語り継がれる戦争の記憶
2006年5月29日 社会 コメント (2)
ISBN:4063603245 文庫 三枝 義浩 講談社 2002/08 ¥525
あゆみさんから、5月27日の「ナイトとお姫さま」にご指摘がありました。
まず、ご指摘を頂いた上で、簡単にではありますが、自分なりに調べさせて頂いた結果、ここでの引き合いに、特攻隊の話を出すことは、あまり適切ではなかったかもしれません。
私自身、当時のことを深く知っているわけもありませんので、浅はかな考えであると思います。
しかし、いくら教育されたからとは言っても、会ったことのない天皇のために、自らの命を投げ出せた人が何人いたでしょうか?
以前、週間少年マガジンで、当時の特攻隊の生き残りの方を取材して、描かれた漫画が掲載されていました。(単行本化され3冊にまとめられています。また、このシリーズは現在も健在で毎年夏になると掲載されています。最近はイラク戦争、アフガニスタンなど、最近の事例が取り上げられています。)
そこで、当事者達の心情として描かれていたのは、やはり、天皇のためではなく、家族や恋人に対する思いからということでした。
また、特攻自体は、志願制であり、本人の意思であったと表現されていました。(しかし、当時、特攻を本当に断れる環境にあったかどうかは、定かではありません。)
また、天皇のため、国のためであったとしても、それは、自分以外の他者のための行動であり、そこには、自分に対しての損得感情がないため、議論上における問題はないかとは思います。
私の中での特攻というものは、そういう風に解釈していたため、このような表現をさせて頂きました。
せっかくなので、この騎士道の話をさらに、掘り下げてみたいと思います。
このマガジンのシリーズで、アメリカ軍の視点から書かれた沖縄の地上戦の話もありました。
この特攻という行為が、アメリカ軍には理解できない、未知の攻撃であるという表現がされていました。また、同時に、次々と玉砕していく日本兵に対しての、疑問と恐怖も描かれていました。
日本人とは、特にそういう自分を犠牲にしても、他人のため、自分の大切な人のために命を投げ出すことができる民族なのです。
たとえ、それが当時の教育における副産物であったとしても、それは、とても素晴らしいことだと私は思います。(命を投げ出すことが素晴らしいのではなく、そう思えることが素晴らしいと私は思っています。)
昔、某総理の問題発言の中に、「神の国発言」というものがありますが、彼はその中で、当時の教育の中にも良いことはあったと公言しているそうです。私は、当時の教育について、詳しい事実を知りませんが、こういう自己犠牲の部分に対しての発言ではないかと思います。
ただ、この精神が、当時の情勢をいっそう泥沼化していったことは、間違いない事実だとは思います。
そして、この表現に対して、不快に感じられる方も、いらっしゃるかもしれませんので、その点、お詫びいたします。
しかし、例えば、こんな話があります。
つい先日も、ニュースでやっていましたが、数年前に、琉球大学にアメリカ軍のヘリコプターが墜落しました。
この事故による犠牲者がいなかったのは、本当に良かった事だと思います。しかし、大学の校舎の上にヘリコプターが墜落、炎上しても犠牲者が出ずに済むなんて、奇跡でしょう。この事故の犠牲者0は、奇跡なのです。
この時、中に乗っていたアメリカ兵は、脱出して無事でした。
そして、この事件の数年前に、日本の自衛隊のヘリコプターが墜落する事故がありました。
この事故は、田舎で起こった事故ではありますが、田んぼに墜落したため、一般人の犠牲者は0でした。
しかし、乗っていた自衛官は、残念ながら亡くなられました。
さて、この一見、同じような事故ですが、大きな違いがあります。
それは、操縦士の生死です。
以上の内容で、あなたは、次のどの意見を支持しますか?あなたが、操縦士(事故を起こした当事者としてではなく、その他の一般操縦士)だと思って考えてください。
1.米軍の事故は、誰も犠牲にならなかったので、米軍の操縦士は正しい。
2.米軍の操縦士の脱出するという判断は、たとえ犠牲者が出ていたとしても、自分の生命を守るためにはしかたのない判断だった。
3.操縦士の生命維持のためにも、自衛隊は様々観点から、今後、訓練、装備等を見直すべきだ。
全ての意見を支持する方もいらっしゃると思いますし、どれも支持しない方もいらっしゃるでしょう。
話が中途半端になってしまいましたが、私の見解は、後日改めて書くということで、今回はここで終了させていただきます。
良ければ、皆さんの意見をコメントに残していただけませんか?お願いします。
あゆみさんから、5月27日の「ナイトとお姫さま」にご指摘がありました。
まず、ご指摘を頂いた上で、簡単にではありますが、自分なりに調べさせて頂いた結果、ここでの引き合いに、特攻隊の話を出すことは、あまり適切ではなかったかもしれません。
私自身、当時のことを深く知っているわけもありませんので、浅はかな考えであると思います。
しかし、いくら教育されたからとは言っても、会ったことのない天皇のために、自らの命を投げ出せた人が何人いたでしょうか?
