結局のところ私がどう思うかだけの話であることは間違いのない話です。
今日の話は、不快に感じる人も少なくないと思います。あらかじめ断らせていただきます。
ちょっと懐かしい話を持ち出しますが、私は、坂東さんを尊敬します。あの文章には、それだけの価値があると思います。
あの文章は、自分を正当化しているものではありません。その逆です。
そう解釈させるように、たくさんの伏線をはっています。
坂東さんが一番言いたいことは、「この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。」の部分でしょう。
残りの全ての文章は、この2文の価値を上げるためのオプションでしかないと思います。
残念ながら、現代日本人は、命に関して、軽く考えすぎています。それは、残念ながら、以前私が書いた「恋愛、結婚、セックス」シリーズに皆さんから頂いたコメントにより、確信しています。
セックスという行為は、誰が何と言おうと、繁殖するための行為です。私はこれに関しては絶対に譲りません。
避妊という言葉が存在しますが、100%の避妊などは、存在しない。と言われています。
その上で、セックスを行うということは、妊娠を覚悟の上でセックスをしていると解釈せざるを得ません。
しかし、現実問題、望まない妊娠が起こったとき、どうするのでしょう?
多くの場合は、中絶するわけです。
法律上は、少なくとも、中絶できる期間の胎児のことを人間として認めていません。
つまり、法律上は、命ではないと解釈されているわけです。
そう、命ではない。
本当ですか?本当に命ではないのですか?
私はそれは違うと考えます。
つまり、命を殺すことを前提として、自分の快楽、あるいはコミュニケーションと称して、セックスをしているわけです。
避妊をすれば大丈夫?私に言わせれば、ふざけるなです。
100%でない限り、その可能性を覚悟しておく必要があります。セックスとは、それだけ重い行動です。
セックスをし、妊娠し、中絶したのであれば、それは、紛れもない殺人です。生まれた子どもを殺す親とどの程度の違いがあるのか?
私に言わせれば、その違いは法律で許されるかどうかの違いでしかないと考えます。
つまり、合法であれば、人を殺しても良いのか?ということです。
「恋愛、結婚、セックス」の裏側には、このような意味も含めて論じていました。
さらに話を前にもっていきます。
どこまでを命と称するのかという問題です。
人間の場合は、日本の法律では、22週までは、少なくとも命と認めていないことになります。
しかし、以上で述べたように、それ以前も命であるはずです。
もっと言えば、今後生まれるであろう可能性のある命は、命と表現しても良いはずである。と私は思います。
つまり、避妊手術を行った場合、今後生まれる可能性のあった全ての命を奪ったに等しい。と考えます。
ここで、猫の話に戻します。
もし、猫に避妊手術を施した場合、その猫が今後産むはずであった生命をあらかじめ奪ったということになります。
つまり、胎児であれば殺しても良いという発想と全く同じです。
この行動に、生まれた子猫を殺すこととどのような違いがあるのか、疑問です。
つまり、子種を殺すか、できた子を殺すか、大きな違いはないと思います。
実際に、眼に見えるか見えないかです。
もちろん、この違いは人間の罪悪感において重要です。眼に見える猫を殺すのと、眼に見えない猫を殺すのでは、罪悪感に天と地程の差があります。
しかし、私は問いたい。罪悪感のない犯罪ほど怖いのでは?
同じ原理で、罪悪感のない猫殺しのほうが危ないのでは?
私は先日、保健所に連れて行くくらいなら、自分で殺した方がましだと表現した。
命の大切さを学ぶときは、命を失う瞬間に立ち会った時だと言われています。これは、私の意見ではありません。よく聞く意見です。
保健所に連れて行き、その最後まで立ち会う人間がどれほどの数いるのでしょう?
おそらく、その割合はとてつもなく少ないと思います。
つまり、人任せであり、そして、眼に見えない死です。
眼に見えない死に、命の大切さを感じることは難しい。
しかし、自分で手を掛けた場合はどうでしょう?
