛を書くこと。自画賛。
2 自分のした行為を自分で褒めること。自賛。手前味噌。

【手前味×噌】
《自家製の味噌を独特の味があると自慢する意から》自分で自分のことをほめること。自慢。「―を並べる」

【自慢】
自分で、自分に関係の深い物事を褒めて、他人に誇ること。「―ののど」「成績を―する」

【賛・×讚】
1 ほめたたえること。また、その言葉。「バッハ―」
2 漢文の文体の一。人物や事物をほめる際の文章。多く、四字一句で韻を踏む。
3 画面の中に書きそえた、その絵に関する詩句。画賛。
4 仏・菩薩(ぼさつ)の徳をたたえる言葉。
5 論評。批評。

【誇る】
1 すぐれていると思って得意になる。また、その気持ちを言葉や態度で人に示す。自慢する。「技(わざ)を―・る」
2 誇示すべき状態にある。また、そのことを名誉に思う。「輝かしい実績を―・る」「長い歴史と文化を―・る都市」

以上、Yahoo!辞書より引用。


自画自賛と自慢の違いは何でしょう?という課題をいただいてしまいました。

Yahoo!辞書を信じるならば、「自画自賛=手前味噌=自慢」という式が成り立ってしまいます。と言うことは、数学的に考えると、「自画自賛=自慢」になってしまいます。が、これでは、課題をクリアできないので、違った視点から考えてみたいと思います。

まず、「賛」には、「論評、批評」という意味があることに注目です。つまり、自画自賛には、自分を評価すると言う意味が加えられるのではないでしょうか?

自画自賛は、自分で自分のことを褒めるわけですが、その過程に、自分に対しての評価が行われているのです。

次に、「自慢」ですが、自慢とは、自分のことを誇っています。つまり天狗になっているのです。そして、自分で自分のことを評価していません。

例えば、成績は、自画自賛するのではなく、自慢するものです。これは、成績は、すでに他者によって評価されているものだからです。改めて自分が評価する必要もなければ、するものでもありません。

つまり、自画自賛とは、自分で自分を認めてあげることを言い、自慢とは、自分を第三者に誇ることを言います。自画自賛に第三者は必要ありません。

というのが、私の結論になりました。
私の世代は、日の丸、君が代が学校で問題になり始めた頃でした。

しかし、その頃から、理解できないのが、なぜ、君が代を歌うことが問題になるのか?と言う事です。

現実問題、現在の小中学校では、半分くらいの子ども達が、歌わないそうです。

おそらく、歌う人間も、歌わない人間も、自分がなぜ歌わないのか?なぜ歌うのか?を明確に説明できる人はいないと思います。
これは、大人も子どもも合わせてそうだと思います。

特に、たかが小学生が、自分がなぜ君が代を歌わないのか、理由を言えるわけがありません。

では、逆に、なぜ、国歌を歌う風習があるのでしょう?

その本当の意味は私にもわかりません。
しかし、私なりの解釈はあります。

まず、国歌とは、その国の歌です。つまり、その国を象徴するものです。

例えば、市町村や都道府県の木や花ってありますよね?これだってその市町村や都道府県を象徴するものです。
もっと言えば、例えば、観光地を象徴するものってありますよね。例えば、東京タワーはその1つと言えるでしょう。
つまり、国や、市町村、観光地など、形がないものを表現するために、その表現方法として、象徴的なものを準備し、それを代替品とするのです。

その代替品を大切にすることによって、形のない、具体的に大切にできないものを間接的に大切にするということになります。

と言うことは、皆で国家を歌うと言うことは、その国を大切に思うということであると共に、自分がその国の一員であるということの表れなのです。

4月27日の「人はなぜ生きていけるのか?」に書きましたが、私たち人間が生きていけるのは、国に守られているからです。

その守ってもらっている存在に対し、感謝し、大切に思う気持ちは、なくてはならない感情ではないでしょうか?

私は、国家を皆で歌うということには、このような意味があると思います。
ですから、私は、皆で国家を歌う機会があれば、歌います。それが、守ってもらっている存在に対しての礼儀だと思うからです。
続いて、「君が代」が国歌であることについてです。
国歌を歌うのが嫌なのか、「君が代」を歌うのが嫌なのかで、話はかなり違ってきます。

「君が代」の歌詞の意味ですが、簡単に言うと『「君が代」が未来永劫、長く長く繁栄しますように』という意味です。

そして、問題視されているのは、この「君が代」が何を指すかです。

Wikipediaによりますと、本来、この「君が代」はあなた(君)をさす言葉だったそうで、結婚式などで、「その夫婦が、末永く幸せに過ごせますように。」と願いを込めて歌っていたそうです。

しかし、明治時代、「君が代」を国家に指定する際、「君が代」の意味に、天皇を当てるという解釈が生まれたようです。

天皇賛美の考えに通じるために、否定するというのです。

私自身、日本の天皇制には疑問を感じます。今の日本に、天皇は必要ないと思います。天皇に、あれだけの税金を使うのも間違っていると思います。

しかし、日本国憲法には、「天皇を日本の象徴とする」と書かれています。そう書かれている以上、誰が何と言おうと、天皇は日本の象徴なのです。日本の象徴、つまり、日本という形ないものの、存在を明確にするための代替品。言い換えれば、日本そのものという解釈ができるわけです。象徴とはそういうものです。

