創価学会は正か非か?
2006年5月5日 社会機会がありまして、「創価学会ってどう思う?」と聞かれました。
私自身、創価学会のことを良く知らないので、コメントしがたい部分はあるんですが、それでも、勝手な思い込みからコメントさせて頂くと、以下の感じになります。
私個人としては、全く支持しません。それは、よく聞く噂などから判断した結果です。
しかし、それは、その辺で聞く批判からではなく、それとはちょっと違った見解です。
一度、私のところにも勧誘に来たことがあるんですが、私達学生が実際に参加する部分は、私がここに書いているような事をテーマとして皆で話し合う場だと思います。
実際、私がここに書いてある内容は、独断と偏見に満ち満ちていますが、書いているテーマというのは、生きていくうえでとても大切な部分だと思っています。特に、人とのつながりという部分はとても重要な部分です。
しかし、こういった話は、普段の実生活での、コミュニケーションや、人との関わりの中から、自然と身につけていったり、考えていったりする部分だと思っています。
実際、私自身も人とのコミュニケーションの中で、様々な方々やTV、本の意見を参考にし、自分で考え導き出した考えです。
こういった内容のことは、宗教によって、人から教わるものではありません。
実生活の中で、時には困り、時には悩み、時には喜び導き出すものです。
そして、導き出した自分の考えと他の人の考えを、照らしあわそうと思い照らし合わせるのではなく、ある時、ひょんなことから、何の前ぶりもなく、他の人の意見に触れ、その時、初めて、自分の考えと照らし合わせてみるものだと思います。
もし、宗教によって布教されてしまうと、まず、自分の意見を持つ前に、人の意見を知ってしまうことになります。
それでは、不味いわけです。
あくまで、まずは自分の意見を持つことが大切なのです。
そして、もし、自分の意見を持っていたとしても、宗教による布教には問題があります。
それは、1対1で話をしているのなら良いですが、おそらく、1(布教する側)対多数(布教される側)又は、多数(布教する側)対1(布教される側)でしょう。
まず、前者であった場合、一緒に聞いている周りの人は、とにかく納得しているでしょう。そして、もし、納得していなくとも、そういう場では、納得しているふりをしていると思います。
そうなると、その場では、その布教される内容が、正しいという空気になってしまいます。
そして、後者の場合、自分の周りは、すでにそういった思想の持ち主ばかりです。そうなると、もちろん、そこの空気は、その布教される内容が、正しいという空気です。
人間は、多数意見に従う生き物です。
そうなると、その内容が正しいという錯覚におちいってしまうでしょう。
そして、簡単に洗脳されてしまうでしょう。
洗脳されてしまっては、問題です。洗脳されてしまうと、白装束でその辺をウロウロし始めたり、地下鉄にサリンをまいたりし始める可能性だってあるわけです。(これは極論ですが)
しかし、洗脳されるというのは、そういうことです。
そして、宗教が洗脳を目的としているかというと、それは違います。しかし、宗教というものは、布教する側にその気がなくても、結果的にそうなっている可能性が高いと言う事はできると思います。
話を戻しましょう。
まずは、自分の意見をもち、その上で、他の人の意見と照らし合わせ、自分の意見と、人の意見を対等な立場において、それらの意見を吟味することが大切なのです。
そうするためには、人の意見を聞くときに、「これから人の意見を聞くぞ」という心構えがあってはいけません。
あくまで、話半分くらいで話をしなければ、その意見に耳を傾けすぎ、洗脳されてしまうからです。
話す人間は、自分の考えが正しいんだとすごい勢いで話します。そして、「これから話すぞ」という気持ちでしっかり準備をしてから話すと、その勢いは倍増します。
それでは、また、洗脳されやすくなってしまいます。
あくまで、話すほうも、話半分くらいで話さなければいけません。
こう考えると、こういう事を話し合いませんか?という勧誘は、私は間違っていると考えます。
あくまで、聞くほうも、話すほうも、話半分くらいで、なんとなく考える。
そうすることがちょうど良いコミュニケーションだと考えています。
その結果、人の意見が正しいということになれば、次からは、それが自分の意見ですし、自分の意見が正しいと思えば、それからもその意見を貫けばよいわけです。たいていは、足して割るという結果になるとは思いますが。
以上のような考えから、創価学会という宗教的組織は、個人的には賛同できません。
しかし、ここで1つ思うことは、現代社会において、以上のようなコミュニケーションがしっかり取れている人がどのくらいいるのかということです。
私個人の感覚としては、ほとんどの人ができていないのではないかと思います。
そういった背景で、このようなことを訴えたところで、あまり意味はないのではないかと思います。
まずは、どう思うのかということを強制的にでも考える機会が必要なのではないかと思います。
そういう部分では、創価学会のような組織が、提案して考えさせるという部分は必要ではないのかとは思う部分はあります。
しかし、あくまで、私個人は、否定しますが。
