さて、「モノ」という表現の中に、「コンテンツ」も含まれるとすると、どうなるのか?
どうもなりません。モノを大切にしましょうと言いたいのです。

そう、形のない、文章やプログラム、音楽、映画を大切にしましょう。

例えば、ブロガーの皆さん。あなたの書いているブログは、もう立派なコンテンツです。
そのコンテンツを自分の作り上げたコンテンツとして、大切にしましょう。

もちろん、できの悪いコンテンツを消したくなることはあるでしょう。しかし、それもあなたの記録なのです。失敗したことも記録です。失敗があるからこそ、成功もあるのです。
その記録を封印することはあっても、大切な記録として、残しておきましょう。

安易に消し去って良いものであるはずがありません。

自分で生み出したモノを簡単に消し去ってしまうことが良いはずがありません。
自分で生み出したものこそ、本来、愛着がわくはずです。

人につくってもらったモノよりも、自分でつくったモノの方が愛着があるはずです。

自分でつくったモノに愛着をもてない人が、人につくってもらったモノに愛着をもてるはずがないと思うのです。

つまりは、モノを大切にできない。簡単に使い古して捨てるのです。

さて、結局何が書きたいのか言いますと、コンテンツを大事にすることを忘れていませんか?と言いたいのです。

コンテンツがまだ新しい文化であるため、そのコンテンツがなんなのか理解できていない人が多いのではないかと思います。
私の見解も、あくまでも1つの見解ではあります。しかし、コンテンツは、モノであると思います。モノである以上、やはり、大切にすべきではないでしょうか?

コンピューターが発達した昨今、
まず、簡単に複製できてしまいます。自分でつくるという行為を忘れていないですか?

次に、跡形もなく消し去ることも容易です。自分のつくったモノを簡単に消し去っていませんか?

リセットできてしまう。失敗したら、簡単にリセットしてやり直しませんか?


自分の今までしてきた行為に責任を持つことと、その結果、失敗したのなら、その失敗を受け止めることが大切だと思います。本来、皆さん、そう教わってきたはずです。
そういう過程を踏むからこそ、出来上がったモノを大切にできるのだと思います。

コンピューターの発達により、そういった過程がないがしろにされている気がします。

先日、「リセットしたかった・・・」と言って、人を殺した少年がいました。

そのニュースを見て、たくさんの方がTVやブログなどで、コメントされていますが、「現実は。ゲームとは違うんだよ。」とか、「ゲームと現実の違いが理解できていない」とか言っていますが、それは、あくまでも結果論です。

だいたい、子ども(彼は高校生でしたが)が、現実とゲームの違いを理解できるはずがないのです。
小さい頃、TVのヒーローにあこがれて、いつかウルトラマンになるんだと思いませんでしたか?これこそ、子どもが現実との区別がついていない証拠です。(TVは自分が操作することができないため、自分の行動に直接的な影響を及ぼさないのです)
でも、今でも、心のどこかにウルトラマンがいれば良いのにと思いませんか?

ゲームが直接悪いわけではなく、コンテンツを大切にしない、もっと言えば、モノを大切にしない、そんな風潮が、そうさせているのです。

親や先生が、子どもを教育するとき、「失敗は、失敗として受け止めなさい。リセットしてやり直すことができるのだとしても、やり直すのではなく、その失敗を受け止めて、それを糧としてもう一度挑戦しなさい」と教えれば良いのです。

ゲームのセーブデータも、あなたが長時間かけて積み重ねてきた、あなたの記録であり、ある種のコンテンツなのです。

その記録を大切にすることが、本来大切なのではないでしょうか?

それができないから、命を大切にできないのです。

ゲームの遊び方にだって、タブーがあって良いのです。

それを教えるのは、親や先生といった大人達なのです。

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