今日も、ある人へのメッセージです。
なるべく一般化して書くつもりですので、良ければ読んでみて下さい。
ブログもまた「モノ」であるという話は、8月16日の「もったいないおばけ(3)「物」と「者」と「もの」」に書きました。
ブログは、モノであり、そして、人に何かを伝えるための「モノ」であります。
もちろん、書き手によって、その限りではないとも考えられますが、人に読ませることを前提としないのであれば、7月5日の「秘密日記」に書いたように、その辺にあるメモ帳にでも書いて、大切に仕舞っておけば良いのです。
その中で、インターネットと言うものを利用してブログを書くということは、それは、多かれ少なかれ、人に読んでもらいたいという願望があることに他なりません。
さて、素人考えなのですが、例えば、芸術家(アーティスト)という観点では、絵とか音楽というものは、生み出す人間は、ある特定の人に向けたものをかくのかもしれませんが、それを関係のない人間にも見せ(聞かせ)ますよね?
そして、向けて書いた人よりも、その他多数の人の評価を気にしませんか?
例えば、ライブに来てくれるかや、展覧会に来てくれるか、コンクールで評価されるか、プロであれば、売れるかどうか?などなど。
何かを生み出す時、その目的と言うのは大切なのかもしれませんが、人の目(耳)につくようにする場合、それは、その目的以上に、その他大勢の人に認められるかと言うことがかなり大きなファクターになってきます。
そして、それは、このDiaryNoteを始めとするブログでも言える事で、日記をインターネット上に書く以上、それは、不特定多数の人間に見てもらうことが1つの目的になっていると解釈することができます。
もし、あくまで、「自分のために書いている」とか「あなたのために書いたのではない」と言ったとしても、インターネット上に書かれている以上、不本意であっても、それを見た不特定多数の人間は、非常に重要なファクターとなってしまいます。(そのファクターをどのように扱うかは、今回のテーマからは逸脱するので触れません)
その中で、例えば、私の場合は、自分の考えたことを人に評価してもらいたいという気持ちから書いる部分があります。
このように、ブログをインターネット上に書くという行為は、多かれ少なかれ、不特定多数の人間に評価(評価と言う表現では、ちょっと違う気もしますが、良い言葉が思いつきません)してもらいたいと言う気持ちが含まれていることは、間違いないと思います。
もし、そのような考えが微塵もないのであれば、インターネット上でのブログ運営を行うという行為は、非常に疲れる行為になると思います。
私は、ブログには、そのような側面があると思います。
ところで、これまた素人考えなのですが、ブログの類似品として、mixiというものがあります。
これは、閉鎖されている環境の中で、文章を書くものであると認識しています。
つまり、上記のような私の考えるブログの側面を持たないものなのです。
しかし、現在、ブログ⊇(含まれる)mixiという式が成り立っている気がします。
mixiとブログでは、似て非なるもの。
閉鎖しているからこその特徴もあるでしょう。
その文章に、どのような性格をもたせるかによって、発表の場が変わってくると言えます。
閉鎖的環境で生産されているものは、ある意味で日の目をみません。
しかし、DiaryNoteのような環境であれば、常に、不特定多数の人間が目にする環境にあります。
どちらを選ぶかは、利用者の判断です。
しかし、不特定多数の人間に向けて(も)、モノを書きたいのであれば、ココです。
mixiでは、そのような機会は少ないでしょうし、逆に、自分の生産したものを、せっかくだからと、世界に発信したい人には、理解し得ない環境でもあるでしょう。
実は、ココの秘密日記にも、同じ側面があると思うのです。
だからこそ、私は秘密日記を使っていません。
これらは、例えば「芸術」を含む「モノつくり」を目指す人間としては、ごく自然な考えだと思うのです。
キーワードは、「不特定多数」です。
もちろん、ケース バイ ケースで、自分を使い分けるというのが、社交的なのかもしれません。
しかし、そこまで苦労して、付き合う必要もないのではとも思うのです。
仕事ではないのですから、わざわざ疲れなくても?とも思うのです。
今日から、自分の記事を引用した場合は、最後にリンクを貼ろうと思います。この方が便利だと思いますので。
「もったいないおばけ(3)「物」と「者」と「もの」」http://diarynote.jp/d/77110/20060816.html
「秘密日記」http://diarynote.jp/d/77110/20060705.html
なるべく一般化して書くつもりですので、良ければ読んでみて下さい。
ブログもまた「モノ」であるという話は、8月16日の「もったいないおばけ(3)「物」と「者」と「もの」」に書きました。
ブログは、モノであり、そして、人に何かを伝えるための「モノ」であります。
もちろん、書き手によって、その限りではないとも考えられますが、人に読ませることを前提としないのであれば、7月5日の「秘密日記」に書いたように、その辺にあるメモ帳にでも書いて、大切に仕舞っておけば良いのです。
その中で、インターネットと言うものを利用してブログを書くということは、それは、多かれ少なかれ、人に読んでもらいたいという願望があることに他なりません。
さて、素人考えなのですが、例えば、芸術家(アーティスト)という観点では、絵とか音楽というものは、生み出す人間は、ある特定の人に向けたものをかくのかもしれませんが、それを関係のない人間にも見せ(聞かせ)ますよね?