その瞬間に、やりきれない思いでいっぱいになるでしょう。
そして、自分の行動がいかに身勝手であるかを身をもって知るでしょう。
この時の思いを私は想像できません。
しかし、最初から猫に避妊手術を行い、自分の罪を隠し、また、覚悟もなく平気でセックスをする人には、この考えは理解できないでしょう。
もし、理解できるのであれば、坂東さん、日経新聞の真意というのは、少し読めばわかるのではないのでしょうか?坂東さんの文章を読み、ギャーギャー言っている人は、胎児は殺しても良いと本気で思っているに違いないと思います。
坂東さんがこの文章で伝えたいのは、「私は罪深い人間である。しかし、避妊手術を行って生まれてくるはずの命をあらかじめ殺すこととどの程度の違いがあるのか?眼に見える猫を殺すことは罪深い。しかし、眼に見えない猫を殺す罪とどの程度の違いがあるのだろう?」ということだと思います。
この文章では、猫の殺し方も、より残虐でなければなりません。より残虐であった方が、罪深く感じられるから。
いかに、自分の罪が重いものかを表現することによって、それと同じことをしているあなたの罪は?と問いかけているのではないでしょうか。
こういう話を、避妊は罪深いと言葉で直接的に表現したところで、説得力は皆無に等しいです。
それは、今現在、この文章の批判を見れば一目瞭然です。
避妊手術と子猫殺しを同等化し、自分を正当化しようとしている。という意見が多いということは、避妊手術に罪はないと思っているという証拠です。
罪はないと思っている人間に、あなたは罪深いと表現したところで、馬の耳に念仏です。
そこで、この問題を違う視点から話題にし、避妊手術の是非にまで論点を広げてもらうという表現技法をとっているのです。
日常的に、中絶や避妊手術が行われている昨今、なぜ、それが正当化されるのかがわからない。
しかし、民主主義の日本では、少数派は、多数派に追いやられ、抹消されるもの。
坂東さんも日経新聞も鬼畜ではない。ただの異端児である。しかも、皆が逃げている罪に、真っ向から戦っている人です。私は、そんな坂東さんを尊敬します。
きっと、こんな私もただの異端児なんでしょう。
でも、知ってますか?殺人よりも、殺人教唆の方が罪は重いのです。
今日の話は、不快に感じる人も少なくないと思います。あらかじめ断らせていただきます。
ちょっと懐かしい話を持ち出しますが、私は、坂東さんを尊敬します。あの文章には、それだけの価値があると思います。
あの文章は、自分を正当化しているものではありません。その逆です。
そう解釈させるように、たくさんの伏線をはっています。
坂東さんが一番言いたいことは、「この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。」の部分でしょう。
残りの全ての文章は、この2文の価値を上げるためのオプションでしかないと思います。
残念ながら、現代日本人は、命に関して、軽く考えすぎています。それは、残念ながら、以前私が書いた「恋愛、結婚、セックス」シリーズに皆さんから頂いたコメントにより、確信しています。
セックスという行為は、誰が何と言おうと、繁殖するための行為です。私はこれに関しては絶対に譲りません。
避妊という言葉が存在しますが、100%の避妊などは、存在しない。と言われています。
その上で、セックスを行うということは、妊娠を覚悟の上でセックスをしていると解釈せざるを得ません。
しかし、現実問題、望まない妊娠が起こったとき、どうするのでしょう?
多くの場合は、中絶するわけです。
法律上は、少なくとも、中絶できる期間の胎児のことを人間として認めていません。
つまり、法律上は、命ではないと解釈されているわけです。
そう、命ではない。
本当ですか?本当に命ではないのですか?
私はそれは違うと考えます。
つまり、命を殺すことを前提として、自分の快楽、あるいはコミュニケーションと称して、セックスをしているわけです。
避妊をすれば大丈夫?私に言わせれば、ふざけるなです。
100%でない限り、その可能性を覚悟しておく必要があります。セックスとは、それだけ重い行動です。
セックスをし、妊娠し、中絶したのであれば、それは、紛れもない殺人です。生まれた子どもを殺す親とどの程度の違いがあるのか?
私に言わせれば、その違いは法律で許されるかどうかの違いでしかないと考えます。
つまり、合法であれば、人を殺しても良いのか?ということです。
「恋愛、結婚、セックス」の裏側には、このような意味も含めて論じていました。
さらに話を前にもっていきます。
どこまでを命と称するのかという問題です。
人間の場合は、日本の法律では、22週までは、少なくとも命と認めていないことになります。
しかし、以上で述べたように、それ以前も命であるはずです。
もっと言えば、今後生まれるであろう可能性のある命は、命と表現しても良いはずである。と私は思います。
つまり、避妊手術を行った場合、今後生まれる可能性のあった全ての命を奪ったに等しい。と考えます。
ここで、猫の話に戻します。
もし、猫に避妊手術を施した場合、その猫が今後産むはずであった生命をあらかじめ奪ったということになります。
つまり、胎児であれば殺しても良いという発想と全く同じです。
この行動に、生まれた子猫を殺すこととどのような違いがあるのか、疑問です。
つまり、子種を殺すか、できた子を殺すか、大きな違いはないと思います。
実際に、眼に見えるか見えないかです。
もちろん、この違いは人間の罪悪感において重要です。眼に見える猫を殺すのと、眼に見えない猫を殺すのでは、罪悪感に天と地程の差があります。
しかし、私は問いたい。罪悪感のない犯罪ほど怖いのでは?