私自身、創価学会のことを良く知らないので、コメントしがたい部分はあるんですが、それでも、勝手な思い込みからコメントさせて頂くと、以下の感じになります。
私個人としては、全く支持しません。それは、よく聞く噂などから判断した結果です。
しかし、それは、その辺で聞く批判からではなく、それとはちょっと違った見解です。
一度、私のところにも勧誘に来たことがあるんですが、私達学生が実際に参加する部分は、私がここに書いているような事をテーマとして皆で話し合う場だと思います。
実際、私がここに書いてある内容は、独断と偏見に満ち満ちていますが、書いているテーマというのは、生きていくうえでとても大切な部分だと思っています。特に、人とのつながりという部分はとても重要な部分です。
しかし、こういった話は、普段の実生活での、コミュニケーションや、人との関わりの中から、自然と身につけていったり、考えていったりする部分だと思っています。
実際、私自身も人とのコミュニケーションの中で、様々な方々やTV、本の意見を参考にし、自分で考え導き出した考えです。
こういった内容のことは、宗教によって、人から教わるものではありません。
実生活の中で、時には困り、時には悩み、時には喜び導き出すものです。
そして、導き出した自分の考えと他の人の考えを、照らしあわそうと思い照らし合わせるのではなく、ある時、ひょんなことから、何の前ぶりもなく、他の人の意見に触れ、その時、初めて、自分の考えと照らし合わせてみるものだと思います。
もし、宗教によって布教されてしまうと、まず、自分の意見を持つ前に、人の意見を知ってしまうことになります。
それでは、不味いわけです。
あくまで、まずは自分の意見を持つことが大切なのです。
そして、もし、自分の意見を持っていたとしても、宗教による布教には問題があります。
それは、1対1で話をしているのなら良いですが、おそらく、1(布教する側)対多数(布教される側)又は、多数(布教する側)対1(布教される側)でしょう。
まず、前者であった場合、一緒に聞いている周りの人は、とにかく納得しているでしょう。そして、もし、納得していなくとも、そういう場では、納得しているふりをしていると思います。
そうなると、その場では、その布教される内容が、正しいという空気になってしまいます。
そして、後者の場合、自分の周りは、すでにそういった思想の持ち主ばかりです。そうなると、もちろん、そこの空気は、その布教される内容が、正しいという空気です。
人間は、多数意見に従う生き物です。
そうなると、その内容が正しいという錯覚におちいってしまうでしょう。
そして、簡単に洗脳されてしまうでしょう。
洗脳されてしまっては、問題です。洗脳されてしまうと、白装束でその辺をウロウロし始めたり、地下鉄にサリンをまいたりし始める可能性だってあるわけです。(これは極論ですが)
しかし、洗脳されるというのは、そういうことです。
そして、宗教が洗脳を目的としているかというと、それは違います。しかし、宗教というものは、布教する側にその気がなくても、結果的にそうなっている可能性が高いと言う事はできると思います。
話を戻しましょう。
まずは、自分の意見をもち、その上で、他の人の意見と照らし合わせ、自分の意見と、人の意見を対等な立場において、それらの意見を吟味することが大切なのです。
そうするためには、人の意見を聞くときに、「これから人の意見を聞くぞ」という心構えがあってはいけません。
あくまで、話半分くらいで話をしなければ、その意見に耳を傾けすぎ、洗脳されてしまうからです。
話す人間は、自分の考えが正しいんだとすごい勢いで話します。そして、「これから話すぞ」という気持ちでしっかり準備をしてから話すと、その勢いは倍増します。
それでは、また、洗脳されやすくなってしまいます。
あくまで、話すほうも、話半分くらいで話さなければいけません。
こう考えると、こういう事を話し合いませんか?という勧誘は、私は間違っていると考えます。
あくまで、聞くほうも、話すほうも、話半分くらいで、なんとなく考える。
そうすることがちょうど良いコミュニケーションだと考えています。
その結果、人の意見が正しいということになれば、次からは、それが自分の意見ですし、自分の意見が正しいと思えば、それからもその意見を貫けばよいわけです。たいていは、足して割るという結果になるとは思いますが。
以上のような考えから、創価学会という宗教的組織は、個人的には賛同できません。
しかし、ここで1つ思うことは、現代社会において、以上のようなコミュニケーションがしっかり取れている人がどのくらいいるのかということです。
私個人の感覚としては、ほとんどの人ができていないのではないかと思います。
そういった背景で、このようなことを訴えたところで、あまり意味はないのではないかと思います。
まずは、どう思うのかということを強制的にでも考える機会が必要なのではないかと思います。
そういう部分では、創価学会のような組織が、提案して考えさせるという部分は必要ではないのかとは思う部分はあります。
しかし、あくまで、私個人は、否定しますが。
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