つまり、「君が代」を「天皇」と解釈した場合、現行の制度では、「君が代」=「日本」なのです。

「日本が末永く、繁栄しますように」という意味になります。なんて素晴らしい国歌でしょう。否定する意味がどこにあるのかがわかりません。

単純に、天皇制否定派が苦し紛れに言った、くだらない戯言のように聞こえてきます。天皇制を否定する方々は、もっときちんとした理論武装をして欲しいものです。

そして、もう1つの否定意見。「君が代」が軍歌であったため、ふさわしくないと言う意見。
確かに、その通りです。こればっかりは、否定できません。しかし、「君が代」を歌うことが、その頃の軍国主義に戻る直接的な原因になるとは思えませんし、「君が代」は、軍歌として登場した歌でもないので、特に大きな問題はないと思います。
ダイナマイトだって、原子力だって、戦争に使われましたが、今は、なくてはならない存在として、立派に平和利用されています。「君が代」も、そういう存在になることができるはずです。

さて、以上を考えると、私は国歌「君が代」を歌わない理由はないのではないのかとは思います。

しかし、私以上にしっかりした意見を持った、「君が代」否定派の方もおられると思います。
その中で、大切なのは、まず、国歌を歌うことに、どのような意味があるのか、そして、「君が代」をどう思うのか。こういった部分を、しっかり考えた上で、歌うのか、歌わないのかを決めるべきなのです。

今の日本では、そういった部分を何も考えずに、「強制するのは良くない」だの、「国歌を歌うことが愛国心に直接つながらない」だのと、結果のみを議論しています。
確かに、その通りです。「強制することは良くない」ですし、「国歌を歌うことが愛国心に直接つながる」とも思えません。
しかし、その歌わなくても良い理由を教育せずに、小学生に、「国歌は、歌いたくなければ、歌わなくても良いよ」と指導するのは、単純に国歌を、もっと言えば、国を愚弄していることになります。小学生には、単純に、「国歌は歌っても、歌わなくても良い、どうでも良い存在なのだ」と聞こえるでしょう。

そんな表面上の教育しかしていないので、教育基本法に「愛国心」なんて、法律用語としては、くだらない言葉が登場するのです。しょうがないですよね。先生が、書かないとわからないのですから。
自分の考えも持たない教師が、世論を盾に、しょうもない指導をするから、教育基本法が、ありえない方向に流れていくのです。

私は、国に国民が守られていることは、事実だと思います。その国に、感謝する気持ちがあっても良いのではないかと思います。

最後に、城崎レイさん、ヴァルハートさんリンクありがとうございます。
自分のブログと人のブログを読み比べて思うこと。(内容は考察しません)

まず、文章量多くない?ここ。
それと、空白行も多くない?改行自体も多いかな?

と言うことで、今回は、どのくらいの分量を、どのくらいスペースを空けて書けば良いかを考えてみましょう。

まず、文章量。どう考えても、長いです。しかも、4回シリーズとか長すぎでしょう…

パッと見てパッと読める分量は?

あまりにも短いと、おそらく言いたいことが伝わらないでしょうし、読んでいて物足りなさがあります。
DiaryNote(パソコン版)の場合は問題ありませんが、DiaryNote(携帯版)やその他の一部ブログサイトでは、1件の書き込みが、1ページになっています。
題名を見て、興味を持って、開いてみたら、1行でした。では、ちょっとイラッとします。

そして、40行を超えてくると、途中で読むのに疲れてしまいます。

個人差もあるでしょうが、私が読みやすいのは、15〜20行くらいでしょうか?長いときは30行程度。

次に改行ペース。どうも、私は1文書くごとに改行してしまいます。癖でしょう。
人によっては、本当に改行を使われていらっしゃらない方もいますが、やはり、ある程度の段落替えは必要でしょう。でも、ここの改行数は多いです。

最後に、空白行について。

普通の文章では、段落が変わる事によって文章に区切りがつくため、空白行の挿入数は少なくても良いのですが、ここのように段落分け以外に改行を利用してしまうと、空白行を利用して段落分けをする必要ができてしまいます。悪循環です。

空白行の挿入は、1箇所に対して、1〜2行でしょう。それ以上の空白行を挿入してしまうと、無駄にスペースを使ってしまいます。

しかし、ここで考えたいのは、ここは、あくまでパソコンの画面上に映し出されることによって、読まれるということです。
普通の紙に印刷された文章ではないのです。

パソコンの画面上、特にインターネット上では、ある程度の直感性が必要だと考えます。パッと見て、どんなことが書かれているのかがわからなくてはいけません。それも、スクロールをする必要なく。

インターネット上では、フラッと通り過ぎていく閲覧者が多いはずです。特に、このDiaryNoteのような大きなブログサイトでしたらなおさらです。リンクをたどって、たまたま通り過ぎていくのです。
そのような人が、ゴチャゴチャしたページをしっかりと読んでくれるでしょうか?

と言うことは、コンパクトに言いたいことをまとめ、その上で、もっと読みたい人の欲求にも答えられる内容でなければなりません。そして、何が書いてあるのかを一目でわかるようにしなければなりません。

今後は、このような方針で書いていければと思います。難しいでしょうが。
具体的な方法については、後日改めて考えてみましょう。

最後に、やっと、お気に入り登録の仕方がわかりました。
実はメチャクチャ簡単…
お礼の意味も込めて、現在リンクしてくださっている方は、順番にリンクさせていただこうと思っています。

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