そして、向けて書いた人よりも、その他多数の人の評価を気にしませんか?
例えば、ライブに来てくれるかや、展覧会に来てくれるか、コンクールで評価されるか、プロであれば、売れるかどうか?などなど。
何かを生み出す時、その目的と言うのは大切なのかもしれませんが、人の目(耳)につくようにする場合、それは、その目的以上に、その他大勢の人に認められるかと言うことがかなり大きなファクターになってきます。
そして、それは、このDiaryNoteを始めとするブログでも言える事で、日記をインターネット上に書く以上、それは、不特定多数の人間に見てもらうことが1つの目的になっていると解釈することができます。
もし、あくまで、「自分のために書いている」とか「あなたのために書いたのではない」と言ったとしても、インターネット上に書かれている以上、不本意であっても、それを見た不特定多数の人間は、非常に重要なファクターとなってしまいます。(そのファクターをどのように扱うかは、今回のテーマからは逸脱するので触れません)
その中で、例えば、私の場合は、自分の考えたことを人に評価してもらいたいという気持ちから書いる部分があります。
このように、ブログをインターネット上に書くという行為は、多かれ少なかれ、不特定多数の人間に評価(評価と言う表現では、ちょっと違う気もしますが、良い言葉が思いつきません)してもらいたいと言う気持ちが含まれていることは、間違いないと思います。
もし、そのような考えが微塵もないのであれば、インターネット上でのブログ運営を行うという行為は、非常に疲れる行為になると思います。
私は、ブログには、そのような側面があると思います。
ところで、これまた素人考えなのですが、ブログの類似品として、mixiというものがあります。
これは、閉鎖されている環境の中で、文章を書くものであると認識しています。
つまり、上記のような私の考えるブログの側面を持たないものなのです。
しかし、現在、ブログ⊇(含まれる)mixiという式が成り立っている気がします。
mixiとブログでは、似て非なるもの。
閉鎖しているからこその特徴もあるでしょう。
その文章に、どのような性格をもたせるかによって、発表の場が変わってくると言えます。
閉鎖的環境で生産されているものは、ある意味で日の目をみません。
しかし、DiaryNoteのような環境であれば、常に、不特定多数の人間が目にする環境にあります。
どちらを選ぶかは、利用者の判断です。
しかし、不特定多数の人間に向けて(も)、モノを書きたいのであれば、ココです。
mixiでは、そのような機会は少ないでしょうし、逆に、自分の生産したものを、せっかくだからと、世界に発信したい人には、理解し得ない環境でもあるでしょう。
実は、ココの秘密日記にも、同じ側面があると思うのです。
だからこそ、私は秘密日記を使っていません。
これらは、例えば「芸術」を含む「モノつくり」を目指す人間としては、ごく自然な考えだと思うのです。
キーワードは、「不特定多数」です。
もちろん、ケース バイ ケースで、自分を使い分けるというのが、社交的なのかもしれません。
しかし、そこまで苦労して、付き合う必要もないのではとも思うのです。
仕事ではないのですから、わざわざ疲れなくても?とも思うのです。
今日から、自分の記事を引用した場合は、最後にリンクを貼ろうと思います。この方が便利だと思いますので。
「もったいないおばけ(3)「物」と「者」と「もの」」http://diarynote.jp/d/77110/20060816.html
「秘密日記」http://diarynote.jp/d/77110/20060705.html
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