以前、週間少年マガジンで、当時の特攻隊の生き残りの方を取材して、描かれた漫画が掲載されていました。(単行本化され3冊にまとめられています。また、このシリーズは現在も健在で毎年夏になると掲載されています。最近はイラク戦争、アフガニスタンなど、最近の事例が取り上げられています。)
そこで、当事者達の心情として描かれていたのは、やはり、天皇のためではなく、家族や恋人に対する思いからということでした。
また、特攻自体は、志願制であり、本人の意思であったと表現されていました。(しかし、当時、特攻を本当に断れる環境にあったかどうかは、定かではありません。)
また、天皇のため、国のためであったとしても、それは、自分以外の他者のための行動であり、そこには、自分に対しての損得感情がないため、議論上における問題はないかとは思います。
私の中での特攻というものは、そういう風に解釈していたため、このような表現をさせて頂きました。
せっかくなので、この騎士道の話をさらに、掘り下げてみたいと思います。
このマガジンのシリーズで、アメリカ軍の視点から書かれた沖縄の地上戦の話もありました。
この特攻という行為が、アメリカ軍には理解できない、未知の攻撃であるという表現がされていました。また、同時に、次々と玉砕していく日本兵に対しての、疑問と恐怖も描かれていました。
日本人とは、特にそういう自分を犠牲にしても、他人のため、自分の大切な人のために命を投げ出すことができる民族なのです。
たとえ、それが当時の教育における副産物であったとしても、それは、とても素晴らしいことだと私は思います。(命を投げ出すことが素晴らしいのではなく、そう思えることが素晴らしいと私は思っています。)
昔、某総理の問題発言の中に、「神の国発言」というものがありますが、彼はその中で、当時の教育の中にも良いことはあったと公言しているそうです。私は、当時の教育について、詳しい事実を知りませんが、こういう自己犠牲の部分に対しての発言ではないかと思います。
ただ、この精神が、当時の情勢をいっそう泥沼化していったことは、間違いない事実だとは思います。
そして、この表現に対して、不快に感じられる方も、いらっしゃるかもしれませんので、その点、お詫びいたします。
しかし、例えば、こんな話があります。
つい先日も、ニュースでやっていましたが、数年前に、琉球大学にアメリカ軍のヘリコプターが墜落しました。
この事故による犠牲者がいなかったのは、本当に良かった事だと思います。しかし、大学の校舎の上にヘリコプターが墜落、炎上しても犠牲者が出ずに済むなんて、奇跡でしょう。この事故の犠牲者0は、奇跡なのです。
この時、中に乗っていたアメリカ兵は、脱出して無事でした。
そして、この事件の数年前に、日本の自衛隊のヘリコプターが墜落する事故がありました。
この事故は、田舎で起こった事故ではありますが、田んぼに墜落したため、一般人の犠牲者は0でした。
しかし、乗っていた自衛官は、残念ながら亡くなられました。
さて、この一見、同じような事故ですが、大きな違いがあります。
それは、操縦士の生死です。
以上の内容で、あなたは、次のどの意見を支持しますか?あなたが、操縦士(事故を起こした当事者としてではなく、その他の一般操縦士)だと思って考えてください。
1.米軍の事故は、誰も犠牲にならなかったので、米軍の操縦士は正しい。
2.米軍の操縦士の脱出するという判断は、たとえ犠牲者が出ていたとしても、自分の生命を守るためにはしかたのない判断だった。
3.操縦士の生命維持のためにも、自衛隊は様々観点から、今後、訓練、装備等を見直すべきだ。
全ての意見を支持する方もいらっしゃると思いますし、どれも支持しない方もいらっしゃるでしょう。
話が中途半端になってしまいましたが、私の見解は、後日改めて書くということで、今回はここで終了させていただきます。
良ければ、皆さんの意見をコメントに残していただけませんか?お願いします。
コメント
犠牲が無かったから正しいと言うのは結果論。
2、支持する
思考する暇もない極限の状況に置かれた人の行動を容易く責めても意味はありません。
それより、事故を起こし、それを大きなものにしてしまった要因があるのなら、そちらが責められるべきです。
その多くが操縦士にあるとすれば、その点において非難されるべきでしょう。
3、支持する
必要なら常に見直し続けていくべきと思います。
自己犠牲の精神は非常に素晴らしいものです。
それが見られないということは悲しいことですが、だから劣るということはないと考えます。
他者より自分を優先させることは自然ですから。
駄長文失礼しました。
周囲の環境、もしくは受けてきた教育、その時点で得られた情報...それらを「ちゃんぽん」にした結果、常に「そうするのが、自分自身にとって心地良いから」だと思い込むようにしていますから(^_^;)
自分の存在が、何かの役に立つような代物ではない事は重々承知しております。
だから、周囲の人々が「そうする事が、かっこ良いんだ」という価値観で塗り固められた状況下においては、国なんざ守りたいヒトなんざぁ、どうでも良いです。
...ナルシストでしかないですからねぇ、私は。でもまぁ、その行為をして、他人様が、どう思われるかは、その方のご自由にって所でしょうかねぇ、やっぱり。
でも、何処から行っても、何処まで言っても、自分自身の言動は、つまるところは自分自身の「心地良さ」が、全てですかねぇ、うん。