同じ原理で、罪悪感のない猫殺しのほうが危ないのでは?
私は先日、保健所に連れて行くくらいなら、自分で殺した方がましだと表現した。
命の大切さを学ぶときは、命を失う瞬間に立ち会った時だと言われています。これは、私の意見ではありません。よく聞く意見です。
保健所に連れて行き、その最後まで立ち会う人間がどれほどの数いるのでしょう?
おそらく、その割合はとてつもなく少ないと思います。
つまり、人任せであり、そして、眼に見えない死です。
眼に見えない死に、命の大切さを感じることは難しい。
しかし、自分で手を掛けた場合はどうでしょう?
その瞬間に、やりきれない思いでいっぱいになるでしょう。
そして、自分の行動がいかに身勝手であるかを身をもって知るでしょう。
この時の思いを私は想像できません。
しかし、最初から猫に避妊手術を行い、自分の罪を隠し、また、覚悟もなく平気でセックスをする人には、この考えは理解できないでしょう。
もし、理解できるのであれば、坂東さん、日経新聞の真意というのは、少し読めばわかるのではないのでしょうか?坂東さんの文章を読み、ギャーギャー言っている人は、胎児は殺しても良いと本気で思っているに違いないと思います。
坂東さんがこの文章で伝えたいのは、「私は罪深い人間である。しかし、避妊手術を行って生まれてくるはずの命をあらかじめ殺すこととどの程度の違いがあるのか?眼に見える猫を殺すことは罪深い。しかし、眼に見えない猫を殺す罪とどの程度の違いがあるのだろう?」ということだと思います。
この文章では、猫の殺し方も、より残虐でなければなりません。より残虐であった方が、罪深く感じられるから。
いかに、自分の罪が重いものかを表現することによって、それと同じことをしているあなたの罪は?と問いかけているのではないでしょうか。
こういう話を、避妊は罪深いと言葉で直接的に表現したところで、説得力は皆無に等しいです。
それは、今現在、この文章の批判を見れば一目瞭然です。
避妊手術と子猫殺しを同等化し、自分を正当化しようとしている。という意見が多いということは、避妊手術に罪はないと思っているという証拠です。
罪はないと思っている人間に、あなたは罪深いと表現したところで、馬の耳に念仏です。
そこで、この問題を違う視点から話題にし、避妊手術の是非にまで論点を広げてもらうという表現技法をとっているのです。
日常的に、中絶や避妊手術が行われている昨今、なぜ、それが正当化されるのかがわからない。
しかし、民主主義の日本では、少数派は、多数派に追いやられ、抹消されるもの。
坂東さんも日経新聞も鬼畜ではない。ただの異端児である。しかも、皆が逃げている罪に、真っ向から戦っている人です。私は、そんな坂東さんを尊敬します。
きっと、こんな私もただの異端児なんでしょう。
でも、知ってますか?殺人よりも、殺人教唆の方が罪は重いのです。
今までありがとうございました。
2006年11月30日 御一読ください コメント (10)11月の終わりと共に、本日をもって、こころの書く「人間ってなんだろう」を終了します。
短い間でしたが、たくさんの方々に読んでいただき、また、様々な意見交換ができたことを八百万の神々に感謝します。
まさか、27734件もカウンターが回るとは思いもよりませんでした。
もしかすると、突然ここに戻ってくるかもしれませんし、永遠に戻って来ないかもしれません。
いづれにせよ、しばらくの間はここを消すつもりはありません。
興味のある方は気になるものを読んでみてください。
また、いずれどこかでお会いできることを八百万の神々に祈って。
さようなら。
以下、相互リンク方々へのメッセージがあります。
短い間でしたが、たくさんの方々に読んでいただき、また、様々な意見交換ができたことを八百万の神々に感謝します。
まさか、27734件もカウンターが回るとは思いもよりませんでした。
もしかすると、突然ここに戻ってくるかもしれませんし、永遠に戻って来ないかもしれません。
いづれにせよ、しばらくの間はここを消すつもりはありません。
興味のある方は気になるものを読んでみてください。
また、いずれどこかでお会いできることを八百万の神々に祈って。
さようなら。
以下、相互リンク方々へのメッセージがあります。