多数決は、恐ろしいです。

私は、どう考えても、正しいことを言っています。
でも、周りの人間は、全員が私が間違っていると言います。

そうなると、もめます。

ここで登場。民主主義の王道、多数決です。

恐ろしい世界です。こんなの絶対に負けます。

でも、間違いのまま進めるわけにはいけません。

こういう時は、どうすれば良いのでしょうか?

この事を考えたのは、皆で文章を考えていたときです。
どう考えても、文法がおかしかったのですが、そのことが通じない。
この場合は、本で調べたり、詳しい人に相談すれば良い話なのですが、これは何も、こんなことだけに当てはまるものでは無いのではないでしょうか?

改めて、多数決の恐ろしさについて考えさせられました。

コメント

城崎 レイ
2006年6月19日16:35

 多数決での決定事項は、それが理論的に正しいかどうかを議論するスキがないから、怖い部分もありますね。
 たとえ多数決では決まったことであっても、いちおう少数派の意見も聞くというのは大事かもしれません。

 多数派は、その場のイケイケドンドンな勢いのまま、問題の本質を考えずに進むことがあるので、冷静に少数派の意見を聞けば考え方が変わるかも知れませんからね。

ジャスミン
ジャスミン
2006年6月20日0:20

昔、高校生のころ、学級委員などというのをやらせられたときに、
席替えをしたいという声が上がり、クラスで話し合いをしました。
でも、したいというのと、したくないというのがいて。。
多数決を一応取りました。
でもね、少数派を切り捨てることが出来なくて。。
したい人の理由が明確でなかったから、結局しなかったんだけど、
あのときの判断って間違ってなかったのかな?と、
ここを読んで思い出しました。
ごめんなさいね。問題が小さすぎて。。

こころ
こころ
2006年6月20日10:30

コメントありがとうございます。
小さい問題ほど説得力があります。

やはり、意見というのは、多数派、少数派よりも、その裏に隠された厚みが重要なのだと、お二人の意見を読んで感じました。

kaj
kaj
2006年6月20日11:28

多数決という決定方法は、人間の善性に重きを置かない契約によって成立する民主主義社会においては絶対的に正しいのですよ♪(対概念として評される宗教の一種の様にさえ思える社会主義が、ヒトの善性を前提条件としていたが故に盛大な失敗として記憶される事となったのは、そんなに古いお話ではないでしょう?)
群れを維持するためには、最大公約数的な幸福と、実際には実在し得ない標準的な個の概念が(あくまで実体があるとは言ってませんからね)必要となるのです...飴と鞭とか朝三暮四みたいなお話ですけどね。
理由がないと群れは、動かせません。
群れは群れとして生き延びる事が目的ですから、構成要素のそれぞれには意味を見出しえません。
重要なのは、総量としての幸福と実在しない標準なる個の幸福で在り、本来ならばその個に置き換われるべきだと思い込まされている「私」とか「あなた」といった差異は、初めからカウントすらされていない。
否を唱えるのは自由だけども(それこそ民主的ですからねぇ)その責を負うのは、あくまで言いだしっぺ一人だけ(^_^;)また、それすらも煩わしいと思考を停止して諾々と従うのも自由(笑)
自由であるという事は、全てのパラメータを自分で決めなくてはいけないって事なんだけどなぁ。
群れの一員である事を容認した時点で(沈黙を持って肯定とするって奴ですよ)契約は、守られなければ成らない事に摩り替わる。
何も「可笑しな事」では無いのですよ、ヒトがヒトという種を地に満たすのにはネ♪

こころ
こころ
2006年6月23日16:26

>kajさん
コメントありがとうございます。
どうも、キツネやタヌキに化かされたような感覚を覚えましたが、そうなのかなぁ…と思います。
しかし、結果論として、以前書いたソクラテスのようのに、正しいのに、絶対的多数の元に、死んでいった方々というのは珍しい話ではありません。
その中で、多が正しいのだとするのは、絶対に間違っているのではないかと思います。
ただ、仰られるとおり、群れの運営には、必要な行為だとは思いますが、群れの存続に対して何が大切かと言うと、それは多数決ではないのではないかと思います。

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